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史記 / 晋世家

殤叔三年,周宣王崩。四年,穆侯太子仇率其徒襲殤叔而立,是爲文侯。文侯十年,周幽王無道,犬戎殺幽王,周東徙。而秦襄公始列爲諸侯。三十五年,文侯仇卒,子昭侯伯立。昭侯元年,封文侯弟成師于曲沃。曲沃邑大於翼。翼,晉君都邑也。成師封曲沃,號爲桓叔。靖侯庶孫欒賓相桓叔。桓叔是時年五十八矣,好德,晉國之衆皆附焉。君子曰:「晉之亂其在曲沃矣。末大於本而得民心,不亂何待!」七年,晉大臣潘父弒其君昭侯而迎曲沃桓叔。桓叔欲入晉,晉人發兵攻桓叔。桓叔敗,還歸曲沃。晉人共立昭侯子平爲君,是爲孝侯。誅潘父。孝侯八年,曲沃桓叔卒,子胛桓叔,是爲曲沃莊伯。孝侯十五年,曲沃莊伯弒其君晉孝侯于翼。晉人攻曲沃莊伯,莊伯復入曲沃。晉人復立孝侯子郄爲君,是爲鄂侯。鄂侯二年,魯隱公初立。鄂侯六年卒。曲沃莊伯聞晉鄂侯卒,乃興兵伐晉。周平王使虢公將兵伐曲沃莊伯,莊伯走保曲沃。晉人共立鄂侯子光,是爲哀侯。哀侯二年曲沃莊伯卒,子稱代莊伯立,是爲曲沃武公。哀侯六年,魯弒其君隱公。哀侯八年,晉侵陘廷。陘廷與曲沃武公謀,九年,伐晉于汾旁,虜哀侯。晉人乃立哀侯子小子爲君,是爲小子侯。

新字:殤叔三年,周宣王崩。四年,穆侯太子仇率其徒襲殤叔而立,是為文侯。文侯十年,周幽王無道,犬戎殺幽王,周東徙。而秦襄公始列為諸侯。三十五年,文侯仇卒,子昭侯伯立。昭侯元年,封文侯弟成師于曲沃。曲沃邑大於翼。翼,晋君都邑也。成師封曲沃,号為桓叔。靖侯庶孫欒賓相桓叔。桓叔是時年五十八矣,好徳,晋国之衆皆附焉。君子曰:「晋之乱其在曲沃矣。末大於本而得民心,不乱何待!」七年,晋大臣潘父弒其君昭侯而迎曲沃桓叔。桓叔欲入晋,晋人発兵攻桓叔。桓叔敗,還帰曲沃。晋人共立昭侯子平為君,是為孝侯。誅潘父。孝侯八年,曲沃桓叔卒,子胛桓叔,是為曲沃荘伯。孝侯十五年,曲沃荘伯弒其君晋孝侯于翼。晋人攻曲沃荘伯,荘伯復入曲沃。晋人復立孝侯子郄為君,是為鄂侯。鄂侯二年,魯隠公初立。鄂侯六年卒。曲沃荘伯聞晋鄂侯卒,乃興兵伐晋。周平王使虢公将兵伐曲沃荘伯,荘伯走保曲沃。晋人共立鄂侯子光,是為哀侯。哀侯二年曲沃荘伯卒,子称代荘伯立,是為曲沃武公。哀侯六年,魯弒其君隠公。哀侯八年,晋侵陘廷。陘廷与曲沃武公謀,九年,伐晋于汾旁,虜哀侯。晋人乃立哀侯子小子為君,是為小子侯。

書き下し

殤叔の三年、周の宣王崩ず。四年、穆侯の太子仇其の徒を率ゐて殤叔を襲ひて立つ。是を文侯と為す。文侯の十年、周の幽王無道にして、犬戎幽王を殺し、周東に徙る。而して秦の襄公始めて列して諸侯と為る。三十五年、文侯仇卒し、子の昭侯伯立つ。昭侯の元年、文侯の弟成師を曲沃に封ず。曲沃の邑は翼より大なり。翼は、晋君の都邑なり。成師曲沃に封ぜられ、号して桓叔と為す。靖侯の庶孫欒賓桓叔に相たり。桓叔是の時年五十八なり。徳を好み、晋国の衆皆焉に附く。君子曰く、「晋の乱は其れ曲沃に在らん。末本より大にして民心を得たり。乱れずして何をか待たん」と。七年、晋の大臣潘父其の君昭侯を弑して曲沃の桓叔を迎ふ。桓叔晋に入らんと欲す。晋人兵を発して桓叔を攻む。桓叔敗れ、還りて曲沃に帰る。晋人共に昭侯の子平を立てて君と為す。是を孝侯と為す。潘父を誅す。孝侯の八年、曲沃の桓叔卒し、子の胛(鱓)桓叔(に代はる)。是を曲沃の荘伯と為す。孝侯の十五年、曲沃の荘伯其の君晋の孝侯を翼に弑す。晋人曲沃の荘伯を攻め、荘伯復た曲沃に入る。晋人復た孝侯の子郄を立てて君と為す。是を鄂侯と為す。鄂侯の二年、魯の隠公初めて立つ。鄂侯六年にして卒す。曲沃の荘伯晋の鄂侯の卒せしを聞き、乃ち兵を興して晋を伐つ。周の平王虢公をして兵を将ゐて曲沃の荘伯を伐たしむ。荘伯走りて曲沃を保つ。晋人共に鄂侯の子光を立つ。是を哀侯と為す。哀侯の二年、曲沃の荘伯卒し、子の称荘伯に代はりて立つ。是を曲沃の武公と為す。哀侯の六年、魯其の君隠公を弑す。哀侯の八年、晋陘廷を侵す。陘廷曲沃の武公と謀り、九年、晋を汾の旁に伐ち、哀侯を虜にす。晋人乃ち哀侯の子小子を立てて君と為す。是を小子侯と為す。

現代語訳

殤叔の三年、周の宣王が亡くなった。四年、穆侯の太子の仇が仲間を率いて殤叔を襲い、君主の位についた。これが文侯である。文侯の十年、周の幽王が道にはずれた政治を行い、犬戎が幽王を殺し、周は東へ都を移した。そして秦の襄公が初めて諸侯に列せられた。三十五年、文侯仇が亡くなり、子の昭侯伯が立った。昭侯の元年、文侯の弟の成師を曲沃に封じた。曲沃の町は翼よりも大きかった。翼は晋の君主の都である。成師は曲沃に封じられて桓叔と号した。靖侯の庶流の孫である欒賓が桓叔の補佐役となった。桓叔はこのとき五十八歳で、徳を好み、晋の人々はみな桓叔に心を寄せた。君子は言った。「晋の乱は曲沃から起こるだろう。枝が幹より大きくなり、しかも民の心をつかんでいる。これで乱れないはずがあろうか」。七年、晋の大臣の潘父がその君の昭侯を殺し、曲沃の桓叔を迎え入れようとした。桓叔が晋の都に入ろうとすると、晋の人々は兵を出して桓叔を攻めた。桓叔は敗れて曲沃に引き返した。晋の人々は共に昭侯の子の平を君主に立てた。これが孝侯である。そして潘父を誅殺した。孝侯の八年、曲沃の桓叔が亡くなり、子の胛(鱓)が桓叔の後を継いだ。これが曲沃の荘伯である。孝侯の十五年、曲沃の荘伯は翼でその君の晋の孝侯を殺した。晋の人々が曲沃の荘伯を攻めると、荘伯はまた曲沃に戻った。晋の人々はあらためて孝侯の子の郄を君主に立てた。これが鄂侯である。鄂侯の二年、魯の隠公が即位した。鄂侯は在位六年で亡くなった。曲沃の荘伯は晋の鄂侯が亡くなったと聞くと、兵を起こして晋を攻めた。周の平王は虢公に兵を率いさせて曲沃の荘伯を討たせた。荘伯は逃げて曲沃に立てこもった。晋の人々は共に鄂侯の子の光を立てた。これが哀侯である。哀侯の二年、曲沃の荘伯が亡くなり、子の称が荘伯の後を継いだ。これが曲沃の武公である。哀侯の六年、魯でその君の隠公が殺された。哀侯の八年、晋が陘廷を侵した。陘廷は曲沃の武公と謀り、九年、汾水のほとりで晋を攻め、哀侯を捕虜にした。晋の人々は哀侯の子の小子を君主に立てた。これが小子侯である。

解説

晋の本家と、分家である曲沃との長い争いの始まりを描く段です。昭侯は叔父の成師(桓叔)を曲沃に封じましたが、曲沃は本家の都の翼よりも大きく、しかも桓叔は徳を好んで人々の心をつかみました。君子の「枝が幹より大きくなり、民心を得ている。乱れないはずがない」という言葉は、組織論としても鋭い指摘です。その後、桓叔・荘伯・武公の三代にわたり、曲沃は本家の君主を次々に殺したり捕らえたりし、本家は君主を失うたびに次の君主を立てて抵抗します。本家の側にも周王の支援がありましたが、流れは変わりませんでした。前段の師服の予言、つまり「成師」という名が示した運命が、現実のものとなっていくのです。子会社や一部門が本体をしのぐ力と人望を持ったとき、統治の構造そのものが揺らぐという教訓は、今の企業グループの経営にもそのまま当てはまるでしょう。

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