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史記 / 魯周公世家

懿公九年,懿公兄括之子伯御與魯人攻弒懿公,而立伯御爲君。伯御即位十一年,周宣王伐魯,殺其君伯御,而問魯公子能道順諸矦者,以爲魯後。樊穆仲曰:『魯懿公弟稱,肅恭明神,敬事耆老;賦事行刑,必問於遺訓而咨於固實;不干所問,不犯所咨。』宣王曰:『然,能訓治其民矣。』乃立稱於夷宮,是爲孝公。自是後,諸矦多畔王命。孝公二十五年,諸矦畔周,犬戎殺幽王。秦始列爲諸矦。二十七年,孝公卒,子弗湟立,是爲惠公。惠公三十年,晉人弒其君昭矦。四十五年,晉人又弒其君孝矦。四十六年,惠公卒,長庶子息攝當國,行君事,是爲隱公。初,惠公適夫人無子,公賤妾聲子生子息。息長,爲娶於宋。宋女至而好,惠公奪而自妻之。生子允。登宋女爲夫人,以允爲太子。及惠公卒,爲允少故,魯人共令息攝政,不言即位。隱公五年,觀漁於棠;八年,與鄭易天子之太山之邑祊及許田:君子譏之。十一年冬,公子揮諂謂隱公曰:「百姓便君,君其遂立。吾請爲君殺子允,君以我爲相。」隱公曰:「有先君命。吾爲允少,故攝代。今允長矣,吾方營菟裘之地而老焉,以授子允政。」揮懼子允聞而反誅之,乃反譖隱公於子允曰:「隱公欲遂立,去子,子其圖之。

新字:懿公九年,懿公兄括之子伯御与魯人攻弒懿公,而立伯御為君。伯御即位十一年,周宣王伐魯,殺其君伯御,而問魯公子能道順諸矦者,以為魯後。樊穆仲曰:『魯懿公弟称,粛恭明神,敬事耆老;賦事行刑,必問於遺訓而咨於固実;不干所問,不犯所咨。』宣王曰:『然,能訓治其民矣。』乃立称於夷宮,是為孝公。自是後,諸矦多畔王命。孝公二十五年,諸矦畔周,犬戎殺幽王。秦始列為諸矦。二十七年,孝公卒,子弗湟立,是為恵公。恵公三十年,晋人弒其君昭矦。四十五年,晋人又弒其君孝矦。四十六年,恵公卒,長庶子息摂当国,行君事,是為隠公。初,恵公適夫人無子,公賤妾声子生子息。息長,為娶於宋。宋女至而好,恵公奪而自妻之。生子允。登宋女為夫人,以允為太子。及恵公卒,為允少故,魯人共令息摂政,不言即位。隠公五年,観漁於棠;八年,与鄭易天子之太山之邑祊及許田:君子譏之。十一年冬,公子揮諂謂隠公曰:「百姓便君,君其遂立。吾請為君殺子允,君以我為相。」隠公曰:「有先君命。吾為允少,故摂代。今允長矣,吾方営菟裘之地而老焉,以授子允政。」揮懼子允聞而反誅之,乃反譖隠公於子允曰:「隠公欲遂立,去子,子其図之。

書き下し

懿公の九年、懿公の兄括の子伯御、魯人と懿公を攻め弑して、伯御を立てて君と為す。伯御即位して十一年、周の宣王、魯を伐ち、其の君伯御を殺し、而して魯の公子の能く諸侯を道順する者を問ひ、以て魯の後と為さんとす。樊穆仲曰く、「魯の懿公の弟称は、明神を粛恭し、耆老を敬事す。事を賦し刑を行ふには、必ず遺訓に問ひて固実に咨り、問ふ所を干さず、咨る所を犯さず」と。宣王曰く、「然り、能く其の民を訓治せん」と。乃ち称を夷宮に立つ。是れを孝公と為す。是より後、諸侯多く王命に畔く。孝公の二十五年、諸侯周に畔き、犬戎、幽王を殺す。秦始めて列して諸侯と為る。二十七年、孝公卒し、子の弗湟立つ。是れを恵公と為す。恵公の三十年、晋人、其の君昭侯を弑す。四十五年、晋人又其の君孝侯を弑す。四十六年、恵公卒し、長庶子息、摂して国に当り、君の事を行ふ。是れを隠公と為す。初め、恵公の適夫人子無く、公の賤妾声子、子息を生む。息長じ、為に宋に娶る。宋女至りて好し。恵公奪ひて自ら之を妻とす。子允を生む。宋女を登せて夫人と為し、允を以て太子と為す。恵公の卒するに及び、允の少きが為の故に、魯人共に息をして政を摂せしめ、即位を言はず。隠公の五年、漁を棠に観る。八年、鄭と天子の太山の邑祊及び許田とを易ふ。君子之を譏る。十一年冬、公子揮諂ひて隠公に謂ひて曰く、「百姓君を便とす。君其れ遂に立て。吾請ふ君の為に子允を殺さん。君、我を以て相と為せ」と。隠公曰く、「先君の命有り。吾、允の少きが為の故に、摂して代る。今、允長ぜり。吾方に菟裘の地を営みて老い、以て政を子允に授けんとす」と。揮、子允の聞きて反りて之を誅せんことを懼れ、乃ち反りて隠公を子允に譖して曰く、「隠公遂に立ちて、子を去らんと欲す。子其れ之を図れ。

現代語訳

懿公の九年、懿公の兄の括の子の伯御が魯の人々とともに懿公を攻めて殺し、伯御を君主に立てた。伯御が即位して十一年、周の宣王は魯を討ってその君主伯御を殺し、魯の公子の中で諸侯を正しく導き従わせることのできる者は誰かと尋ね、魯の跡継ぎにしようとした。樊穆仲(樊仲山父)は言った。「魯の懿公の弟の称は、神々をつつしみ敬い、老人を敬って仕えている。仕事を割り当てたり刑罰を行ったりするときは、必ず先人の教えに照らし、昔からの事実に相談し、問うべきことに背かず、相談したことに違反しない」。宣王は言った。「そうか。それなら民をよく教え治めることができよう」。そこで称を夷宮で即位させた。これが孝公である。これ以後、諸侯の多くが王命に背くようになった。孝公の二十五年、諸侯が周に背き、犬戎が幽王を殺した。秦が初めて諸侯の列に加わった。二十七年、孝公が亡くなり、子の弗湟(ふつこう)が立った。これが恵公である。恵公の三十年、晋の人々が君主の昭侯を殺した。四十五年、晋の人々はまた君主の孝侯を殺した。四十六年、恵公が亡くなり、長男で側室の子の息が国政を代行し、君主の務めを行った。これが隠公である。これより先、恵公の正夫人には子がなく、身分の低い側室の声子が息を産んだ。息が成長すると、息のために宋から妻を迎えた。ところが宋の女性がやって来ると美しかったので、恵公はこれを奪って自分の妻とし、子の允を生ませた。そして宋の女性を正夫人に格上げし、允を太子とした。恵公が亡くなったとき、允が幼かったので、魯の人々はそろって息に政治を代行させ、即位したとは言わなかった。隠公の五年、棠で漁を見物した。八年、鄭と、天子から賜った泰山のふもとの邑である祊(ほう)と許田とを交換した。君子はこれを非難した。十一年の冬、公子揮がへつらって隠公に言った。「民はあなたを慕っている。あなたはこのまま正式に即位なさるべきだ。私があなたのために子允を殺そう。そのかわり私を宰相にしてほしい」。隠公は言った。「先君の遺命がある。私は允が幼いから代わりに政治を執ってきただけだ。今や允は成長した。私はちょうど菟裘(ときゅう)の地に隠居の地を造っていて、そこで老後を過ごし、政治を子允に授けるつもりだ」。揮は子允がこれを聞いて自分を誅殺するのを恐れ、逆に隠公のことを子允に讒言して言った。「隠公はこのまま即位して、あなたを除こうとしている。よくお考えになるべきだ。

解説

周の宣王が末子を立てさせた結果、魯は樊仲山父の予言どおり内乱に陥ります。懿公は兄の子の伯御に殺され、宣王は伯御を討って、神を敬い老人を大切にし、先例に照らして事を行う称(孝公)を立てました。それ以後、諸侯の多くが王命に背くようになったという一文は、宣王の介入が周の権威を損なったことを示しています。後半は、『春秋』の冒頭を飾る隠公の話です。父の恵公は息子の隠公のために迎えた妻を奪って子の允を生ませ、その子を太子にしました。隠公は允が幼いため政治を代行していましたが、允が成長すると政権を渡して隠居するつもりでした。そこへ公子揮が「允を殺して正式に即位を」とそそのかし、断られると逆に允に隠公を讒言します。私利のために両方にいい顔をする人間が、組織に最も深い傷を与えるのです。

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