史記 / 周本紀
管仲辭曰:「臣賤有司也,有天子之二守國、高在。若節春秋來承王命,何以禮焉。陪臣敢辭。」王曰:「舅氏,余嘉乃勳,毋逆朕命。」管仲卒受下卿之禮而還。九年,齊桓公卒。十二年,叔帶復歸于周。十三年,鄭伐滑,王使游孫、伯服請滑,鄭人囚之。鄭文公怨惠王之入不與厲公爵,又怨襄王之與衛滑,故囚伯服。王怒,將以翟伐鄭。富辰諫曰:「凡我周之東徙,晉、鄭焉依。子穨之亂,又鄭之由定,今以小怨棄之!」王不聽。十五年,王降翟師以伐鄭。王德翟人,將以其女為后。富辰諫曰:「平、桓、莊、惠皆受鄭勞,王棄親親翟,不可從。」王不聽。十六年,王絀翟后,翟人來誅,殺譚伯。富辰曰:「吾數諫不從。如是不出,王以我為懟乎?」乃以其屬死之。初,惠后欲立王子帶,故以黨開翟人,翟人遂入周。襄王出奔鄭,鄭居王于汜。子帶立為王,取襄王所絀翟后與居溫。十七年,襄王告急于晉,晉文公納王而誅叔帶。襄王乃賜晉文公珪鬯弓矢,為伯,以河內地與晉。二十年,晉文公召襄王,襄王會之河陽、踐土,諸侯畢朝,書諱曰「天王狩于河陽」。二十四年,晉文公卒。三十一年,秦穆公卒。三十二年,襄王崩,子頃王壬臣立。頃王六年,崩,子匡王班立。匡王六年,崩,弟瑜立,是為定王。
新字:管仲辞曰:「臣賤有司也,有天子之二守国、高在。若節春秋来承王命,何以礼焉。陪臣敢辞。」王曰:「舅氏,余嘉乃勲,毋逆朕命。」管仲卒受下卿之礼而還。九年,斉桓公卒。十二年,叔帯復帰于周。十三年,鄭伐滑,王使游孫、伯服請滑,鄭人囚之。鄭文公怨恵王之入不与厲公爵,又怨襄王之与衛滑,故囚伯服。王怒,将以翟伐鄭。富辰諫曰:「凡我周之東徙,晋、鄭焉依。子穨之乱,又鄭之由定,今以小怨棄之!」王不聴。十五年,王降翟師以伐鄭。王徳翟人,将以其女為后。富辰諫曰:「平、桓、荘、恵皆受鄭労,王棄親親翟,不可従。」王不聴。十六年,王絀翟后,翟人来誅,殺譚伯。富辰曰:「吾数諫不従。如是不出,王以我為懟乎?」乃以其属死之。初,恵后欲立王子帯,故以党開翟人,翟人遂入周。襄王出奔鄭,鄭居王于汜。子帯立為王,取襄王所絀翟后与居温。十七年,襄王告急于晋,晋文公納王而誅叔帯。襄王乃賜晋文公珪鬯弓矢,為伯,以河内地与晋。二十年,晋文公召襄王,襄王会之河陽、践土,諸侯畢朝,書諱曰「天王狩于河陽」。二十四年,晋文公卒。三十一年,秦穆公卒。三十二年,襄王崩,子頃王壬臣立。頃王六年,崩,子匡王班立。匡王六年,崩,弟瑜立,是為定王。
書き下し
管仲辞して曰く、「臣は賤しき有司なり。天子の二守国・高在る有り。若し春秋に節して来たりて王命を承けなば、何を以て焉を礼せん。陪臣敢へて辞す」と。王曰く、「舅氏、余乃の勲を嘉す、朕が命に逆らふ毋かれ」と。管仲卒に下卿の礼を受けて還る。九年、斉の桓公卒す。十二年、叔帯復た周に帰る。十三年、鄭滑を伐つ。王游孫・伯服をして滑の為に請はしむ。鄭人之を囚ふ。鄭の文公恵王の入りて厲公に爵を与へざりしを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に伯服を囚ふ。王怒り、将に翟を以て鄭を伐たんとす。富辰諫めて曰く、「凡そ我が周の東に徙るや、晋・鄭に焉れ依る。子穨の乱も、又鄭に由りて定まる。今小怨を以て之を棄つるか」と。王聴かず。十五年、王翟の師を降して以て鄭を伐つ。王翟人を徳とし、将に其の女を以て后と為さんとす。富辰諫めて曰く、「平・桓・荘・恵皆鄭の労を受く。王親を棄てて翟に親しむ、従ふ可からず」と。王聴かず。十六年、王翟后を絀く。翟人来たりて誅し、譚伯を殺す。富辰曰く、「吾数諫むれども従はれず。是の如くして出でずんば、王我を以て懟めりと為さんか」と。乃ち其の属を以て之に死す。初め、恵后王子帯を立てんと欲し、故に党を以て翟人を開く。翟人遂に周に入る。襄王出でて鄭に奔る。鄭王を汜に居らしむ。子帯立ちて王と為り、襄王の絀けし所の翟后を取りて与に温に居る。十七年、襄王急を晋に告ぐ。晋の文公王を納れて叔帯を誅す。襄王乃ち晋の文公に珪鬯弓矢を賜ひ、伯と為し、河内の地を以て晋に与ふ。二十年、晋の文公襄王を召す。襄王之に河陽・践土に会す。諸侯畢く朝す。書は諱みて曰く「天王河陽に狩す」と。二十四年、晋の文公卒す。三十一年、秦の穆公卒す。三十二年、襄王崩じ、子頃王壬臣立つ。頃王六年にして崩じ、子匡王班立つ。匡王六年にして崩じ、弟瑜立つ。是を定王と為す。
現代語訳
管仲は辞退して言った。「私は身分の低い役人にすぎない。斉には天子が任命した国氏・高氏の二人の上卿がいる。もし彼らが春秋の定めの時期に来朝して王命を承るとき、どのような礼でもてなされるおつもりか。陪臣(諸侯の臣下)の身として、謹んで辞退いたしたい。」王は言った。「舅の国(斉)の者よ、私はあなたの功績をたたえている。私の命に逆らうな。」管仲は結局、下卿の礼を受けて帰った。九年、斉の桓公が亡くなった。十二年、叔帯が再び周に帰ってきた。十三年、鄭が滑を討った。王は游孫と伯服を遣わして滑のためにとりなしを求めたが、鄭の人々は二人を捕らえた。鄭の文公は、恵王が都に戻った際に(功のあった)鄭の厲公に爵(酒器)を与えなかったことを恨み、また襄王が衛や滑の肩を持つことを恨んでいた。そのため伯服を捕らえたのである。王は怒り、翟(北方の異民族)の兵を使って鄭を討とうとした。富辰は諫めて言った。「そもそも我が周が東に遷ってからは、晋と鄭を頼りにしてきた。子穨の乱も鄭のおかげで平定された。それなのに今、小さな恨みで鄭を見捨てるのか。」王は聞き入れなかった。十五年、王は翟の軍を招いて鄭を討たせた。王は翟に恩を感じ、翟の娘を后にしようとした。富辰は諫めて言った。「平王・桓王・荘王・恵王はみな鄭の働きを受けてきた。王が身内を捨てて翟と親しむのは、従うべきことではない。」王は聞き入れなかった。十六年、王は翟から迎えた后を退けた。翟の人々は責めに来て、譚伯を殺した。富辰は言った。「私はたびたび諫めたが聞き入れられなかった。このような時に出て戦わなければ、王は私が恨んでいると思われるだろうか。」そこで自分の一族を率いて戦い、死んだ。はじめ、恵后は王子帯を立てたいと思っていたので、仲間を使って翟の人々を導き入れた。翟の人々はついに周に攻め入った。襄王は都を出て鄭に逃げた。鄭は王を汜に住まわせた。子帯は立って王となり、襄王が退けた翟の后を娶って、ともに温に住んだ。十七年、襄王は晋に危急を告げた。晋の文公は王を都に戻し、叔帯を誅殺した。襄王はそこで晋の文公に玉の器と香酒と弓矢を与えて覇者とし、河内の地を晋に与えた。二十年、晋の文公は襄王を呼び出した。襄王は河陽・践土で文公と会い、諸侯はみな朝見した。記録では(臣下が天子を呼びつけたことを)はばかって「天王、河陽に狩りす」と書いた。二十四年、晋の文公が亡くなった。三十一年、秦の穆公が亡くなった。三十二年、襄王が崩じ、子の頃王壬臣が立った。頃王は六年で崩じ、子の匡王班が立った。匡王は六年で崩じ、弟の瑜が立った。これが定王である。
解説
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史記 周本紀是に於て諸侯乃ち申侯に即きて共に故の幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀を奉ず。平王立ちて、東のかた雒邑に遷り、戎寇を辟く。平王の時、周室衰微し、諸侯彊は弱を并せ、斉・楚・秦・晋始めて大きく、政は方伯に由る。四十九年、魯の隠公即位す。五十一年、平王崩ず。太子洩父早く死し、其の子林を立つ。是を桓王と為す。桓王は、平王の孫なり。桓王の三年、鄭の荘公朝す。桓王礼せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は、天子の太山に事を用ゐるの田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立つ。十三年、鄭を伐つ。鄭桓王を射傷し、桓王去りて帰る。二十三年、桓王崩じ、子荘王佗立つ。荘王の四年、周公黒肩荘王を殺して王子克を立てんと欲す。辛伯王に告げ、王周公を殺す。王子克燕に奔る。十五年、荘王崩じ、子釐王胡斉立つ。釐王の三年、斉の桓公始めて霸たり。五年、釐王崩じ、子恵王閬立つ。恵王の二年。初め、荘王姚を嬖姫とし、子穨を生む。穨寵有り。恵王即位するに及び、其の大臣の園を奪ひて以て囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を作し、燕・衛の師を召して、恵王を伐たんと謀る。恵王温に犇り、已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽して徧舞に及ぶ。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君王穨を伐ちて殺し、復た恵王を入る。恵王の十年、斉の桓公に賜ひて伯と為す。二十五年、恵王崩じ、子襄王鄭立つ。襄王の母蚤く死し、後母を恵后と曰ふ。恵后叔帯を生み、恵王に寵有り、襄王之を畏る。三年、叔帯戎・翟と謀りて襄王を伐たんとす。襄王叔帯を誅せんと欲し、叔帯斉に奔る。斉の桓公管仲をして戎を周に平らげしめ、隰朋をして戎を晋に平らげしむ。王上卿の礼を以て管仲を礼す。
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史記 鄭世家文公の弟叔詹曰く、「重耳は賢なり。且つ又同姓なり。窮して君に過る。礼無かるべからず」と。文公曰く、「諸侯の亡公子の過る者多し。安んぞ能く尽く之を礼せん」と。詹曰く、「君如し礼せずんば、遂に之を殺せ。殺さずして、即し国に反らしめば、鄭の憂ひと為らん」と。文公聴かず。三十七年春、晋の公子重耳国に反りて立つ、是を文公と為す。秋、鄭滑に入る。滑命を聴き、已にして反りて衛に与す。是に於て鄭滑を伐つ。周の襄王、伯服をして滑の為に請はしむ。鄭の文公、恵王の亡げて櫟に在りしとき、文公の父厲公之を入れしに、恵王厲公に爵禄を賜はざるを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に襄王の請ひを聴かずして伯服を囚ふ。王怒り、翟人と鄭を伐つも、克たず。冬、翟、襄王を攻伐す。襄王出でて鄭に奔る。鄭の文公、王を氾に居らしむ。三十八年、晋の文公、襄王を成周に入る。四十一年、楚を助けて晋を撃つ。晋の文公の過りしとき礼無かりしより、故に晋に背きて楚を助く。四十三年、晋の文公、秦の穆公と共に鄭を囲む。其の楚を助けて晋を攻めし者、及び文公の過りし時の無礼を討つなり。初め、鄭の文公に三夫人有り、寵子五人、皆罪を以て蚤く死す。公怒り、溉く群公子を逐ふ。子蘭晋に奔り、晋の文公に従ひて鄭を囲む。時に蘭、晋の文公に事ふること甚だ謹み、之を愛幸す。乃ち私かに晋に於てし、以て鄭に入りて太子と為らんことを求む。晋是に於て叔詹を得て僇と為さんと欲す。鄭の文公恐れ、敢へて叔詹に謂ひて言はず。詹聞き、鄭君に言ひて曰く、「臣君に謂ふも、君臣に聴かず、晋卒に患ひと為る。然れども晋の鄭を囲む所以は、詹を以てなり。詹死して鄭国を赦さば、詹の願ひなり」と。乃ち自殺す。鄭人、詹の尸を以て晋に与ふ。晋の文公曰く、「必ず一たび鄭君を見て、之を辱めて去らんと欲す」と。鄭人之を患ひ、乃ち人をして私かに秦に言はしめて曰く、「鄭を破りて晋を益すは、秦の利に非ざるなり」と。秦の兵罷む。
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史記 斉太公世家是の歳、晋、太子申生を殺す。三十五年夏、諸侯に葵丘に会す。周の襄王、宰孔をして桓公に文武の胙・彤弓矢・大路を賜ひ、拝する無からしめんとす。桓公之を許さんと欲す。管仲曰く「不可なり」と。乃ち下拝して賜を受く。秋、復た諸侯に葵丘に会す。益々驕色有り。周、宰孔をして会せしむ。諸侯頗る叛く者有り。晋侯病み、後れ、宰孔に遇ふ。宰孔曰く、「斉侯驕れり。弟ら行く無かれ」と。之に従ふ。是の歳、晋の献公卒す。里克、奚斉・卓子を殺す。秦の穆公、夫人を以て公子夷吾を入れて晋君と為す。桓公是に於て晋の乱を討ち、高梁に至り、隰朋をして晋君を立てしめて還る。是の時、周室微にして、唯斉・楚・秦・晋のみ彊たり。晋は初め会に与るも、献公死して国内乱る。秦の穆公は辟遠にして、中国の会盟に与らず。楚の成王は初めて荊蛮を収めて之を有し、夷狄もて自ら置く。唯独り斉のみ中国の会盟を為す。而して桓公能く其の徳を宣ぶ、故に諸侯賓会す。是に於て桓公称して曰く、「寡人南のかた伐ちて召陵に至り、熊山を望む。北のかた山戎・離枝・孤竹を伐つ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉る。馬を束ね車を懸けて太行に登り、卑耳山に至りて還る。諸侯寡人に違ふ莫し。寡人、兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡す。昔、三代の命を受くるも、何を以てか此に異なる有らんや。吾、泰山に封じ、梁父に禅せんと欲す」と。管仲固く諫むるも、聴かず。乃ち桓公に説くに遠方の珍怪の物至りて乃ち封ずるを得るを以てす。桓公乃ち止む。三十八年、周の襄王の弟帯、戎・翟と合謀して周を伐つ。斉、管仲をして戎を周に平がしむ。周、上卿の礼を以て管仲を礼せんと欲す。管仲頓首して曰く、「臣は陪臣なり、安んぞ敢てせん」と。三たび譲りて、乃ち下卿の礼を受けて以て見ゆ。三十九年、周の襄王の弟帯、来りて斉に奔る。斉、仲孫をして王に請ひ、帯の為に謝せしむ。襄王怒りて聴かず。
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