史記 / 秦本紀
周宣王乃召莊公昆弟五人,與兵七千人,使伐西戎,破之。於是復予秦仲後,及其先大駱地犬丘并有之,為西垂大夫。莊公居其故西犬丘,生子三人,其長男世父。世父曰:「戎殺我大父仲,我非殺戎王則不敢入邑。」遂將擊戎,讓其弟襄公。襄公為太子。莊公立四十四年,卒,太子襄公代立。襄公元年,以女弟繆嬴為豐王妻。襄公二年,戎圍犬丘,世父擊之,為戎人所虜。歲餘,復歸世父。七年春,周幽王用褒姒廢太子,立褒姒子為適,數欺諸侯,諸侯叛之。西戎犬戎與申侯伐周,殺幽王酈山下。而秦襄公將兵救周,戰甚力,有功。周避犬戎難,東徙雒邑,襄公以兵送周平王。平王封襄公為諸侯,賜之岐以西之地。曰:「戎無道,侵奪我岐、豐之地,秦能攻逐戎,即有其地。」與誓,封爵之。襄公於是始國,與諸侯通使聘享之禮,乃用騮駒、黃牛、羝羊各三,祠上帝西畤。十二年,伐戎而至岐,卒。生文公。文公元年,居西垂宮。三年,文公以兵七百人東獵。四年,至汧渭之會。曰:「昔周邑我先秦嬴於此,後卒獲為諸侯。」乃卜居之,占曰吉,即營邑之。十年,初為鄜畤,用三牢。十三年,初有史以紀事,民多化者。十六年,文公以兵伐戎,戎敗走。
新字:周宣王乃召荘公昆弟五人,与兵七千人,使伐西戎,破之。於是復予秦仲後,及其先大駱地犬丘并有之,為西垂大夫。荘公居其故西犬丘,生子三人,其長男世父。世父曰:「戎殺我大父仲,我非殺戎王則不敢入邑。」遂将撃戎,譲其弟襄公。襄公為太子。荘公立四十四年,卒,太子襄公代立。襄公元年,以女弟繆嬴為豊王妻。襄公二年,戎囲犬丘,世父撃之,為戎人所虜。歳余,復帰世父。七年春,周幽王用褒姒廃太子,立褒姒子為適,数欺諸侯,諸侯叛之。西戎犬戎与申侯伐周,殺幽王酈山下。而秦襄公将兵救周,戦甚力,有功。周避犬戎難,東徙雒邑,襄公以兵送周平王。平王封襄公為諸侯,賜之岐以西之地。曰:「戎無道,侵奪我岐、豊之地,秦能攻逐戎,即有其地。」与誓,封爵之。襄公於是始国,与諸侯通使聘享之礼,乃用騮駒、黄牛、羝羊各三,祠上帝西畤。十二年,伐戎而至岐,卒。生文公。文公元年,居西垂宮。三年,文公以兵七百人東猟。四年,至汧渭之会。曰:「昔周邑我先秦嬴於此,後卒獲為諸侯。」乃卜居之,占曰吉,即営邑之。十年,初為鄜畤,用三牢。十三年,初有史以紀事,民多化者。十六年,文公以兵伐戎,戎敗走。
書き下し
周の宣王乃ち荘公の昆弟五人を召し、兵七千人を与へ、西戎を伐たしむ。之を破る。是に於て復た秦仲の後に予へ、及び其の先の大駱の地犬丘并せて之を有たしめ、西垂の大夫と為す。荘公其の故の西犬丘に居り、子三人を生む。其の長男は世父なり。世父曰く、「戎我が大父仲を殺す。我戎王を殺すに非ずんば則ち敢へて邑に入らず」と。遂に将として戎を撃ち、其の弟襄公に譲る。襄公太子と為る。荘公立つこと四十四年にして卒し、太子襄公代はりて立つ。襄公の元年、女弟繆嬴を以て豊王の妻と為す。襄公の二年、戎犬丘を囲む。世父之を撃ち、戎人の虜とする所と為る。歳余にして、復た世父を帰す。七年春、周の幽王褒姒を用ゐて太子を廃し、褒姒の子を立てて適と為し、数諸侯を欺く。諸侯之に叛く。西戎の犬戎申侯と周を伐ち、幽王を酈山の下に殺す。而して秦の襄公兵を将ゐて周を救ひ、戦ふこと甚だ力め、功有り。周犬戎の難を避け、東のかた雒邑に徙る。襄公兵を以て周の平王を送る。平王襄公を封じて諸侯と為し、之に岐以西の地を賜ふ。曰く、「戎無道にして、我が岐・豊の地を侵奪す。秦能く戎を攻め逐はば、即ち其の地を有たん」と。与に誓ひ、之を封爵す。襄公是に於て始めて国し、諸侯と使を通じ聘享の礼をす。乃ち騮駒・黄牛・羝羊各三を用ゐて、上帝を西畤に祠る。十二年、戎を伐ちて岐に至りて卒す。文公を生む。文公の元年、西垂宮に居る。三年、文公兵七百人を以て東に猟す。四年、汧渭の会に至る。曰く、「昔周我が先の秦嬴を此に邑し、後卒に諸侯と為るを獲たり」と。乃ち之に居ることを卜するに、占に吉と曰ふ。即ち之に邑を営む。十年、初めて鄜畤を為り、三牢を用ゐる。十三年、初めて史有りて以て事を紀し、民多く化す。十六年、文公兵を以て戎を伐ち、戎敗走す。
現代語訳
周の宣王はそこで荘公ら兄弟五人を呼び寄せ、兵七千人を与えて西戎を討たせた。彼らは西戎を破った。そこで再び秦仲の子孫に領地を与え、あわせて祖先の大駱の地である犬丘も領有させ、西垂の大夫とした。荘公はもとの西犬丘に住み、三人の子をもうけた。その長男が世父である。世父は言った。「戎は我が祖父の秦仲を殺した。私は戎王を殺すまでは決して町に入らない。」そして将となって戎を攻め、跡継ぎの地位を弟の襄公に譲った。襄公が太子となった。荘公は即位して四十四年で亡くなり、太子の襄公が代わって立った。襄公の元年、妹の繆嬴を豊王(戎の王)の妻とした。襄公の二年、戎が犬丘を包囲した。世父はこれを攻めたが、戎に捕らえられた。一年余りして、戎は世父を帰した。七年の春、周の幽王は褒姒を寵愛して太子を廃し、褒姒の子を跡継ぎとし、たびたび諸侯を欺いた。諸侯は幽王に背いた。西戎の犬戎は申侯とともに周を討ち、幽王を酈山のふもとで殺した。そのとき秦の襄公は兵を率いて周を救い、大いに奮戦して功を立てた。周は犬戎の難を避けて東の雒邑に都を移した。襄公は兵を率いて周の平王を護送した。平王は襄公を諸侯に封じ、岐山から西の地を与えた。そして言った。「戎は無道で、我が岐・豊の地を侵し奪った。秦がもし戎を攻めて追い払えたなら、その地を領有してよい。」こう誓って、襄公に爵位を与えた。襄公はこのときはじめて国を建て、諸侯と使者を交わし、訪問やもてなしの礼を行うようになった。そして赤毛の若馬・黄色の牛・雄羊をそれぞれ三頭用いて、西畤で上帝を祭った。十二年、戎を討って岐に至ったところで亡くなった。襄公は文公を生んだ。文公の元年、西垂宮に住んだ。三年、文公は兵七百人を率いて東へ狩りに出た。四年、汧水と渭水の合流点に至った。文公は言った。「昔、周は我が祖先の秦嬴をこの地に住まわせ、その後ついに諸侯となることができた。」そこでこの地に住むことを占ったところ、吉と出た。そこでここに町を築いた。十年、はじめて鄜畤という祭場を作り、牛・羊・豚を供えた。十三年、はじめて史官を置いて出来事を記録させ、民の多くが教化された。十六年、文公は兵を率いて戎を討ち、戎は敗走した。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝申侯怒りて犬戎と共に周の幽王を驪山の下に攻め殺し、遂に周の焦穫を取りて、涇渭の間に居り、中国を侵暴す。秦の襄公周を救ふ。是に於て周の平王酆鄗を去りて東のかた雒邑に徙る。是の時に当たり、秦の襄公戎を伐ちて岐に至り、始めて列して諸侯と為る。是の後六十有五年、而して山戎燕を越えて斉を伐つ。斉の釐公与に斉の郊に戦ふ。其の後四十四年、而して山戎燕を伐つ。燕急を斉に告ぐ。斉の桓公北のかた山戎を伐ち、山戎走る。其の後二十有余年、而して戎狄洛邑に至り、周の襄王を伐つ。襄王鄭の氾邑に奔る。初め、周の襄王鄭を伐たんと欲し、故に戎狄の女を娶りて后と為し、戎狄の兵と共に鄭を伐つ。已にして狄后を黜く。狄后怨む。而して襄王の後母を恵后と曰ひ、子子帯有り、之を立てんと欲す。是に於て恵后狄后・子帯と内応を為し、戎狄を開く。戎狄故を以て入るを得、周の襄王を破逐して、子帯を立てて天子と為す。是に於て戎狄或いは陸渾に居り、東のかた衛に至り、中国を侵盗暴虐す。中国之を疾む。故に詩人之を歌ひて曰く、「戎狄是れ膺つ」、「薄か獫狁を伐ちて、大原に至る」、「輿を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く」と。周の襄王既に外に居ること四年、乃ち使をして急を晋に告げしむ。晋の文公初めて立ち、覇業を修めんと欲し、乃ち師を興して戎翟を伐逐し、子帯を誅し、周の襄王を迎へ内れて、雒邑に居らしむ。是の時に当たり、秦晋彊国為り。晋の文公戎翟を攘ひ、河西の圁・洛の間に居らしむ。号して赤翟・白翟と曰ふ。秦の穆公由余を得て、西戎の八国秦に服す。故に隴より以西に綿諸・緄戎・翟・獂の戎有り、岐・梁山・涇・漆の北に義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎有り。
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史記 秦本紀徐の偃王乱を作す。造父繆王の為に御し、長駆して周に帰り、一日千里にして以て乱を救ふ。繆王趙城を以て造父を封ず。造父の族此より趙氏と為る。蜚廉の季勝を生みしより已下五世にして造父に至り、別れて趙に居る。趙衰は其の後なり。悪来革は、蜚廉の子なり、蚤く死す。子有りて女防と曰ふ。女防旁皋を生み、旁皋太幾を生み、太幾大駱を生み、大駱非子を生む。造父の寵を以て、皆趙城を蒙り、趙氏を姓とす。非子犬丘に居り、馬及び畜を好み、善く之を養息す。犬丘の人之を周の孝王に言ふ。孝王召して馬を汧渭の間に主らしむるに、馬大いに蕃息す。孝王以て大駱の適嗣と為さんと欲す。申侯の女大駱の妻と為り、子成を生みて適と為る。申侯乃ち孝王に言ひて曰く、「昔我が先の酈山の女、戎の胥軒の妻と為り、中潏を生む。親の故を以て周に帰し、西垂を保つ。西垂其の故を以て和睦す。今我復た大駱に妻を与へ、適子成を生む。申・駱重ねて婚し、西戎皆服す。王為る所以なり。王其れ之を図れ」と。是に於て孝王曰く、「昔伯翳舜の為に畜を主り、畜多く息す。故に土有り、姓を嬴と賜ふ。今其の後世亦朕の為に馬を息す。朕其れ土を分かちて附庸と為さん」と。之を秦に邑し、復た嬴氏の祀を続がしめ、号して秦嬴と曰ふ。亦申侯の女の子の駱の適為る者を廃せず、以て西戎を和す。秦嬴秦侯を生む。秦侯立つこと十年にして卒す。公伯を生む。公伯立つこと三年にして卒す。秦仲を生む。秦仲立つこと三年、周の厲王無道にして、諸侯或いは之に叛く。西戎王室に反き、犬丘大駱の族を滅ぼす。周の宣王即位し、乃ち秦仲を以て大夫と為し、西戎を誅せしむ。西戎秦仲を殺す。秦仲立つこと二十三年にして、戎に死す。子五人有り、其の長者を荘公と曰ふ。
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史記 秦本紀是に於て文公遂に周の余民を収めて之を有ち、地岐に至り、岐以東は之を周に献ず。十九年、陳宝を得。二十年、法に初めて三族の罪有り。二十七年、南山の大梓を伐ち、豊大特あり。四十八年、文公の太子卒す。謚を賜ひて竫公と為す。竫公の長子を太子と為す。是れ文公の孫なり。五十年、文公卒し、西山に葬る。竫公の子立つ。是を寧公と為す。寧公の二年、公徙りて平陽に居る。兵を遣はして蕩社を伐つ。三年、亳と戦ふ。亳王戎に奔り、遂に蕩社を滅ぼす。四年、魯の公子翬其の君隠公を弒す。十二年、蕩氏を伐ちて、之を取る。寧公生まれて十歳にして立ち、立つこと十二年にして卒し、西山に葬る。子三人を生む。長男武公太子と為る。武公の弟徳公は、同母にして魯姫の子なり。出子を生む。寧公卒し、大庶長弗忌・威塁・三父太子を廃して出子を立てて君と為す。出子の六年、三父等復た共に人をして出子を賊殺せしむ。出子生まれて五歳にして立ち、立つこと六年にして卒す。三父等乃ち復た故の太子武公を立つ。武公の元年、彭戯氏を伐ち、華山の下に至り、平陽の封宮に居る。三年、三父等を誅して三族を夷す、其の出子を殺せしを以てなり。鄭の高渠瞇其の君昭公を殺す。十年、邽・冀の戎を伐ち、初めて之を県とす。十一年、初めて杜・鄭を県とす。小虢を滅ぼす。十三年、斉人管至父・連称等其の君襄公を殺して公孫無知を立つ。晋霍・魏・耿を滅ぼす。斉の雍廩無知・管至父等を殺して斉の桓公を立つ。斉・晋彊国と為る。十九年、晋の曲沃始めて晋侯と為る。斉の桓公鄄に伯たり。二十年、武公卒し、雍の平陽に葬る。初めて人を以て死に従はしむ。死に従ふ者六十六人。子一人有り、名を白と曰ふ。白立たず、平陽に封ず。其の弟徳公を立つ。
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史記 秦本紀繆公の子四十人、其の太子嵤代はりて立つ。是を康公と為す。康公の元年。往歳繆公の卒せしとき、晋の襄公も亦卒す。襄公の弟名は雍、秦の出なり、秦に在り。晋の趙盾之を立てんと欲し、随会をして来たりて雍を迎へしむ。秦兵を以て送りて令狐に至る。晋襄公の子を立てて反りて秦の師を撃つ。秦の師敗れ、随会来奔す。二年、秦晋を伐ち、武城を取り、令狐の役に報ゆ。四年、晋秦を伐ち、少梁を取る。六年、秦晋を伐ち、羈馬を取る。河曲に戦ひ、大いに晋の軍を敗る。晋人随会の秦に在りて乱を為すを患ひ、乃ち魏讎余をして詳りて反かしめ、会と合謀し、詐りて会を得たり。会遂に晋に帰る。康公立つこと十二年にして卒し、子共公立つ。共公の二年、晋の趙穿其の君霊公を弒す。三年、楚の荘王彊く、北のかた兵雒に至り、周の鼎を問ふ。共公立つこと五年にして卒し、子桓公立つ。桓公の三年、晋我が一将を敗る。十年、楚の荘王鄭を服し、北のかた晋の兵を河上に敗る。是の時に当たり、楚霸たり、会盟を為して諸侯を合す。二十四年、晋の厲公初めて立ち、秦の桓公と河を夾みて盟ふ。帰りて秦盟に倍き、翟と合謀して晋を撃つ。二十六年、晋諸侯を率ゐて秦を伐つ。秦の軍敗走し、追ひて涇に至りて還る。桓公立つこと二十七年にして卒し、子景公立つ。景公の四年、晋の欒書其の君厲公を弒す。十五年、鄭を救ひ、晋の兵を櫟に敗る。是の時晋の悼公盟主為り。十八年、晋の悼公彊く、数諸侯を会し、率ゐて以て秦を伐ち、秦の軍を敗る。秦の軍走り、晋の兵之を追ひ、遂に涇を渡り、棫林に至りて還る。二十七年、景公晋に如き、平公と盟ひ、已にして之に背く。三十六年、楚の公子囲其の君を弒して自立す。是を霊王と為す。
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