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史記 / 斉太公世家

及周成王少時,管蔡作亂,淮夷畔周,乃使召康公命太公曰:「東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣,五侯九伯,實得征之。」齊由此得征伐,為大國。都營丘。蓋太公之卒百有餘年,子丁公呂伋立。丁公卒,子乙公得立。乙公卒,子癸公慈母立。癸公卒,子哀公不辰立。哀公時,紀侯譖之周,周烹哀公而立其弟靜,是為胡公。胡公徙都薄泵,而當周夷王之時。哀公之同母少弟山怨胡公,乃與其黨率營丘人襲攻殺胡公而自立,是為獻公。獻公元年,盡逐胡公子,因徙薄泵都,治臨菑。九年,獻公卒,子武公壽立。武公九年,周厲王出奔,居彘。十年,王室亂,大臣行政,號曰「共和」。二十四年,周宣王初立。二十六年,武公卒,子厲公無忌立。厲公暴虐,故胡公子復入齊,齊人欲立之,乃與攻殺厲公。胡公子亦戰死。齊人乃立厲公子赤為君,是為文公,而誅殺厲公者七十人。文公十二年卒,子成公脫立。成公九年卒,子莊公購立。莊公二十四年,犬戎殺幽王,周東徙雒。秦始列為諸侯。五十六年,晉弒其君昭侯。六十四年,莊公卒,子釐公祿甫立。釐公九年,魯隱公初立。十九年,魯桓公弒其兄隱公而自立為君。二十五年,北戎伐齊。鄭使太子忽來救齊,齊欲妻之。

新字:及周成王少時,管蔡作乱,淮夷畔周,乃使召康公命太公曰:「東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣,五侯九伯,実得征之。」斉由此得征伐,為大国。都営丘。蓋太公之卒百有余年,子丁公呂伋立。丁公卒,子乙公得立。乙公卒,子癸公慈母立。癸公卒,子哀公不辰立。哀公時,紀侯譖之周,周烹哀公而立其弟静,是為胡公。胡公徙都薄泵,而当周夷王之時。哀公之同母少弟山怨胡公,乃与其党率営丘人襲攻殺胡公而自立,是為献公。献公元年,尽逐胡公子,因徙薄泵都,治臨菑。九年,献公卒,子武公寿立。武公九年,周厲王出奔,居彘。十年,王室乱,大臣行政,号曰「共和」。二十四年,周宣王初立。二十六年,武公卒,子厲公無忌立。厲公暴虐,故胡公子復入斉,斉人欲立之,乃与攻殺厲公。胡公子亦戦死。斉人乃立厲公子赤為君,是為文公,而誅殺厲公者七十人。文公十二年卒,子成公脱立。成公九年卒,子荘公購立。荘公二十四年,犬戎殺幽王,周東徙雒。秦始列為諸侯。五十六年,晋弒其君昭侯。六十四年,荘公卒,子釐公禄甫立。釐公九年,魯隠公初立。十九年,魯桓公弒其兄隠公而自立為君。二十五年,北戎伐斉。鄭使太子忽来救斉,斉欲妻之。

書き下し

周の成王少き時に及びて、管・蔡乱を作し、淮夷周に畔く。乃ち召康公をして太公に命ぜしめて曰く、「東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまで、五侯九伯、実に得て之を征せよ」と。斉は此に由りて征伐するを得て、大国と為る。営丘に都す。蓋し太公の卒するや百有余年、子の丁公呂伋立つ。丁公卒し、子の乙公得立つ。乙公卒し、子の癸公慈母立つ。癸公卒し、子の哀公不辰立つ。哀公の時、紀侯之を周に譖し、周、哀公を烹て其の弟静を立つ。是れを胡公と為す。胡公、都を薄姑に徙す。而して周の夷王の時に当る。哀公の同母の少弟山、胡公を怨み、乃ち其の党と営丘の人を率ゐて胡公を襲攻して殺して自立す。是れを献公と為す。献公の元年、尽く胡公の子を逐ひ、因りて薄姑の都を徙して、臨菑に治す。九年、献公卒し、子の武公寿立つ。武公の九年、周の厲王出奔して彘に居る。十年、王室乱れ、大臣政を行ひ、号して「共和」と曰ふ。二十四年、周の宣王初めて立つ。二十六年、武公卒し、子の厲公無忌立つ。厲公暴虐なり、故に胡公の子復た斉に入る。斉人之を立てんと欲し、乃ち与に厲公を攻め殺す。胡公の子も亦戦死す。斉人乃ち厲公の子赤を立てて君と為す。是れを文公と為す。而して厲公を殺しし者七十人を誅殺す。文公十二年にして卒し、子の成公脱立つ。成公九年にして卒し、子の荘公購立つ。荘公の二十四年、犬戎幽王を殺し、周東して雒に徙る。秦始めて列して諸侯と為る。五十六年、晋、其の君昭侯を弑す。六十四年、荘公卒し、子の釐公禄甫立つ。釐公の九年、魯の隠公初めて立つ。十九年、魯の桓公、其の兄隠公を弑して自立して君と為る。二十五年、北戎斉を伐つ。鄭、太子忽をして来りて斉を救はしむ。斉、之に妻はせんと欲す。

現代語訳

周の成王が幼かったころ、管叔・蔡叔が反乱を起こし、淮夷(淮水流域の異民族)が周に背いた。そこで召康公に命じて太公にこう伝えさせた。「東は海まで、西は黄河まで、南は穆陵まで、北は無棣までの範囲で、五等の諸侯と九州の長(五侯九伯)に罪があれば、実際にこれを征伐してよい」。斉はこれによって征伐の権限を得て、大国となった。営丘に都を置いた。太公が亡くなったのはおよそ百歳余りのときで、子の丁公呂伋(りょきゅう)が立った。丁公が亡くなると子の乙公得が立った。乙公が亡くなると子の癸公慈母が立った。癸公が亡くなると子の哀公不辰が立った。哀公のとき、紀侯が哀公のことを周に讒言し、周は哀公を煮殺してその弟の静を立てた。これが胡公である。胡公は都を薄姑(はくこ)に移した。これは周の夷王の時代にあたる。哀公の同母の末弟の山は胡公を恨み、仲間と営丘の人々を率いて胡公を襲って殺し、自ら立った。これが献公である。献公の元年、胡公の子たちをすべて追放し、薄姑の都を移して臨菑に政庁を置いた。九年、献公が亡くなり、子の武公寿が立った。武公の九年、周の厲王が国外に逃げて彘(てい)に住んだ。十年、周の王室は乱れ、大臣が政治を行い、これを「共和」と呼んだ。二十四年、周の宣王が即位した。二十六年、武公が亡くなり、子の厲公無忌が立った。厲公は暴虐だったので、胡公の子が再び斉に入った。斉の人々は彼を立てようとして、ともに厲公を攻めて殺した。胡公の子もまた戦死した。斉の人々はそこで厲公の子の赤を立てて君主とした。これが文公である。文公は厲公を殺した者七十人を誅殺した。文公は十二年で亡くなり、子の成公脱が立った。成公は九年で亡くなり、子の荘公購が立った。荘公の二十四年、犬戎が周の幽王を殺し、周は東の雒邑に都を移した。秦が初めて諸侯の列に加わった。五十六年、晋でその君主の昭侯が殺された。六十四年、荘公が亡くなり、子の釐公禄甫(りこうろくほ)が立った。釐公の九年、魯の隠公が即位した。十九年、魯の桓公が兄の隠公を殺して自ら君主となった。二十五年、北戎が斉を討った。鄭は太子の忽を遣わして斉を救わせた。斉は太子忽に娘を嫁がせようとした。

解説

斉が大国となった由来と、太公の後の君主の系譜が語られます。周初の反乱に際して、斉は東は海から西は黄河までの範囲で諸侯を征伐する権限を与えられ、これが後の斉の覇権の根拠となりました。その後の系譜は穏やかではありません。哀公は隣国の紀侯の讒言によって周に煮殺され、弟の胡公が立つと、今度は同母弟の献公が胡公を殺して即位し、胡公の子を追放します。暴虐な厲公は胡公の子と斉の人々に殺され、その子文公は父を殺した七十人を誅殺しました。兄弟や叔父甥の間で殺し合いが繰り返される中、周王室も共和の政や幽王の死を経て東へ移り、時代は春秋へと進んでいきます。外からの讒言が内部の争いを呼び、報復が報復を生む連鎖は、組織の派閥争いにも通じるものがあります。

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