史記 / 匈奴列伝
而通直道,自九原至雲陽,因邊山險塹谿谷可繕者治之,起臨洮至遼東萬餘里。又度河據陽山北假中。當是之時,東胡彊而月氏盛。匈奴單于曰頭曼,頭曼不勝秦,北徙。十餘年而蒙恬死,諸侯畔秦,中國擾亂,諸秦所徙適戍邊者皆復去,於是匈奴得寬,復稍度河南與中國界於故塞。單于有太子名冒頓。後有所愛閼氏,生少子,而單于欲廢冒頓而立少子,乃使冒頓質於月氏。冒頓既質於月氏,而頭曼急擊月氏。月氏欲殺冒頓,冒頓盜其善馬,騎之亡歸。頭曼以爲壯,令將萬騎。
新字:而通直道,自九原至雲陽,因辺山険塹谿谷可繕者治之,起臨洮至遼東万余里。又度河拠陽山北仮中。当是之時,東胡彊而月氏盛。匈奴単于曰頭曼,頭曼不勝秦,北徙。十余年而蒙恬死,諸侯畔秦,中国擾乱,諸秦所徙適戍辺者皆復去,於是匈奴得寛,復稍度河南与中国界於故塞。単于有太子名冒頓。後有所愛閼氏,生少子,而単于欲廃冒頓而立少子,乃使冒頓質於月氏。冒頓既質於月氏,而頭曼急撃月氏。月氏欲殺冒頓,冒頓盗其善馬,騎之亡帰。頭曼以為壮,令将万騎。
書き下し
而して直道を通じ、九原より雲陽に至り、辺山の険塹谿谷の繕ふべき者に因りて之を治め、臨洮より起こりて遼東に至ること万余里。又河を度りて陽山・北假の中に拠る。是の時に当たり、東胡彊くして月氏盛んなり。匈奴の単于を頭曼と曰ふ。頭曼秦に勝たず、北に徙る。十余年にして蒙恬死し、諸侯秦に畔き、中国擾乱し、諸々の秦の徙して辺を適戍せしめし者皆復た去る。是に於て匈奴寛ぎを得て、復た稍く河南に度り、中国と故の塞に界す。単于に太子有り、名は冒頓。後に愛する所の閼氏有り、少子を生む。而して単于冒頓を廃して少子を立てんと欲し、乃ち冒頓をして月氏に質たらしむ。冒頓既に月氏に質たり。而して頭曼急に月氏を撃つ。月氏冒頓を殺さんと欲す。冒頓其の善馬を盗み、之に騎りて亡げ帰る。頭曼以て壮と為し、万騎を将ゐしむ。
現代語訳
さらに直道(まっすぐな軍用道路)を通し、九原から雲陽に至らせ、辺境の山の険しさや堀、谷のうち修繕できるものを利用して整備し、臨洮から遼東に至るまで一万里余りの長城とした。また黄河を渡って陽山・北假の一帯を押さえた。この頃、東胡は強く、月氏は盛んであった。匈奴の単于は頭曼といった。頭曼は秦に勝てず、北に移った。十年余りして蒙恬が死に、諸侯が秦に背いて中国が乱れると、秦が辺境の守備に移住させた罪人たちも皆去ってしまった。そこで匈奴は圧迫が緩み、また少しずつ黄河を渡って河南の地に入り、中国とはもとの要塞で境を接するようになった。単于には太子がいて、名を冒頓といった。その後、単于は寵愛する閼氏(単于の妃)を得て、末子が生まれた。単于は冒頓を廃して末子を跡継ぎに立てようと思い、冒頓を月氏に人質として送った。冒頓が月氏の人質になると、頭曼は急に月氏を攻撃した。月氏は冒頓を殺そうとした。冒頓は月氏の良馬を盗み、それに乗って逃げ帰った。頭曼は冒頓を勇壮だと思い、一万騎を率いさせた。
解説
関連する章句
-
史記 匈奴列伝東胡初め冒頓を軽んじ、備へを為さず。冒頓兵を以て至り、撃つに及びて、大いに東胡王を破滅し、而して其の民人及び畜産を虜にす。既に帰りて、西のかた月氏を撃ち走らせ、南のかた楼煩・白羊の河南王を并す。燕代を侵し、悉く復た秦の蒙恬をして匈奴より奪はしめし所の地を収め、漢と故の河南の塞を関とし、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。是の時漢の兵項羽と相距ぎ、中国兵革に罷る。故を以て冒頓自ら彊くするを得、控弦の士三十余万。淳維より以て頭曼に至るまで千有余歳、時に大きく時に小さく、別散分離すること、尚し。其の世伝得て次すべからずと云ふ。然れども冒頓に至りて匈奴最も彊大にして、尽く北夷を服従せしめ、而して南のかた中国と敵国と為る。其の世伝国官の号乃ち得て記すべしと云ふ。左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯を置く。匈奴は賢を謂ひて「屠耆」と曰ふ。故に常に太子を以て左屠耆王と為す。左右の賢王より以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰ふ。諸大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り。此の三姓は其の貴種なり。諸々の左方の王将は東方に居り、上谷に直りて以往なる者は、東のかた穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡に直りて以西は、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直る。各々分地有り、水草を逐ひて移徙す。而して左右の賢王・左右の谷蠡王最も大為り。左右の骨都侯政を輔く。諸々の二十四長も亦各々自ら千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。歳の正月、諸長小しく単于の庭に会し、祠る。
-
史記 匈奴列伝冒頓既に立つ、東胡使を遣り、頭曼の時の千里馬を得んと欲す。冒頓群臣に問ふ、群臣皆曰く、「千里馬は匈奴の宝馬なり、与ふる勿かれ」と。冒頓曰く、「柰何ぞ人と鄰国たりて一馬を愛しまんや」と。遂に之に千里馬を与ふ。東胡冒頓の己を畏ると以為し、単于の一閼氏を得んと欲す。左右皆怒る。冒頓曰く、「柰何ぞ人と鄰国たりて一女子を愛しまんや」と。遂に愛する所の閼氏を取りて東胡に予ふ。東胡愈いよ益ます驕り、匈奴の棄地を有たんと欲す。冒頓群臣に問ふ、或いは曰く、「此れ棄地なり、之に予ふるも亦た可なり」と。是に於て冒頓大いに怒りて曰く、「地は国の本なり、柰何ぞ之を予へん」と。予へんと言ふ者を皆斬る。冒頓馬に上り、遂に東のかた東胡を襲撃し、大いに東胡王を破滅す。
-
史記 匈奴列伝冒頓乃ち鳴鏑を作為し、其の騎射を習勒し、令して曰く、「鳴鏑の射る所にして悉くは射ざる者は、之を斬らん」と。行きて鳥獣を猟するに、鳴鏑の射る所を射ざる者有れば、輒ち之を斬る。已にして冒頓鳴鏑を以て自ら其の善馬を射る。左右或いは敢へて射ざる者あり。冒頓立ちどころに善馬を射ざる者を斬る。居ること頃之、復た鳴鏑を以て自ら其の愛妻を射る。左右或いは頗る恐れ、敢へて射ず。冒頓又復た之を斬る。居ること頃之、冒頓出でて猟し、鳴鏑を以て単于の善馬を射る。左右皆之を射る。是に於て冒頓其の左右の皆用ふべきを知る。其の父単于頭曼に従ひて猟し、鳴鏑を以て頭曼を射る。其の左右も亦皆鳴鏑に随ひて単于頭曼を射殺す。遂に尽く其の後母と弟と及び大臣の聴従せざる者とを誅す。冒頓自ら立ちて単于と為る。
-
史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
-
史記 匈奴列伝而して晋の北に林胡・楼煩の戎有り、燕の北に東胡・山戎有り。各々分散して谿谷に居り、自ら君長有り。往往にして聚まる者百有余戎、然れども能く相一にする莫し。是より後百有余年、晋の悼公魏絳をして戎翟に和せしむ。戎翟晋に朝す。後百有余年、趙の襄子句注を踰えて代を破り并せ、以て胡貉に臨む。其の後既に韓魏と共に智伯を滅ぼし、晋の地を分かちて之を有す。則ち趙は代・句注の北を有ち、魏は河西・上郡を有ち、以て戎と辺を界す。其の後義渠の戎城郭を築きて以て自ら守る。而して秦稍く蚕食し、恵王に至りて、遂に義渠の二十五城を抜く。恵王魏を撃つ。魏尽く西河及び上郡を秦に入る。秦の昭王の時、義渠の戎王宣太后と乱れ、二子有り。宣太后詐りて義渠の戎王を甘泉に殺し、遂に兵を起こして義渠を伐ち残ふ。是に於て秦隴西・北地・上郡を有ち、長城を築きて以て胡を拒ぐ。而して趙の武霊王も亦俗を変じて胡服し、騎射を習ひ、北のかた林胡・楼煩を破る。長城を築き、代より陰山の下に并せ、高闕に至りて塞と為す。而して雲中・鴈門・代郡を置く。其の後燕に賢将秦開有り、胡に質と為る。胡甚だ之を信ず。帰りて襲ひて東胡を破り走らす。東胡卻くこと千余里。荊軻と秦王を刺す秦舞陽は、開の孫なり。燕も亦長城を築き、造陽より襄平に至る。上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡を置きて以て胡を拒ぐ。是の時に当たり、冠帯の戦国七にして、三国匈奴に辺す。其の後趙の将李牧の時、匈奴敢へて趙の辺に入らず。後に秦六国を滅ぼし、而して始皇帝蒙恬をして十万の衆を将ゐて北のかた胡を撃たしめ、悉く河南の地を収む。河に因りて塞と為し、四十四県の城を築きて河に臨み、適戍を徙して以て之を充たす。
-
史記 匈奴列伝匈奴の騎、其の西方は尽く白馬、東方は尽く青駹馬、北方は尽く烏驪馬、南方は尽く騂馬なり。高帝乃ち使をして間に厚く閼氏に遺らしむ。閼氏乃ち冒頓に謂ひて曰く、「両主相困しめず。今漢の地を得るとも、而も単于終に能く之に居るに非ざるなり。且つ漢王も亦神有り。単于之を察せよ」と。冒頓韓王信の将王黄・趙利と期す。而して黄・利の兵又来らず。其の漢と謀有るを疑ひ、亦閼氏の言を取り、乃ち囲みの一角を解く。是に於て高帝士をして皆満を持し矢を傅けて外に郷はしめ、解けたる角より直ちに出で、竟に大軍と合す。而して冒頓遂に兵を引きて去る。漢も亦兵を引きて罷め、劉敬をして和親の約を結ばしむ。是の後韓王信匈奴の将と為り、及び趙利・王黄等数々約に倍き、代・雲中を侵盗す。居ること幾何も無く、陳豨反し、又韓信と合謀して代を撃つ。漢樊噲をして往きて之を撃たしめ、復た代・鴈門・雲中の郡県を抜くも、塞を出でず。是の時匈奴漢の将の衆を以て往きて降る。故に冒頓常に往来して代の地を侵盗す。是に於て漢之を患ふ。高帝乃ち劉敬をして宗室の女公主を奉じて単于の閼氏と為さしめ、歳ごとに匈奴に絮繒酒米食物を奉ずること各々数有り、約して昆弟と為りて以て和親す。冒頓乃ち少しく止む。後に燕王盧綰反し、其の党数千人を率ゐて匈奴に降り、往来して上谷以東を苦しむ。高祖崩ず。孝恵・呂太后の時、漢初めて定まる。故に匈奴以て驕る。冒頓乃ち書を為りて高后に遺り、妄言す。高后之を撃たんと欲す。諸将曰く、「高帝の賢武を以てすら、然も尚ほ平城に困しめらる」と。是に於て高后乃ち止め、復た匈奴と和親す。孝文帝初めて立つに至り、復た和親の事を修む。其の三年五月、匈奴の右賢王入りて河南の地に居り、上郡の葆塞の蛮夷を侵盗し、人民を殺略す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る