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史記 / 李将軍列伝

而右將軍獨下吏,當死,贖爲庶人。廣子三人,曰當戸、椒、敢,爲郎。天子與韓嫣戲,嫣少不遜,當戸擊嫣,嫣走。於是天子以爲勇。當戸早死,拜椒爲代郡太守,皆先廣死。當戸有遺腹子名陵。廣死軍時,敢從驃騎將軍。廣死明年,李蔡以丞相坐侵孝景園壖地,當下吏治,蔡亦自殺,不對獄,國除。李敢以校尉從驃騎將軍擊胡左賢王,力戰,奪左賢王鼓旗,斬首多,賜爵關內侯,食邑二百戸,代廣爲郎中令。頃之,怨大將軍青之恨其父,乃擊傷大將軍,大將軍匿諱之。居無何,敢從上雍,至甘泉宮獵。驃騎將軍去病與青有親,射殺敢。去病時方貴幸,上諱云鹿觸殺之。居歳餘,去病死。而敢有女爲太子中人,愛幸,敢男禹有寵於太子,然好利,李氏陵遲衰微矣。李陵既壯,選爲建章監,監諸騎。善射,愛士卒。天子以爲李氏世將,而使將八百騎。嘗深入匈奴二千餘里,過居延視地形,無所見虜而還。拜爲騎都尉,將丹陽楚人五千人,教射酒泉、張掖以屯衞胡。數歳,天漢二年秋,貳師將軍李廣利將三萬騎擊匈奴右賢王於祁連天山,而使陵將其射士歩兵五千人出居延北可千餘里,欲以分匈奴兵,毋令專走貳師也。陵既至期還,而單于以兵八萬圍擊陵軍。

新字:而右将軍独下吏,当死,贖為庶人。広子三人,曰当戸、椒、敢,為郎。天子与韓嫣戯,嫣少不遜,当戸撃嫣,嫣走。於是天子以為勇。当戸早死,拝椒為代郡太守,皆先広死。当戸有遺腹子名陵。広死軍時,敢従驃騎将軍。広死明年,李蔡以丞相坐侵孝景園壖地,当下吏治,蔡亦自殺,不対獄,国除。李敢以校尉従驃騎将軍撃胡左賢王,力戦,奪左賢王鼓旗,斬首多,賜爵関内侯,食邑二百戸,代広為郎中令。頃之,怨大将軍青之恨其父,乃撃傷大将軍,大将軍匿諱之。居無何,敢従上雍,至甘泉宮猟。驃騎将軍去病与青有親,射殺敢。去病時方貴幸,上諱云鹿触殺之。居歳余,去病死。而敢有女為太子中人,愛幸,敢男禹有寵於太子,然好利,李氏陵遅衰微矣。李陵既壮,選為建章監,監諸騎。善射,愛士卒。天子以為李氏世将,而使将八百騎。嘗深入匈奴二千余里,過居延視地形,無所見虜而還。拝為騎都尉,将丹陽楚人五千人,教射酒泉、張掖以屯衛胡。数歳,天漢二年秋,貳師将軍李広利将三万騎撃匈奴右賢王於祁連天山,而使陵将其射士歩兵五千人出居延北可千余里,欲以分匈奴兵,毋令専走貳師也。陵既至期還,而単于以兵八万囲撃陵軍。

書き下し

而して右将軍独り吏に下され、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の子三人、当戸・椒・敢と曰ひ、郎と為る。天子韓嫣と戯る。嫣少しく不遜なり。当戸嫣を撃ち、嫣走る。是に於て天子以て勇と為す。当戸早く死す。椒を拝して代郡の太守と為す。皆広に先だちて死す。当戸に遺腹の子有り、名は陵。広軍に死する時、敢は驃騎将軍に従ふ。広死するの明年、李蔡丞相を以て孝景の園の壖地を侵すに坐し、当に吏に下りて治むべし。蔡も亦自殺し、獄に対へず、国除かる。李敢校尉を以て驃騎将軍に従ひて胡の左賢王を撃ち、力戦して、左賢王の鼓旗を奪ひ、斬首多し。爵関内侯を賜ひ、食邑二百戸、広に代はりて郎中令と為る。頃之、大将軍青の其の父を恨ましめしを怨み、乃ち大将軍を撃ち傷つく。大将軍匿して之を諱む。居ること何も無く、敢上に従ひて雍に之き、甘泉宮に至りて猟す。驃騎将軍去病青と親有り、敢を射殺す。去病時に方に貴幸せらる。上諱みて鹿触れて之を殺すと云ふ。居ること歳余にして、去病死す。而して敢に女有りて太子の中人と為り、愛幸せらる。敢の男禹太子に寵有り。然れども利を好む。李氏陵遅して衰微す。李陵既に壮にして、選ばれて建章の監と為り、諸騎を監す。射を善くし、士卒を愛す。天子以為へらく李氏は世々将なりと。而して八百騎を将ゐしむ。嘗て深く匈奴に入ること二千余里、居延を過ぎて地形を視、虜を見る所無くして還る。拝して騎都尉と為し、丹陽の楚人五千人を将ゐて、射を酒泉・張掖に教へ、以て屯して胡を衛らしむ。数歳にして、天漢二年秋、弐師将軍李広利三万騎を将ゐて匈奴の右賢王を祁連天山に撃つ。而して陵をして其の射士歩兵五千人を将ゐて居延の北千余里可りに出でしめ、以て匈奴の兵を分かち、専ら弐師に走らしむる毋からんと欲す。陵既に期に至りて還る。而して単于兵八万を以て陵の軍を囲撃す。

現代語訳

そして右将軍(趙食其)だけが獄吏に引き渡され、死罪に当たるとされたが、金で贖って庶民となった。李広には三人の息子がいて、当戸・椒・敢といい、皆郎となった。天子が寵臣の韓嫣と戯れていた時、韓嫣が少し不遜な態度をとったので、当戸は韓嫣を打ち、韓嫣は逃げ出した。天子はこのことで当戸を勇敢だと思った。当戸は早死にした。椒は代郡太守に任じられたが、二人とも李広より先に亡くなった。当戸には父の死後に生まれた子がおり、名を陵といった。李広が軍中で死んだ時、李敢は驃騎将軍(霍去病)に従軍していた。李広が死んだ翌年、李蔡は丞相でありながら孝景帝の陵園の周囲の空き地を侵した罪に問われ、獄吏に引き渡されて取り調べを受けることになったが、李蔡もまた自殺して取り調べに応じず、国は取りつぶされた。李敢は校尉として驃騎将軍に従って匈奴の左賢王を攻撃し、力戦して左賢王の太鼓と軍旗を奪い、多くの敵を斬った。関内侯の爵位と食邑二百戸を与えられ、李広に代わって郎中令となった。まもなく、李敢は大将軍衛青が父を恨みを抱いて死なせたことを怨み、大将軍を打って傷つけた。大将軍はこれを隠して公にしなかった。それからまもなく、李敢は天子に従って雍に行き、甘泉宮で狩りをした。驃騎将軍霍去病は衛青と親族であったので、李敢を射殺した。霍去病はその頃まさに寵愛を受けていたので、天子はこれを隠して、鹿の角に突かれて死んだと言った。一年余りして霍去病も死んだ。李敢には娘がいて、太子の側室となり寵愛され、李敢の息子の李禹も太子に寵愛されたが、利益を好む性格であった。李氏はしだいに衰えていった。李陵は壮年になると、選ばれて建章宮の監となり、騎兵たちを監督した。弓がうまく、兵士を大切にした。天子は、李氏は代々将軍の家柄であると考えて、李陵に八百騎を率いさせた。李陵はかつて匈奴の地に二千里余りも深く入り込み、居延を越えて地形を視察し、敵に遭うことなく帰った。騎都尉に任じられ、丹陽の楚の人五千人を率いて、酒泉・張掖で弓術を教え、駐屯して匈奴に備えた。数年後の天漢二年秋、弐師将軍李広利が三万騎を率いて、祁連山・天山で匈奴の右賢王を攻撃した。そして李陵にはその弓兵・歩兵五千人を率いて居延の北千里余りに出撃させ、匈奴の兵を分散させて、弐師将軍の方にばかり向かわないようにしようとした。李陵は予定の期日になって引き返そうとしたが、単于が兵八万で李陵の軍を包囲攻撃した。

解説

李広の死後、一族がたどった運命を記した段です。李広の三人の息子のうち二人は父より先に亡くなり、従弟の李蔡は丞相として陵園の土地を侵した罪に問われて自殺しました。三男の李敢は霍去病に従って軍功を立て父の後を継ぎますが、父を死に追いやった衛青を恨んで殴り、その後、衛青の甥である霍去病に狩り場で射殺されます。武帝は寵臣霍去病をかばい、鹿に突かれて死んだと取り繕いました。権力の中枢での私刑がもみ消される様子が、淡々と記されています。そして李広の孫、李陵が登場します。弓に優れ兵を愛した李陵は、天漢二年、李広利の遠征を助けるため、わずか五千の歩兵を率いて匈奴の奥深くに出撃し、帰還の途中で単于の八万の兵に包囲されました。司馬遷は、この李陵を弁護したために宮刑に処されることになります。祖父から孫へと続く、武勇の一族の悲劇の連鎖がここから極まっていきます。

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