史記 / 匈奴列伝
其秋,單于怒渾邪王、休屠王居西方爲漢所殺虜數萬人,欲召誅之。渾邪王與休屠王恐,謀降漢,漢使驃騎將軍往迎之。渾邪王殺休屠王,并將其眾降漢。凡四萬餘人,號十萬。於是漢已得渾邪王,則隴西、北地、河西益少胡寇,徙關東貧民處所奪匈奴河南、新秦中以實之,而減北地以西戍卒半。其明年,匈奴入右北平、定襄各數萬騎,殺略千餘人而去。其明年春,漢謀曰「翕侯信爲單于計,居幕北,以爲漢兵不能至」。乃粟馬發十萬騎,私負從馬凡十四萬匹,糧重不與焉。令大將軍青、驃騎將軍去病中分軍,大將軍出定襄,驃騎將軍出代,咸約絕幕擊匈奴。單于聞之,遠其輜重,以精兵待於幕北。與漢大將軍接戰一日,會暮,大風起,漢兵縱左右翼圍單于。單于自度戰不能如漢兵,單于遂獨身與壯騎數百潰漢圍西北遁走。漢兵夜追不得。行斬捕匈奴首虜萬九千級,北至闐顏山趙信城而還。單于之遁走,其兵往往與漢兵相亂而隨單于。單于久不與其大眾相得,其右谷蠡王以爲單于死,乃自立爲單于。真單于復得其眾,而右谷蠡王乃去其單于號,復爲右谷蠡王。
新字:其秋,単于怒渾邪王、休屠王居西方為漢所殺虜数万人,欲召誅之。渾邪王与休屠王恐,謀降漢,漢使驃騎将軍往迎之。渾邪王殺休屠王,并将其衆降漢。凡四万余人,号十万。於是漢已得渾邪王,則隴西、北地、河西益少胡寇,徙関東貧民処所奪匈奴河南、新秦中以実之,而減北地以西戍卒半。其明年,匈奴入右北平、定襄各数万騎,殺略千余人而去。其明年春,漢謀曰「翕侯信為単于計,居幕北,以為漢兵不能至」。乃粟馬発十万騎,私負従馬凡十四万匹,糧重不与焉。令大将軍青、驃騎将軍去病中分軍,大将軍出定襄,驃騎将軍出代,咸約絶幕撃匈奴。単于聞之,遠其輜重,以精兵待於幕北。与漢大将軍接戦一日,会暮,大風起,漢兵縦左右翼囲単于。単于自度戦不能如漢兵,単于遂独身与壮騎数百潰漢囲西北遁走。漢兵夜追不得。行斬捕匈奴首虜万九千級,北至闐顔山趙信城而還。単于之遁走,其兵往往与漢兵相乱而随単于。単于久不与其大衆相得,其右谷蠡王以為単于死,乃自立為単于。真単于復得其衆,而右谷蠡王乃去其単于号,復為右谷蠡王。
書き下し
其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢の殺虜する所と為ること数万人なるを怒り、召して之を誅せんと欲す。渾邪王と休屠王と恐れ、漢に降らんことを謀る。漢驃騎将軍をして往きて之を迎へしむ。渾邪王休屠王を殺し、并せて其の衆を将ゐて漢に降る。凡そ四万余人、号して十万。是に於て漢已に渾邪王を得、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なし。関東の貧民を徙して奪ふ所の匈奴の河南・新秦中に処らしめて以て之を実たし、而して北地以西の戍卒の半ばを減ず。其の明年、匈奴右北平・定襄に入ること各々数万騎、千余人を殺略して去る。其の明年春、漢謀りて曰く「翕侯信単于の為に計り、幕北に居り、以為へらく漢の兵至る能はずと」と。乃ち馬に粟して十万騎を発し、私負従の馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病をして軍を中分せしめ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸約して幕を絶りて匈奴を撃たしむ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会々暮れ、大風起こる。漢の兵左右の翼を縦ちて単于を囲む。単于自ら度るに戦ふこと漢の兵に如く能はず。単于遂に独り身壮騎数百と漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢の兵夜追ひて得ず。行くゆく匈奴の首虜を斬捕すること万九千級、北のかた闐顔山の趙信城に至りて還る。単于の遁走するや、其の兵往往にして漢の兵と相乱れて単于に随ふ。単于久しく其の大衆と相得ず。其の右谷蠡王以為へらく単于死せりと。乃ち自ら立ちて単于と為る。真の単于復た其の衆を得たり。而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。
現代語訳
その秋、単于は、西方にいる渾邪王と休屠王が漢に数万人を殺されたり捕虜にされたりしたことに怒り、二人を呼び寄せて誅殺しようとした。渾邪王と休屠王は恐れ、漢に降伏しようと謀った。漢は驃騎将軍(霍去病)を遣わして彼らを迎えさせた。渾邪王は休屠王を殺し、その部衆も合わせて率いて漢に降伏した。全部で四万人余りで、十万と称した。こうして漢が渾邪王を得ると、隴西・北地・河西では匈奴の侵攻がいっそう少なくなった。関東の貧しい民を移住させて、匈奴から奪った河南や新秦中に住まわせてその地を満たし、北地より西の守備兵を半分に減らした。その翌年、匈奴は右北平・定襄にそれぞれ数万騎で侵入し、千人余りを殺したり連れ去ったりして去った。その翌年の春、漢は協議して言った。「翕侯趙信が単于のために策を立て、砂漠の北に居を構えて、漢の兵はそこまで来られないと考えている」。そこで馬に穀物を与えて十万騎を動員し、私的に荷を負って従う馬が全部で十四万頭、食糧や重い荷物を運ぶ分はこれに含まれなかった。大将軍衛青と驃騎将軍霍去病に軍を二分させ、大将軍は定襄から、驃騎将軍は代から出撃させ、ともに砂漠を越えて匈奴を攻撃する約束をさせた。単于はこれを聞くと、輜重を遠くへ移し、精兵をもって砂漠の北で待ち構えた。漢の大将軍と一日交戦したところで、ちょうど日が暮れ、大風が吹き起こった。漢の兵は左右の翼を広げて単于を包囲した。単于は、戦っても漢の兵にはかなわないと判断し、ついに単身で勇壮な騎兵数百と漢の包囲を突破して、西北へ逃げ去った。漢の兵は夜に追ったが捕らえられなかった。進みながら匈奴の首や捕虜一万九千を斬ったり捕らえたりし、北は闐顔山の趙信城まで至って引き返した。単于が逃げた時、その兵はあちこちで漢の兵と入り乱れながら単于の後を追った。単于は長い間その大軍と合流できなかったので、右谷蠡王は単于が死んだものと考え、自ら単于となった。本当の単于が再びその部衆を取り戻すと、右谷蠡王は単于の称号を取り下げ、もとの右谷蠡王に戻った。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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史記 衛将軍驃騎列伝渾邪王を万戸に封じ、漯陰侯と為す。其の裨王呼毒尼を封じて下摩侯と為し、鷹庇を煇渠侯と為し、禽を河綦侯と為し、大当戸銅離を常楽侯と為す。是に於て天子驃騎の功を嘉して曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐて匈奴の西域王渾邪を攻む。王及び厥の衆萌咸相奔る。率ゐるに軍糧を以て接食し、并せて控弦万有余人を将ゐ、獟駻を誅し、首虜八千余級を獲、異国の王三十二人を降し、戦士は傷を離れず、十万の衆咸懐き集まり服す。仍りに之と労し、爰に河塞に及び、庶幾はくは患ひ無く、幸ひに既に永く綏んぜん。千七百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。隴西・北地・上郡の戍卒の半ばを減じ、以て天下の繇を寛くす。居ること頃之、乃ち降る者を辺の五郡の故塞の外に分徙す。而して皆河南に在り、其の故俗に因りて、属国と為す。其の明年、匈奴右北平・定襄に入り、漢の千余人を殺略す。其の明年、天子諸将と議して曰く、「翕侯趙信単于の為に計を画し、常に以為へらく漢の兵は幕を度りて軽しく留まる能はずと。今大いに士卒を発せば、其の勢必ず欲する所を得ん」と。是の歳なり。春、上大将軍青・驃騎将軍去病をして各々五万騎を将ゐしめ、歩兵の転ずる者軍に踵ぐこと数十万。而して敢へて力戦して深く入るの士は皆驃騎に属す。驃騎始め為に定襄より出で、単于に当たらんとす。捕虜言ふ、単于東に在りと。乃ち更めて驃騎をして代郡より出でしめ、大将軍をして定襄より出でしむ。郎中令前将軍と為り、太僕左将軍と為り、主爵趙食其右将軍と為り、平陽侯襄後将軍と為り、皆大将軍に属す。兵即ち幕を度る。人馬凡そ五万騎、驃騎等と咸匈奴の単于を撃つ。趙信単于の為に謀りて曰く、「漢の兵既に幕を度らば、人馬罷れん。匈奴坐して虜を収むべきのみ」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝乃ち悉く其の輜重を遠く北にし、皆精兵を以て幕北に待つ。而して適々大将軍の軍塞を出づること千余里にして、単于の兵陳して待つを見るに値ふ。是に於て大将軍武剛車をして自ら環りて営と為さしめ、而して五千騎を縦ちて往きて匈奴に当たらしむ。匈奴も亦縦つこと万騎可り。会々日且に入らんとし、大風起こり、沙礫面を撃ち、両軍相見ず。漢益々左右の翼を縦ちて単于を繞る。単于漢の兵の多くして、士馬尚ほ彊きを視、戦ひて匈奴利あらず。薄莫、単于遂に六驘に乗り、壮騎数百可りと、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去る。時に已に昏く、漢と匈奴と相紛挐し、殺傷大いに当たる。漢の軍の左校虜を捕へて言ふ、単于未だ昏れざるに去れりと。漢の軍因りて軽騎を発して夜之を追ひ、大将軍の軍因りて其の後に随ふ。匈奴の兵も亦散走す。遅明、行くこと二百余里、単于を得ず。頗る首虜を捕斬すること万余級、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積粟を得て軍に食はす。軍留まること一日にして還り、悉く其の城の余粟を焼きて以て帰る。大将軍の単于と会するや、前将軍広・右将軍食其の軍別に東道より従ひ、或いは道を失ひ、単于を撃つに後る。大将軍引き還りて幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得たり。大将軍使をして帰りて報ぜしめんと欲し、長史をして前将軍広を簿責せしむ。広自殺す。右将軍至り、吏に下され、贖ひて庶人と為る。大将軍の軍塞に入る。凡そ首虜を斬捕すること万九千級。是の時匈奴の衆単于を失ふこと十余日。右谷蠡王之を聞き、自ら立ちて単于と為る。単于後に其の衆を得、右王乃ち単于の号を去る。驃騎将軍も亦五万騎を将ゐ、車重大将軍の軍と等し。而して裨将無し。
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史記 衛将軍驃騎列伝鷹撃司馬破奴再び驃騎将軍に従ひて遬濮王を斬り、稽沮王を捕へ、千騎将王・王母各々一人、王子以下四十一人を得、捕虜三千三百三十人、前行して虜を捕ふること千四百人。千五百戸を以て破奴を封じて従驃侯と為す。校尉句王高不識、驃騎将軍に従ひて呼于屠王の王子以下十一人を捕へ、捕虜千七百六十八人。千一百戸を以て不識を封じて宜冠侯と為す。校尉僕多功有り、封じて煇渠侯と為す」と。合騎侯敖行留して驃騎と会せざるに坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。諸宿将の将ゐる所の士馬兵も亦驃騎に如かず。驃騎の将ゐる所は常に選ばる。然れども亦敢へて深く入り、常に壮騎と其の大軍に先んず。軍も亦天幸有り、未だ嘗て困絶せざるなり。然り而して諸宿将常に留落して遇はざるに坐す。此に由りて驃騎日に以て親貴せられ、大将軍に比す。其の秋、単于渾邪王の西方に居りて数々漢の破る所と為り、数万人を亡ふを怒る。驃騎の兵を以てなり。単于怒り、渾邪王を召して誅せんと欲す。渾邪王休屠王等と謀りて漢に降らんと欲し、人をして先づ辺に要せしむ。是の時大行李息城を河上に将す。渾邪王の使を得て、即ち伝を馳せて以て聞す。天子之を聞き、是に於て其の詐り降りて辺を襲はんことを恐れ、乃ち驃騎将軍をして兵を将ゐて往きて之を迎へしむ。驃騎既に河を渡り、渾邪王の衆と相望む。渾邪王の裨将漢の軍を見て多く降らざらんと欲する者あり、頗る遁れ去る。驃騎乃ち馳せ入りて渾邪王と相見え、其の亡げんと欲する者八千人を斬り、遂に独り渾邪王を遣はして伝に乗りて先に行在所に詣らしめ、尽く其の衆を将ゐて河を渡る。降る者数万、号して十万と称す。既に長安に至り、天子の賞賜する所以の者数十巨万なり。
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史記 匈奴列伝漢の驃騎将軍の代より出づること二千余里、左賢王と接戦す。漢の兵胡の首虜を得ること凡そ七万余級。左賢王の将皆遁走す。驃騎狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還る。是の後匈奴遠く遁れ、而して幕南に王庭無し。漢河を度り朔方より以西令居に至るまで、往往にして渠を通じ田を置き、官吏卒五六万人、稍く蚕食し、地は匈奴以北に接す。初め、漢の両将軍大いに出でて単于を囲み、殺虜する所八九万。而して漢の士卒の物故するも亦数万、漢の馬の死する者十余万。匈奴病むと雖も、遠く去る。而して漢も亦馬少なく、以て復た往く無し。匈奴趙信の計を用ひ、使を漢に遣はし、好辞もて和親を請ふ。天子其の議を下す。或いは和親を言ひ、或いは遂に之を臣とせよと言ふ。丞相長史任敞曰く、「匈奴新たに破れ、困しむ。宜しく外臣と為して、辺に朝請せしむべし」と。漢任敞を単于に使はす。単于敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣らず。是より先、漢も亦降る所の匈奴の使者有り。単于も亦輒ち漢の使を留めて相当たらしむ。漢方に復た士馬を収む。会々驃騎将軍去病死す。是に於て漢久しく北のかた胡を撃たず。数歳にして、伊稚斜単于立ちて十三年にして死す。子烏維立ちて単于と為る。是の歳は、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ち、而して漢の天子始めて出でて郡県を巡る。其の後漢方に南のかた両越を誅し、匈奴を撃たず。匈奴も亦辺に侵入せず。烏維単于立ちて三年、漢已に南越を滅ぼし、故の太僕賀をして万五千騎を将ゐて九原より出づること二千余里、浮苴井に至りて還らしむ。匈奴の一人をも見ず。漢又故の従驃侯趙破奴をして万余騎もて令居より出づること数千里、匈河水に至りて還らしむ。亦匈奴の一人をも見ず。
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史記 匈奴列伝単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
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