史記 / 匈奴列伝
而晉北有林胡、樓煩之戎,燕北有東胡、山戎。各分散居谿谷,自有君長,往往而聚者百有餘戎,然莫能相一。自是之後百有餘年,晉悼公使魏絳和戎翟,戎翟朝晉。後百有餘年,趙襄子踰句注而破并代以臨胡貉。其後既與韓魏共滅智伯,分晉地而有之,則趙有代、句注之北,魏有河西、上郡,以與戎界邊。其後義渠之戎築城郭以自守,而秦稍蠶食,至於惠王,遂拔義渠二十五城。惠王擊魏,魏盡入西河及上郡于秦。秦昭王時,義渠戎王與宣太后亂,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐殘義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。而趙武靈王亦變俗胡服,習騎射,北破林胡、樓煩。築長城,自代并陰山下,至高闕爲塞。而置雲中、鴈門、代郡。其後燕有賢將秦開,爲質於胡,胡甚信之。歸而襲破走東胡,東胡卻千餘里。與荊軻刺秦王秦舞陽者,開之孫也。燕亦築長城,自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。當是之時,冠帶戰國七,而三國邊於匈奴。其後趙將李牧時,匈奴不敢入趙邊。後秦滅六國,而始皇帝使蒙恬將十萬之眾北擊胡,悉收河南地。因河爲塞,築四十四縣城臨河,徙適戍以充之。
新字:而晋北有林胡、楼煩之戎,燕北有東胡、山戎。各分散居谿谷,自有君長,往往而聚者百有余戎,然莫能相一。自是之後百有余年,晋悼公使魏絳和戎翟,戎翟朝晋。後百有余年,趙襄子踰句注而破并代以臨胡貉。其後既与韓魏共滅智伯,分晋地而有之,則趙有代、句注之北,魏有河西、上郡,以与戎界辺。其後義渠之戎築城郭以自守,而秦稍蠶食,至於恵王,遂抜義渠二十五城。恵王撃魏,魏尽入西河及上郡于秦。秦昭王時,義渠戎王与宣太后乱,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐残義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。而趙武霊王亦変俗胡服,習騎射,北破林胡、楼煩。築長城,自代并陰山下,至高闕為塞。而置雲中、鴈門、代郡。其後燕有賢将秦開,為質於胡,胡甚信之。帰而襲破走東胡,東胡却千余里。与荊軻刺秦王秦舞陽者,開之孫也。燕亦築長城,自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。当是之時,冠帯戦国七,而三国辺於匈奴。其後趙将李牧時,匈奴不敢入趙辺。後秦滅六国,而始皇帝使蒙恬将十万之衆北撃胡,悉収河南地。因河為塞,築四十四県城臨河,徙適戍以充之。
書き下し
而して晋の北に林胡・楼煩の戎有り、燕の北に東胡・山戎有り。各々分散して谿谷に居り、自ら君長有り。往往にして聚まる者百有余戎、然れども能く相一にする莫し。是より後百有余年、晋の悼公魏絳をして戎翟に和せしむ。戎翟晋に朝す。後百有余年、趙の襄子句注を踰えて代を破り并せ、以て胡貉に臨む。其の後既に韓魏と共に智伯を滅ぼし、晋の地を分かちて之を有す。則ち趙は代・句注の北を有ち、魏は河西・上郡を有ち、以て戎と辺を界す。其の後義渠の戎城郭を築きて以て自ら守る。而して秦稍く蚕食し、恵王に至りて、遂に義渠の二十五城を抜く。恵王魏を撃つ。魏尽く西河及び上郡を秦に入る。秦の昭王の時、義渠の戎王宣太后と乱れ、二子有り。宣太后詐りて義渠の戎王を甘泉に殺し、遂に兵を起こして義渠を伐ち残ふ。是に於て秦隴西・北地・上郡を有ち、長城を築きて以て胡を拒ぐ。而して趙の武霊王も亦俗を変じて胡服し、騎射を習ひ、北のかた林胡・楼煩を破る。長城を築き、代より陰山の下に并せ、高闕に至りて塞と為す。而して雲中・鴈門・代郡を置く。其の後燕に賢将秦開有り、胡に質と為る。胡甚だ之を信ず。帰りて襲ひて東胡を破り走らす。東胡卻くこと千余里。荊軻と秦王を刺す秦舞陽は、開の孫なり。燕も亦長城を築き、造陽より襄平に至る。上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡を置きて以て胡を拒ぐ。是の時に当たり、冠帯の戦国七にして、三国匈奴に辺す。其の後趙の将李牧の時、匈奴敢へて趙の辺に入らず。後に秦六国を滅ぼし、而して始皇帝蒙恬をして十万の衆を将ゐて北のかた胡を撃たしめ、悉く河南の地を収む。河に因りて塞と為し、四十四県の城を築きて河に臨み、適戍を徙して以て之を充たす。
現代語訳
そして晋の北には林胡・楼煩の戎がおり、燕の北には東胡・山戎がいた。それぞれ分かれて谷あいに住み、各自に君長があり、あちこちに集まっている戎は百余りに上ったが、一つにまとまることはできなかった。それから百年余りして、晋の悼公は魏絳に命じて戎翟と和睦させ、戎翟は晋に朝貢した。さらに百年余りして、趙の襄子が句注山を越えて代を破って併合し、胡貉(北方の民族)と境を接するようになった。その後、趙は韓・魏と共に智伯を滅ぼし、晋の領地を分けて所有した。趙は代と句注山の北を、魏は河西と上郡を領有し、戎と境界を接した。その後、義渠の戎は城郭を築いて守りを固めたが、秦は少しずつ蚕が桑の葉を食うように侵食し、恵王の時になって、ついに義渠の二十五の城を攻め落とした。恵王が魏を攻撃すると、魏は西河と上郡をすべて秦に差し出した。秦の昭王の時、義渠の戎王は(昭王の母の)宣太后と密通し、二人の子をもうけた。宣太后は義渠の戎王をだまして甘泉で殺し、そのまま兵を起こして義渠を討ち滅ぼした。こうして秦は隴西・北地・上郡を領有し、長城を築いて胡を防いだ。一方、趙の武霊王もまた風俗を改めて胡の服を着て、騎射を習い、北の林胡・楼煩を破った。長城を築き、代から陰山のふもとに沿って高闕に至るまでを要塞とし、雲中・鴈門・代郡を置いた。その後、燕に秦開という優れた将軍がいて、胡に人質となっていた。胡は秦開をたいへん信用していた。秦開は帰国すると東胡を襲撃して破り、東胡は千里余りも退いた。荊軻と共に秦王を刺そうとした秦舞陽は、秦開の孫である。燕もまた長城を築き、造陽から襄平に至った。上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の郡を置いて胡を防いだ。この時、冠と帯をつける文明の戦国七か国のうち、三か国(秦・趙・燕)が匈奴と境を接していた。その後、趙の将軍李牧の時代には、匈奴はあえて趙の国境に侵入しなかった。後に秦が六国を滅ぼすと、始皇帝は蒙恬に十万の軍勢を率いさせて北の胡を攻撃させ、河南(オルドス)の地をすべて手に入れた。黄河を国境の守りとし、黄河に臨んで四十四の県城を築き、罪人を守備兵として移住させてそこを満たした。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝而して直道を通じ、九原より雲陽に至り、辺山の険塹谿谷の繕ふべき者に因りて之を治め、臨洮より起こりて遼東に至ること万余里。又河を度りて陽山・北假の中に拠る。是の時に当たり、東胡彊くして月氏盛んなり。匈奴の単于を頭曼と曰ふ。頭曼秦に勝たず、北に徙る。十余年にして蒙恬死し、諸侯秦に畔き、中国擾乱し、諸々の秦の徙して辺を適戍せしめし者皆復た去る。是に於て匈奴寛ぎを得て、復た稍く河南に度り、中国と故の塞に界す。単于に太子有り、名は冒頓。後に愛する所の閼氏有り、少子を生む。而して単于冒頓を廃して少子を立てんと欲し、乃ち冒頓をして月氏に質たらしむ。冒頓既に月氏に質たり。而して頭曼急に月氏を撃つ。月氏冒頓を殺さんと欲す。冒頓其の善馬を盗み、之に騎りて亡げ帰る。頭曼以て壮と為し、万騎を将ゐしむ。
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史記 燕召公世家楽間趙に奔る。廉頗之を逐ふこと五百余里、其の国を囲む。燕人和を請ふも、趙人許さず、必ず将渠をして和に処らしめんとす。燕、将渠を相として以て和に処らしむ。趙将渠に聴き、燕の囲みを解く。六年、秦東周を滅ぼし、三川郡を置く。七年、秦趙の楡次三十七城を抜き、秦大原郡を置く。九年、秦王政初めて即位す。十年、趙廉頗をして将として繁陽を攻めしめ、之を抜く。趙の孝成王卒し、悼襄王立つ。楽乗をして廉頗に代はらしむ。廉頗聴かず、楽乗を攻む。楽乗走り、廉頗大梁に奔る。十二年、趙李牧をして燕を攻めしめ、武遂・方城を抜く。劇辛故(もと)趙に居り、龐煖と善し。已にして亡げて燕に走る。燕、趙の数々秦に困しみ、而して廉頗去り、龐煖をして将たらしむるを見て、趙の獘に因りて之を攻めんと欲す。劇辛に問ふ。辛曰く、「龐煖は与し易きのみ」と。燕劇辛をして将として趙を撃たしむ。趙龐煖をして之を撃たしめ、燕の軍二万を取り、劇辛を殺す。秦魏の二十城を抜き、東郡を置く。十九年、秦趙の鄴九城を抜く。趙の悼襄王卒す。二十三年、太子丹秦に質たり、亡げて燕に帰る。二十五年、秦韓王安を虜にして滅ぼし、潁川郡を置く。二十七年、秦趙王遷を虜にし、趙を滅ぼす。趙の公子嘉自立して代王と為る。燕、秦の且に六国を滅ぼさんとし、秦の兵易水に臨み、禍且に燕に至らんとするを見る。太子丹陰かに壮士二十人を養ひ、荊軻をして督亢の地図を秦に献ぜしめ、因りて秦王を襲刺せんとす。秦王覚り、軻を殺し、将軍王翦をして燕を撃たしむ。二十九年、秦攻めて我が薊を抜く。燕王亡げ、徙りて遼東に居り、丹を斬りて以て秦に献ず。三十年、秦魏を滅ぼす。三十三年、秦遼東を抜き、燕王喜を虜にし、卒に燕を滅ぼす。是の歳、秦の将王賁も亦た代王嘉を虜にす。
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史記 趙世家十九年、斉・宋と平陸に会し、燕と阿に会す。二十年、魏栄椽を献ず。因りて以て檀台と為す。二十一年、魏我が邯鄲を囲む。二十二年、魏の恵王我が邯鄲を抜く。斉も亦魏を桂陵に敗る。二十四年、魏我に邯鄲を帰し、魏と漳水の上に盟ふ。秦我が藺を攻む。二十五年、成侯卒す。公子紲、太子粛侯と立つを争ふ。紲敗れて亡げて韓に奔る。粛侯元年、晋君の端氏を奪ひ、徙して屯留に処らしむ。二年、魏の恵王と陰晋に遇ふ。三年、公子范邯鄲を襲ふも、勝たずして死す。四年、天子に朝す。六年、斉を攻め、高唐を抜く。七年、公子刻魏の首垣を攻む。十一年、秦の孝公、商君をして魏を伐たしめ、其の将公子卬を虜にす。趙魏を伐つ。十二年、秦の孝公卒し、商君死す。十五年、寿陵を起こす。魏の恵王卒す。十六年、粛侯大陵に游び、鹿門より出づ。大戊午馬を扣へて曰く、「耕事方に急なり。一日作さずんば、百日食らはず」と。粛侯車を下りて謝す。十七年、魏の黄を囲むも、克たず。長城を築く。十八年、斉・魏我を伐つ。我河水を決して之に灌ぐ。兵去る。二十二年、張儀秦に相たり。趙疵秦と戦ひ、敗る。秦疵を河西に殺し、我が藺・離石を取る。二十三年、韓挙斉・魏と戦ひ、桑丘に死す。二十四年、粛侯卒す。秦・楚・燕・斉・魏、鋭師各々万人を出だして来りて葬に会す。子武霊王立つ。武霊王元年、陽文君趙豹相たり。梁の襄王と太子嗣、韓の宣王と太子倉、来りて信宮に朝す。武霊王少く、未だ政を聴くこと能はず。博聞の師三人、左右の司過三人あり。政を聴くに及び、先づ先王の貴臣肥義に問ひ、其の秩を加ふ。国の三老の年八十なるものには、月ごとに其の礼を致す。三年、鄗に城く。四年、韓と区鼠に会す。
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史記 趙世家子及ばざるなり」と。遂に胡服して騎射を招く。二十年、王中山の地を略し、寧葭に至る。西のかた胡の地を略し、楡中に至る。林胡王馬を献ず。帰りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に之かしむ。代の相趙固胡を主り、其の兵を致す。二十一年、中山を攻む。趙袑右軍と為り、許鈞左軍と為り、公子章中軍と為り、王并せて之に将たり。牛翦車騎に将たり。趙希并せて胡・代に将たり。趙之に陘を与へ、軍を曲陽に合し、丹丘・華陽・鴟の塞を攻め取る。王の軍鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山四邑を献じて和す。王之を許し、兵を罷む。二十三年、中山を攻む。二十五年、恵后卒す。周袑をして胡服して王子何に傅たらしむ。二十六年、復た中山を攻め、地を攘ひて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至る。二十七年五月戊申、大いに東宮に朝し、国を伝へ、王子何を立てて以て王と為す。王廟見の礼畢はり、出でて朝に臨む。大夫悉く臣と為る。肥義相国と為り、并せて王に傅たり。是を恵文王と為す。恵文王は、恵后呉娃の子なり。武霊王自ら号して主父と為す。主父、子をして国を治むるを主らしめんと欲して、身は胡服して士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略し、而して雲中・九原より直ちに南して秦を襲はんと欲す。是に於て詐りて自ら使者と為りて秦に入る。秦の昭王知らず。已にして其の状甚だ偉にして、人臣の度に非ざるを怪しみ、人をして之を逐はしむ。而るに主父馳せて已に関を脱す。審らかに之を問へば、乃ち主父なり。秦人大いに驚く。主父の秦に入りし所以の者は、自ら地形を略し、因りて秦王の人と為りを観んと欲すればなり。恵文王二年、主父新地を行り、遂に代に出で、西のかた楼煩王に西河に遇ひて其の兵を致す。三年、中山を滅ぼし、其の王を膚施に遷す。霊寿を起こし、北地方に従ひ、代の道大いに通ず。
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史記 趙世家趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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