史記 / 李将軍列伝
陵軍五千人,兵矢既盡,士死者過半,而所殺傷匈奴亦萬餘人。且引且戰,連鬬八日,還未到居延百餘里,匈奴遮狹絶道,陵食乏而救兵不到,虜急擊招降陵。陵曰:「無面目報陛下。」遂降匈奴。其兵盡沒,餘亡散得歸漢者四百餘人。單于既得陵,素聞其家聲,及戰又壯,乃以其女妻陵而貴之。漢聞,族陵母妻子。自是之後,李氏名敗,而隴西之士居門下者皆用爲恥焉。
新字:陵軍五千人,兵矢既尽,士死者過半,而所殺傷匈奴亦万余人。且引且戦,連闘八日,還未到居延百余里,匈奴遮狭絶道,陵食乏而救兵不到,虜急撃招降陵。陵曰:「無面目報陛下。」遂降匈奴。其兵尽没,余亡散得帰漢者四百余人。単于既得陵,素聞其家声,及戦又壮,乃以其女妻陵而貴之。漢聞,族陵母妻子。自是之後,李氏名敗,而隴西之士居門下者皆用為恥焉。
書き下し
陵の軍五千人、兵矢既に尽き、士死する者半ばを過ぐ。而して殺傷する所の匈奴も亦万余人。且つ引き且つ戦ひ、連闘すること八日、還りて未だ居延に到らざること百余里、匈奴狭きを遮りて道を絶つ。陵食乏しくして救兵到らず。虜急に撃ちて陵を招降す。陵曰く、「面目の陛下に報ずる無し」と。遂に匈奴に降る。其の兵尽く没し、余の亡散して漢に帰るを得る者四百余人。単于既に陵を得、素より其の家声を聞き、戦ふに及びて又壮なり。乃ち其の女を以て陵に妻はせて之を貴くす。漢聞きて、陵の母妻子を族す。是より後、李氏の名敗れ、而して隴西の士の門下に居る者皆用て恥と為す。
現代語訳
李陵の軍五千人は、武器も矢もすでに尽き、兵士の半数以上が死んだが、殺傷した匈奴の兵もまた一万人余りに上った。退きながら戦い、八日間戦い続けて、帰りの道で居延まであと百里余りという所で、匈奴は狭い道を塞いで退路を断った。李陵は食糧が乏しく、救援の兵も来なかった。敵は激しく攻撃しながら李陵に降伏を呼びかけた。李陵は「陛下に報告する面目がない」と言って、ついに匈奴に降伏した。その兵はことごとく戦死し、残りで逃げ散って漢に帰り着けた者は四百人余りであった。単于は李陵を得ると、かねてその家の名声を聞いていたうえ、戦いぶりもまた勇壮であったので、自分の娘を李陵に嫁がせて厚遇した。漢はこれを聞いて、李陵の母と妻子を一族皆殺しにした。これ以後、李氏の名声は地に落ち、隴西の士で李氏の門下にいた者は皆、そのことを恥とした。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝又騎都尉李陵をして歩騎五千人を将ゐて、居延の北千余里に出でしむ。単于と会し、合戦す。陵の殺傷する所万余人。兵及び食尽き、解きて帰らんと欲す。匈奴陵を囲む。陵匈奴に降り、其の兵遂に没す。還るを得る者四百人。単于乃ち陵を貴び、其の女を以て之に妻はす。後二歳、復た弐師将軍をして六万騎、歩兵十万を将ゐて、朔方より出でしむ。彊弩都尉路博徳万余人を将ゐて、弐師と会す。游撃将軍説歩騎三万人を将ゐて、五原より出づ。因杅将軍敖万騎歩兵三万人を将ゐて、鴈門より出づ。匈奴聞き、悉く其の累重を余吾水の北に遠ざけ、而して単于十万騎を以て水の南に待ち、弐師将軍と接戦す。弐師乃ち解きて引き帰り、単于と連戦すること十余日。弐師其の家の巫蠱を以て族滅せらるるを聞き、因りて衆を并せて匈奴に降る。来り還るを得る者千人に一両人のみ。游撃説は得る所無し。因杅敖は左賢王と戦ひ、利あらず、引き帰る。是の歳漢の兵の出でて匈奴を撃つ者、功の多少を言ふを得ず、功御するを得ず。詔有りて太医令随但を捕ふ。弐師将軍の家室族滅せらるるを言ひて、広利をして匈奴に降るを得しむればなり。
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史記 李将軍列伝而して右将軍独り吏に下され、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の子三人、当戸・椒・敢と曰ひ、郎と為る。天子韓嫣と戯る。嫣少しく不遜なり。当戸嫣を撃ち、嫣走る。是に於て天子以て勇と為す。当戸早く死す。椒を拝して代郡の太守と為す。皆広に先だちて死す。当戸に遺腹の子有り、名は陵。広軍に死する時、敢は驃騎将軍に従ふ。広死するの明年、李蔡丞相を以て孝景の園の壖地を侵すに坐し、当に吏に下りて治むべし。蔡も亦自殺し、獄に対へず、国除かる。李敢校尉を以て驃騎将軍に従ひて胡の左賢王を撃ち、力戦して、左賢王の鼓旗を奪ひ、斬首多し。爵関内侯を賜ひ、食邑二百戸、広に代はりて郎中令と為る。頃之、大将軍青の其の父を恨ましめしを怨み、乃ち大将軍を撃ち傷つく。大将軍匿して之を諱む。居ること何も無く、敢上に従ひて雍に之き、甘泉宮に至りて猟す。驃騎将軍去病青と親有り、敢を射殺す。去病時に方に貴幸せらる。上諱みて鹿触れて之を殺すと云ふ。居ること歳余にして、去病死す。而して敢に女有りて太子の中人と為り、愛幸せらる。敢の男禹太子に寵有り。然れども利を好む。李氏陵遅して衰微す。李陵既に壮にして、選ばれて建章の監と為り、諸騎を監す。射を善くし、士卒を愛す。天子以為へらく李氏は世々将なりと。而して八百騎を将ゐしむ。嘗て深く匈奴に入ること二千余里、居延を過ぎて地形を視、虜を見る所無くして還る。拝して騎都尉と為し、丹陽の楚人五千人を将ゐて、射を酒泉・張掖に教へ、以て屯して胡を衛らしむ。数歳にして、天漢二年秋、弐師将軍李広利三万騎を将ゐて匈奴の右賢王を祁連天山に撃つ。而して陵をして其の射士歩兵五千人を将ゐて居延の北千余里可りに出でしめ、以て匈奴の兵を分かち、専ら弐師に走らしむる毋からんと欲す。陵既に期に至りて還る。而して単于兵八万を以て陵の軍を囲撃す。
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史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
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史記 李将軍列伝已に之を縛りて馬に上すに、匈奴数千騎有るを望む。広を見て、以て誘騎と為し、皆驚き、山に上りて陳す。広の百騎皆大いに恐れ、馳せて還り走らんと欲す。広曰く、「吾大軍を去ること数十里。今此の如く百騎を以て走らば、匈奴追ひて我を射て立ちどころに尽くさん。今我留まらば、匈奴必ず我を以て大軍の誘ひと為し、必ず敢へて我を撃たざらん」と。広諸騎に令して曰く、「前め」と。前みて未だ匈奴の陳に到らざること二里所にして、止まり、令して曰く、「皆馬を下りて鞍を解け」と。其の騎曰く、「虜多く且つ近し。即し急有らば、奈何せん」と。広曰く、「彼の虜は我を以て走ると為す。今皆鞍を解きて以て走らざるを示し、用て其の意を堅くせん」と。是に於て胡騎遂に敢へて撃たず。白馬の将有りて出でて其の兵を護る。李広馬に上りて十余騎と奔りて胡の白馬の将を射殺し、而して復た還りて其の騎中に至り、鞍を解き、士をして皆馬を縦ちて臥せしむ。是の時会々暮れ、胡兵終に之を怪しみ、敢へて撃たず。夜半の時、胡兵も亦以為へらく、漢に伏軍の旁に有りて夜之を取らんと欲すと。胡皆兵を引きて去る。平旦、李広乃ち其の大軍に帰る。大軍広の之く所を知らず、故に従はず。居ること之を久しくして、孝景崩じ、武帝立つ。左右以て広を名将と為す。是に於て広上郡の太守を以て未央の衛尉と為り、而して程不識も亦長楽の衛尉と為る。
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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史記 李将軍列伝程不識は孝景の時数々直諫するを以て太中大夫と為る。人と為り廉にして、文法に謹む。後に漢馬邑の城を以て単于を誘ひ、大軍をして馬邑の旁の谷に伏せしむ。而して広は驍騎将軍と為り、護軍将軍に領属す。是の時単于之を覚りて、去る。漢の軍皆功無し。其の後四歳、広衛尉を以て将軍と為り、鴈門より出でて匈奴を撃つ。匈奴の兵多く、広の軍を破敗し、広を生け得たり。単于素より広の賢を聞き、令して曰く、「李広を得ば必ず生きて之を致せ」と。胡騎広を得たり。広時に傷つき病む。広を両馬の間に置き、絡ひて盛りて広を臥せしむ。行くこと十余里、広佯り死し、其の旁に一胡児の善馬に騎るもの有るを睨み、広暫かに騰りて胡児の馬に上り、因りて児を推し墮とし、其の弓を取り、馬に鞭うちて南に馳すること数十里、復た其の余軍を得て、因りて引きて塞に入る。匈奴の捕ふる者騎数百之を追ふ。広行くゆく胡児の弓を取りて、追騎を射殺し、故を以て脱するを得たり。是に於て漢に至る。漢広を吏に下す。吏広の失亡する所多く、虜の生け得る所と為るを当て、斬に当つ。贖ひて庶人と為る。頃之、家居すること数歳。広家して故の潁陰侯の孫と藍田の南山の中に屏野居して射猟す。嘗て夜一騎を従へて出で、人に従ひて田間に飲む。還りて霸陵の亭に至る。霸陵の尉酔ひて、広を呵止す。広の騎曰く、「故の李将軍なり」と。尉曰く、「今の将軍すら尚ほ夜行くを得ず。何ぞ乃ち故をや」と。広を止めて亭下に宿せしむ。居ること何も無く、匈奴入りて遼西の太守を殺し、韓将軍を敗る。後に韓将軍右北平に徙る。是に於て天子乃ち召して広を拝して右北平の太守と為す。広即ち霸陵の尉を請ひて与に倶にし、軍に至りて之を斬る。広右北平に居る。匈奴之を聞き、号して「漢の飛将軍」と曰ひ、之を避くること数歳、敢へて右北平に入らず。
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