史記 / 周本紀
韓相國大怒曰:「吾毋徵甲與粟於周亦已多矣,何故與周高都也?」代曰:「與周高都,是周折而入於韓也,秦聞之必大怒忿周,即不通周使,是以獘高都得完周也。曷為不與?」相國曰:「善。」果與周高都。三十四年,蘇厲謂周君曰:「秦破韓、魏,撲師武,北取趙藺、離石者,皆白起也。是善用兵,又有天命。今又將兵出塞攻梁,梁破則周危矣。君何不令人說白起乎?曰『楚有養由基者,善射者也。去柳葉百步而射之,百發而百中之。左右觀者數千人,皆曰善射。有一夫立其旁,曰「善,可教射矣」。養由基怒,釋弓搤劍,曰「客安能教我射乎」?客曰「非吾能教子支左詘右也。夫去柳葉百步而射之,百發而百中之,不以善息,少焉氣衰力倦,弓撥矢鉤,一發不中者,百發盡息」。今破韓、魏,撲師武,北取趙藺、離石者,公之功多矣。今又將兵出塞,過兩周,倍韓,攻梁,一舉不得,前功盡棄。公不如稱病而無出』。」四十二年,秦破華陽約。馬犯謂周君曰:「請令梁城周。」乃謂梁王曰:「周王病若死,則犯必死矣。犯請以九鼎自入於王,王受九鼎而圖犯。」梁王曰:「善。」遂與之卒,言戍周。因謂秦王曰:「梁非戍周也,將伐周也。王試出兵境以觀之。」秦果出兵。又謂梁王曰:「周王病甚矣,犯請後可而復之。
新字:韓相国大怒曰:「吾毋徴甲与粟於周亦已多矣,何故与周高都也?」代曰:「与周高都,是周折而入於韓也,秦聞之必大怒忿周,即不通周使,是以獘高都得完周也。曷為不与?」相国曰:「善。」果与周高都。三十四年,蘇厲謂周君曰:「秦破韓、魏,撲師武,北取趙藺、離石者,皆白起也。是善用兵,又有天命。今又将兵出塞攻梁,梁破則周危矣。君何不令人説白起乎?曰『楚有養由基者,善射者也。去柳葉百歩而射之,百発而百中之。左右観者数千人,皆曰善射。有一夫立其旁,曰「善,可教射矣」。養由基怒,釈弓搤剣,曰「客安能教我射乎」?客曰「非吾能教子支左詘右也。夫去柳葉百歩而射之,百発而百中之,不以善息,少焉気衰力倦,弓撥矢鉤,一発不中者,百発尽息」。今破韓、魏,撲師武,北取趙藺、離石者,公之功多矣。今又将兵出塞,過両周,倍韓,攻梁,一舉不得,前功尽棄。公不如称病而無出』。」四十二年,秦破華陽約。馬犯謂周君曰:「請令梁城周。」乃謂梁王曰:「周王病若死,則犯必死矣。犯請以九鼎自入於王,王受九鼎而図犯。」梁王曰:「善。」遂与之卒,言戍周。因謂秦王曰:「梁非戍周也,将伐周也。王試出兵境以観之。」秦果出兵。又謂梁王曰:「周王病甚矣,犯請後可而復之。
書き下し
韓の相国大いに怒りて曰く、「吾甲と粟とを周に徴する毋きも亦已に多し、何の故に周に高都を与へんや」と。代曰く、「周に高都を与ふれば、是れ周折れて韓に入るなり。秦之を聞かば必ず大いに周を怒忿し、即ち周の使を通ぜざらん。是れ獘高都を以て完周を得るなり。曷為れぞ与へざる」と。相国曰く、「善し」と。果たして周に高都を与ふ。三十四年、蘇厲周君に謂ひて曰く、「秦韓・魏を破り、師武を撲ち、北のかた趙の藺・離石を取る者は、皆白起なり。是れ善く兵を用ゐ、又天命有り。今又将に兵を将ゐて塞を出でて梁を攻めんとす。梁破るれば則ち周危ふし。君何ぞ人をして白起に説かしめざる。曰く、『楚に養由基なる者有り、善く射る者なり。柳葉を去ること百歩にして之を射、百発して百之に中つ。左右観る者数千人、皆善く射ると曰ふ。一夫有りて其の旁らに立ち、曰く、「善し、射を教ふ可し」と。養由基怒り、弓を釈きて剣を搤り、曰く、「客安んぞ能く我に射を教へんや」と。客曰く、「吾能く子に左を支へ右を詘ぐることを教ふるに非ず。夫れ柳葉を去ること百歩にして之を射、百発して百之に中つるも、善きを以て息まずんば、少焉にして気衰へ力倦み、弓撥ね矢鉤り、一発も中たらざれば、百発尽く息む」と。今韓・魏を破り、師武を撲ち、北のかた趙の藺・離石を取るは、公の功多し。今又兵を将ゐて塞を出で、両周を過ぎ、韓に倍き、梁を攻め、一挙にして得ずんば、前功尽く棄てん。公病と称して出づる無きに如かず』と」と。四十二年、秦華陽の約を破る。馬犯周君に謂ひて曰く、「請ふ梁をして周に城かしめん」と。乃ち梁王に謂ひて曰く、「周王病みて若し死せば、則ち犯必ず死せん。犯請ふ九鼎を以て自ら王に入れん、王九鼎を受けて犯を図れ」と。梁王曰く、「善し」と。遂に之に卒を与へ、周を戍ると言ふ。因りて秦王に謂ひて曰く、「梁は周を戍るに非ず、将に周を伐たんとするなり。王試みに兵を境に出だして以て之を観よ」と。秦果たして兵を出だす。又梁王に謂ひて曰く、「周王の病甚だし、犯請ふ後に可なれば之を復せん。
現代語訳
韓の相国は大いに怒って言った。「周に甲冑と穀物を求めないだけでも十分に譲歩しているのに、どうして周に高都まで与えねばならないのか。」蘇代は言った。「周に高都を与えれば、周は屈して韓の側につくことになる。秦がこれを聞けば必ず周に激怒し、周の使者を受け付けなくなるであろう。つまり荒れた高都一つで、周をまるごと手に入れることになる。どうして与えないのか。」相国は言った。「なるほど。」果たして周に高都を与えた。三十四年、蘇厲は周君に言った。「秦が韓・魏を破り、魏の将軍師武を打ち負かし、北は趙の藺・離石を取ったのは、みな白起の働きである。彼は戦がうまく、そのうえ天運もある。今また兵を率いて関所を出て梁(魏)を攻めようとしている。梁が破られれば周は危うい。君はなぜ人を遣わして白起を説得させないのか。こう言わせるのである。『楚に養由基という弓の名手がいた。柳の葉から百歩離れて射て、百発百中であった。周りで見ていた数千人がみな「見事だ」と言った。ところがそばに立っていた一人の男が「見事だ。これなら射術を教えてやれる」と言った。養由基は怒って弓を置き、剣を握って言った。「おまえごときがどうして私に射術を教えられるのか。」男は言った。「私はあなたに左手で弓を支え右手で弦を引く技を教えようというのではない。柳の葉から百歩離れて射て百発百中でも、うまくいっているうちにやめておかなければ、やがて気力が衰え力が尽きて、弓が狂い矢が曲がり、一本でも外れれば、それまでの百発の名声がすべて消えてしまう。」今、韓・魏を破り、師武を打ち負かし、北は趙の藺・離石を取ったのは、あなたの功績が大きい。今また兵を率いて関所を出て、東周・西周を通り過ぎ、韓を背にして梁を攻め、もし一挙に勝てなければ、これまでの功績がすべて無駄になる。病気と称して出陣しないにこしたことはない』と。」四十二年、秦は華陽で結んだ約束を破った。馬犯は周君に言った。「どうか私に、梁に周の城を築かせるよう取り計らわせてほしい。」そして梁王に言った。「周王は病気で、もし亡くなれば私も必ず死ぬことになる。私は九鼎を持って王のもとに身を寄せたい。王は九鼎を受け取って、私のことを取り計らってほしい。」梁王は「よかろう」と言った。そして馬犯に兵を与え、周を守るためだと称した。馬犯はそこで秦王に言った。「梁は周を守るのではない。周を討とうとしているのだ。王は試しに国境に兵を出して様子を見てはどうか。」秦は果たして兵を出した。馬犯はまた梁王に言った。「周王の病は重い。私はのちに都合がよくなったら、改めて(九鼎の件を)お返事したい。
解説
関連する章句
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戦国策・蘇厲謂周君蘇厲周君に謂ひて曰く、「韓、魏を敗り、犀武を殺し、趙を攻め、藺、離石、祁を取る者は、皆白起なり。是れ兵を用ふるに攻め、又天命有るなり。今梁を攻めば、梁必ず破れ、破るれば則ち周危ふし、君止むるに若かず」と。白起に謂ひて曰く、「楚に養由基なる者有り、射を善くす。柳葉を去ること百歩にしてこれを射るに、百発百中す。左右皆善しと曰ふ。一人過ぎて曰く、『善く射る、教へて射せしむべきなり』と。養由基曰く、『人皆善しと曰ふに、子乃ち教へて射せしむべしと曰ふ、子何ぞ我に代りてこれを射ざる』と。客曰く、『我子に左を支へ右を屈するを教ふる能はず。夫れ柳葉を射る者、百発百中すれども、已めて善く息はざれば、少焉にして気力倦み、弓撥ち矢鉤がり、一発中らずんば、前功尽く廢せん』と。今公韓、魏を破り、犀武を殺し、而して北のかた趙を攻め、藺、離石、祁を取る者は、公なり。公の功甚だ多し。今公また秦の兵を以て塞を出で、兩周を過ぎ、韓を踐みて以て梁を攻む、一たび攻めて得ずんば、前功尽く滅せん、公稱病して出でざるに若かず」と。
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史記 周本紀周其の解く可からざるを知らば、必ず秦に入らん。此れ秦の為に周を取るの精なる者なり。王の為に計る者は、周秦に於てするも因りて之を善しとし、秦に於てせざるも亦之を善しと言ひ、以て之を秦に疏ならしめん。周秦に絶たば、必ず郢に入らん」と。秦道を両周の間に借り、将に以て韓を伐たんとす。周恐る、之を借さば韓を畏れ、借さずんば秦を畏る。史厭周君に謂ひて曰く、「何ぞ人をして韓の公叔に謂はしめて曰はざる、『秦の敢へて周を絶ちて韓を伐つ者は、東周を信ずればなり。公何ぞ周に地を与へ、質を発して之を楚に使はしめざる』と。秦必ず楚を疑ひて周を信ぜず、是れ韓伐たれざるなり。又秦に謂ひて曰はん、『韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり。周敢へて受けずんばあらず』と。秦必ず辞無くして周をして受けざらしめん。是れ地を韓に受けて秦に聴くなり」と。秦西周の君を召す。西周の君往くことを悪む。故に人をして韓王に謂はしめて曰く、「秦西周の君を召すは、将に以て王の南陽を攻めしめんとするなり。王何ぞ兵を南陽に出ださざる。周君将に以て辞を秦に為さんとす。周君秦に入らずんば、秦必ず敢へて河を踰えて南陽を攻めざらん」と。東周西周と戦ひ、韓西周を救ふ。或ひと東周の為に韓王に説きて曰く、「西周は故の天子の国にして、名器重宝多し。王兵を案じて出だす毋くんば、以て東周に徳とす可く、而して西周の宝必ず以て尽くす可し」と。王赧成君に謂ふ。楚雍氏を囲む。韓甲と粟とを東周に徴す。東周の君恐れ、蘇代を召して之に告ぐ。代曰く、「君何ぞ是を患へん。臣能く韓をして甲と粟とを周に徴する毋からしめ、又能く君の為に高都を得ん」と。周君曰く、「子苟も能くせば、請ふ国を以て子に聴かん」と。代韓の相国に見えて曰く、「楚雍氏を囲む、期は三月なり。今五月にして抜く能はず、是れ楚病めるなり。今相国乃ち甲と粟とを周に徴す、是れ楚に病めるを告ぐるなり」と。韓の相国曰く、「善し。使者已に行けり」と。代曰く、「何ぞ周に高都を与へざる」と。
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史記 楚世家韓嘗て二十万の衆を以て晋の城下に辱めらる。鋭士死し、中士傷つき、而して晋抜けず。公の百韓無くして以て周を図るは、此れ天下の知る所なり。夫れ怨みを両周に結びて以て騶・魯の心を塞ぎ、交はりを斉に絶ち、声を天下に失はば、其の事を為すこと危ふし。夫れ両周を危ふくして以て三川を厚くせば、方城の外必ず韓の為に弱められん。何を以て其の然るを知る。西周の地は、長きを絶ちて短きを補ふも、百里に過ぎず。名は天下の共主為るも、其の地を裂くも以て国を肥やすに足らず、其の衆を得るも以て兵を勁くするに足らず。之を攻むること無しと雖も、名は君を弑すと為す。然り而して事を好むの君、攻むるを喜ぶの臣、号を発し兵を用ふるに、未だ嘗て周を以て終始と為さざるはあらず。是れ何ぞや。祭器の焉に在るを見て、器の至らんことを欲して君を弑するの乱を忘るればなり。今韓器の楚に在るを以て、臣恐らくは天下器を以て楚を讎とせん。臣請ふ之を譬へん。夫れ虎の肉は臊く、其の兵は身を利す。人猶ほ之を攻む。若し沢中の麋をして虎の皮を蒙らしめば、人の之を攻むること必ず虎に万せん。楚の地を裂かば、以て国を肥やすに足り、楚の名を詘(くじ)かば、以て主を尊ぶに足る。今子将に以て天下の共主を誅残し、三代の伝器に居り、三翮六翼を呑みて、以て世主に高ぶらんと欲す。貪に非ずして何ぞ。周書に曰く『起たんと欲して先んずること無かれ』と。故に器南すれば則ち兵至らん」と。是に於て楚の計輟みて行はれず。十九年、秦楚を伐つ。楚の軍敗れ、上庸・漢北の地を割きて秦に予ふ。二十年、秦の将白起我が西陵を抜く。二十一年、秦の将白起遂に我が郢を抜き、先王の墓夷陵を焼く。楚の襄王の兵散じ、遂に復た戦はず、東北のかた陳城に保つ。二十二年、秦復た我が巫・黔中郡を抜く。二十三年、襄王乃ち東地の兵を収め、十余万を得て、復た西のかた秦の抜く所の我が江旁の十五邑を取りて以て郡と為し、秦を距ぐ。
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戦国策・雍氏之役雍氏の役、韓甲と粟とを周に徵す。周君これを患ひ、蘇代に告ぐ。蘇代曰く、「何ぞ患へん。代能く君の為に韓をして甲と粟とを周に徵せしめず、又能く君の為に高都を得しめん」と。周君大いに悅びて曰く、「子苟くも能くせば、寡人請ふ国を以て聴かん」と。蘇代遂に往きて韓の相国公中に見えて曰く、「公楚の計を聞かざるか。昭應楚王に謂ひて曰く、『韓氏兵に罷れ、倉廩空し、以て城を守る無し、吾これを飢に収めん、一月を過ぎずして必ずこれを拔かん』と。今雍氏を圍むこと五月にして拔く能はず、是れ楚の病なり。楚王始め昭應の計を信ぜざりしが、今公乃ち甲及び粟を周に徵す、此れ楚の病なるを告ぐるなり。昭應これを聞けば、必ず楚王に勧めて兵を益し雍氏を守らしめ、雍氏必ず拔かれん」と。公中曰く、「善し。然れども吾使者已に行けり」と。代曰く、「公何ぞ高都を以て周に与へざる」と。公中怒りて曰く、「吾甲と粟とを周に徵する無きも、亦已に多し。何為れぞ高都を与へん」と。代曰く、「これに高都を与ふれば、則ち周必ず折れて韓に入らん、秦これを聞かば必ず大いに怒りて、周の節を焚き、其の使を通ぜず、是れ公弊れたる高都を以て完き周を得るなり、何ぞ与へざる」と。公中曰く、「善し」と。甲と粟とを周に徵せずして高都を与ふ、楚卒に雍氏を拔かずして去る。
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史記 穰侯列伝明年、穣侯、白起・客卿胡陽と復た趙・韓・魏を攻め、芒卯を華陽の下に破り、斬首十万、魏の巻・蔡陽・長社、趙氏の観津を取る。且つ趙に観津を与へ、趙に益すに兵を以てし、斉を伐たんとす。斉の襄王懼れ、蘇代をして斉の為に陰かに穣侯に書を遺らしめて曰く、「臣、往来する者の言ふを聞くに曰く『秦将に趙に甲四万を益して以て斉を伐たんとす』と。臣竊かにこれを敝邑の王に必して曰く『秦王は明にして計に熟し、穣侯は智にして事に習ふ、必ず趙に甲四万を益して以て斉を伐たざらん』と。是れ何ぞや。夫れ三晋の相与するや、秦の深讎なり。百たび相背き、百たび相欺くも、不信と為さず、無行と為さず。今、斉を破りて以て趙を肥やす。趙は秦の深讎なり、秦に利あらず。此れ一なり。秦の謀る者は必ず曰はん『斉を破り、晋・楚を獘れしめて、而る後に晋・楚の勝を制せん』と。夫れ斉は罷国なり、天下を以て斉を攻むるは、千鈞の弩を以て潰癕を決するが如し、必ず死せん、安んぞ能く晋・楚を獘れしめん。此れ二なり。秦少しく兵を出だせば、則ち晋・楚信ぜざるなり。多く兵を出だせば、則ち晋・楚は秦に制せらると為す。斉恐れて、秦に走らずんば、必ず晋・楚に走らん。此れ三なり。秦、斉を割きて以て晋・楚に啖はせ、晋・楚これを案ずるに兵を以てせば、秦反りて敵を受けん。此れ四なり。是れ晋・楚は秦を以て斉を謀り、斉を以て秦を謀るなり。何ぞ晋・楚の智にして秦・斉の愚なるや。此れ五なり。故に安邑を得て以てこれに善く事ふれば、また必ず患ひ無からん。秦安邑を有たば、韓氏必ず上党無からん。天下の腸胃を取ると、兵を出だしてその反らざるを懼るると、孰れか利ある。臣故に曰く、秦王は明にして計に熟し、穣侯は智にして事に習ふ、必ず趙に甲四万を益して以て斉を代たざらんと」と。是に於いて穣侯行かず、兵を引きて帰る。
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