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史記 / 匈奴列伝

申侯怒而與犬戎共攻殺周幽王于驪山之下,遂取周之焦穫,而居于涇渭之閒,侵暴中國。秦襄公救周,於是周平王去酆鄗而東徙雒邑。當是之時,秦襄公伐戎至岐,始列爲諸侯。是後六十有五年,而山戎越燕而伐齊,齊釐公與戰于齊郊。其後四十四年,而山戎伐燕。燕告急于齊,齊桓公北伐山戎,山戎走。其後二十有餘年,而戎狄至洛邑,伐周襄王,襄王奔于鄭之氾邑。初,周襄王欲伐鄭,故娶戎狄女爲后,與戎狄兵共伐鄭。已而黜狄后,狄后怨,而襄王後母曰惠后,有子子帶,欲立之,於是惠后與狄后、子帶爲內應,開戎狄,戎狄以故得入,破逐周襄王,而立子帶爲天子。於是戎狄或居于陸渾,東至於衛,侵盜暴虐中國。中國疾之,故詩人歌之曰「戎狄是應」,「薄伐獫狁,至於大原」,「出輿彭彭,城彼朔方」。周襄王既居外四年,乃使使告急于晉。晉文公初立,欲修霸業,乃興師伐逐戎翟,誅子帶,迎內周襄王,居于雒邑。當是之時,秦晉爲彊國。晉文公攘戎翟,居于河西圁、洛之閒,號曰赤翟、白翟。秦穆公得由余,西戎八國服於秦,故自隴以西有綿諸、緄戎、翟、獂之戎,岐、梁山、涇、漆之北有義渠、大荔、烏氏、朐衍之戎。

新字:申侯怒而与犬戎共攻殺周幽王于驪山之下,遂取周之焦穫,而居于涇渭之閒,侵暴中国。秦襄公救周,於是周平王去酆鄗而東徙雒邑。当是之時,秦襄公伐戎至岐,始列為諸侯。是後六十有五年,而山戎越燕而伐斉,斉釐公与戦于斉郊。其後四十四年,而山戎伐燕。燕告急于斉,斉桓公北伐山戎,山戎走。其後二十有余年,而戎狄至洛邑,伐周襄王,襄王奔于鄭之氾邑。初,周襄王欲伐鄭,故娶戎狄女為后,与戎狄兵共伐鄭。已而黜狄后,狄后怨,而襄王後母曰恵后,有子子帯,欲立之,於是恵后与狄后、子帯為内応,開戎狄,戎狄以故得入,破逐周襄王,而立子帯為天子。於是戎狄或居于陸渾,東至於衛,侵盗暴虐中国。中国疾之,故詩人歌之曰「戎狄是応」,「薄伐獫狁,至於大原」,「出輿彭彭,城彼朔方」。周襄王既居外四年,乃使使告急于晋。晋文公初立,欲修覇業,乃興師伐逐戎翟,誅子帯,迎内周襄王,居于雒邑。当是之時,秦晋為彊国。晋文公攘戎翟,居于河西圁、洛之閒,号曰赤翟、白翟。秦穆公得由余,西戎八国服於秦,故自隴以西有綿諸、緄戎、翟、獂之戎,岐、梁山、涇、漆之北有義渠、大荔、烏氏、朐衍之戎。

書き下し

申侯怒りて犬戎と共に周の幽王を驪山の下に攻め殺し、遂に周の焦穫を取りて、涇渭の間に居り、中国を侵暴す。秦の襄公周を救ふ。是に於て周の平王酆鄗を去りて東のかた雒邑に徙る。是の時に当たり、秦の襄公戎を伐ちて岐に至り、始めて列して諸侯と為る。是の後六十有五年、而して山戎燕を越えて斉を伐つ。斉の釐公与に斉の郊に戦ふ。其の後四十四年、而して山戎燕を伐つ。燕急を斉に告ぐ。斉の桓公北のかた山戎を伐ち、山戎走る。其の後二十有余年、而して戎狄洛邑に至り、周の襄王を伐つ。襄王鄭の氾邑に奔る。初め、周の襄王鄭を伐たんと欲し、故に戎狄の女を娶りて后と為し、戎狄の兵と共に鄭を伐つ。已にして狄后を黜く。狄后怨む。而して襄王の後母を恵后と曰ひ、子子帯有り、之を立てんと欲す。是に於て恵后狄后・子帯と内応を為し、戎狄を開く。戎狄故を以て入るを得、周の襄王を破逐して、子帯を立てて天子と為す。是に於て戎狄或いは陸渾に居り、東のかた衛に至り、中国を侵盗暴虐す。中国之を疾む。故に詩人之を歌ひて曰く、「戎狄是れ膺つ」、「薄か獫狁を伐ちて、大原に至る」、「輿を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く」と。周の襄王既に外に居ること四年、乃ち使をして急を晋に告げしむ。晋の文公初めて立ち、覇業を修めんと欲し、乃ち師を興して戎翟を伐逐し、子帯を誅し、周の襄王を迎へ内れて、雒邑に居らしむ。是の時に当たり、秦晋彊国為り。晋の文公戎翟を攘ひ、河西の圁・洛の間に居らしむ。号して赤翟・白翟と曰ふ。秦の穆公由余を得て、西戎の八国秦に服す。故に隴より以西に綿諸・緄戎・翟・獂の戎有り、岐・梁山・涇・漆の北に義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎有り。

現代語訳

申侯は怒って犬戎と共に周の幽王を驪山のふもとで攻め殺し、そのまま周の焦穫の地を奪って涇水と渭水の間に住み、中国を侵し荒らした。秦の襄公が周を救援した。そこで周の平王は酆・鄗を去って東の雒邑に移った。この時、秦の襄公は戎を討って岐まで至り、初めて諸侯の列に加わった。その六十五年後、山戎が燕を越えて斉を攻め、斉の釐公が斉の郊外で迎え撃った。その四十四年後、山戎が燕を攻めた。燕は斉に急を告げ、斉の桓公は北へ出兵して山戎を討ち、山戎は逃げた。その二十年余り後、戎狄が洛邑に至って周の襄王を攻め、襄王は鄭の氾邑に逃れた。これより前、周の襄王は鄭を討とうとして、そのために戎狄の娘を娶って后とし、戎狄の兵と共に鄭を討った。その後、狄の后を退けたので、狄の后は恨んだ。また襄王の継母を恵后といい、子帯という子がいて、恵后は子帯を王に立てたいと思っていた。そこで恵后は狄の后や子帯と内通し、戎狄のために城門を開いた。戎狄はそれで入ることができ、周の襄王を破って追い出し、子帯を天子に立てた。こうして戎狄の中には陸渾に住む者もあり、東は衛に至るまで、中国を侵し略奪して暴虐を働いた。中国の人々はこれを憎んだ。だから詩人はこれを歌って「戎狄をこそ撃つ」「獫狁を討って、大原に至る」「兵車を出すこと盛んに、あの北方に城を築く」と言ったのである。周の襄王は国外に四年いた後、使者を送って晋に急を告げた。晋の文公は即位したばかりで、覇業を築こうとしていたので、軍を起こして戎翟を討って追い払い、子帯を誅殺し、周の襄王を迎え入れて雒邑に住まわせた。この頃、秦と晋が強国であった。晋の文公は戎翟を追い払い、黄河の西の圁水と洛水の間に住まわせた。これを赤翟・白翟と呼んだ。秦の穆公は由余を得て、西戎の八つの国が秦に服属した。そのため隴山より西には綿諸・緄戎・翟・獂の戎があり、岐山・梁山・涇水・漆水の北には義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎があった。

解説

春秋時代の中国と北方民族の関わりを年代順にたどった段です。周の幽王が褒姒を寵愛したことから申侯の怒りを買い、申侯が犬戎と組んで幽王を攻め殺したことで、西周は滅び、平王が東の雒邑へ移って東周が始まりました。この時に周を救った秦の襄公が初めて諸侯に列せられたことが、後の秦の台頭の出発点になります。続いて、山戎の斉や燕への侵攻と斉の桓公による討伐、周の襄王が戎狄の娘を后に迎えて利用しながら後に退け、恨まれて王位を追われた事件が語られます。宮廷内の継承争いが外部の勢力を招き入れるきっかけになった例です。晋の文公はこれを覇業の好機として襄王を復位させ、秦の穆公は由余を得て西戎を服属させました。内紛に外部の力を利用すれば、その力にやがて自分が脅かされるという教訓は、国家にも組織にも当てはまります。

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