史記 / 李将軍列伝
諸廣之軍吏及士卒或取封侯。廣嘗與望氣王朔燕語,曰:「自漢擊匈奴而廣未嘗不在其中,而諸部校尉以下,才能不及中人,然以擊胡軍功取侯者數十人,而廣不爲後人,然無尺寸之功以得封邑者,何也?豈吾相不當侯邪?且固命也?」朔曰:「將軍自念,豈嘗有所恨乎?」廣曰:「吾嘗爲隴西守,羌嘗反,吾誘而降,降者八百餘人,吾詐而同日殺之。至今大恨獨此耳。」朔曰:「禍莫大於殺已降,此乃將軍所以不得侯者也。」後二歳,大將軍、驃騎將軍大出擊匈奴,廣數自請行。天子以爲老,弗許;良久乃許之,以爲前將軍。是歳,元狩四年也。廣既從大將軍青擊匈奴,既出塞,青捕虜知單于所居,乃自以精兵走之,而令廣并於右將軍軍,出東道。東道少回遠,而大軍行水草少,其勢不屯行。廣自請曰:「臣部爲前將軍,今大將軍乃徙令臣出東道,且臣結髪而與匈奴戰,今乃一得當單于,臣願居前,先死單于。」大將軍青亦陰受上誡,以爲李廣老,數奇,毋令當單于,恐不得所欲。而是時公孫敖新失侯,爲中將軍從大將軍,大將軍亦欲使敖與俱當單于,故徙前將軍廣。廣時知之,固自辭於大將軍。大將軍不聽,令長史封書與廣之莫府,曰:「急詣部,如書。」
新字:諸広之軍吏及士卒或取封侯。広嘗与望気王朔燕語,曰:「自漢撃匈奴而広未嘗不在其中,而諸部校尉以下,才能不及中人,然以撃胡軍功取侯者数十人,而広不為後人,然無尺寸之功以得封邑者,何也?豈吾相不当侯邪?且固命也?」朔曰:「将軍自念,豈嘗有所恨乎?」広曰:「吾嘗為隴西守,羌嘗反,吾誘而降,降者八百余人,吾詐而同日殺之。至今大恨独此耳。」朔曰:「禍莫大於殺已降,此乃将軍所以不得侯者也。」後二歳,大将軍、驃騎将軍大出撃匈奴,広数自請行。天子以為老,弗許;良久乃許之,以為前将軍。是歳,元狩四年也。広既従大将軍青撃匈奴,既出塞,青捕虜知単于所居,乃自以精兵走之,而令広并於右将軍軍,出東道。東道少回遠,而大軍行水草少,其勢不屯行。広自請曰:「臣部為前将軍,今大将軍乃徙令臣出東道,且臣結髪而与匈奴戦,今乃一得当単于,臣願居前,先死単于。」大将軍青亦陰受上誡,以為李広老,数奇,毋令当単于,恐不得所欲。而是時公孫敖新失侯,為中将軍従大将軍,大将軍亦欲使敖与倶当単于,故徙前将軍広。広時知之,固自辞於大将軍。大将軍不聴,令長史封書与広之莫府,曰:「急詣部,如書。」
書き下し
諸々の広の軍吏及び士卒或いは封侯を取る。広嘗て望気の王朔と燕語して、曰く、「漢の匈奴を撃ちしより広未だ嘗て其の中に在らざることあらず。而るに諸部の校尉以下、才能中人に及ばず、然れども胡を撃つの軍功を以て侯を取る者数十人。而して広は人に後れず。然れども尺寸の功の以て封邑を得る者無きは、何ぞや。豈に吾が相当に侯たるべからざるか。且つ固より命なるか」と。朔曰く、「将軍自ら念へ。豈に嘗て恨む所有るか」と。広曰く、「吾嘗て隴西の守と為る。羌嘗て反す。吾誘ひて降す。降る者八百余人。吾詐りて同日に之を殺す。今に至るまで大いに恨むは独り此のみ」と。朔曰く、「禍は已に降れるを殺すより大なるは莫し。此れ乃ち将軍の侯を得ざる所以の者なり」と。後二歳、大将軍・驃騎将軍大いに出でて匈奴を撃つ。広数々自ら行かんことを請ふ。天子以て老いたりと為し、許さず。良久しくして乃ち之を許し、以て前将軍と為す。是の歳は、元狩四年なり。広既に大将軍青に従ひて匈奴を撃ち、既に塞を出づ。青虜を捕へて単于の居る所を知り、乃ち自ら精兵を以て之に走り、而して広をして右将軍の軍に并せて、東道より出でしむ。東道は少しく回遠にして、大軍の行くに水草少なく、其の勢屯行せず。広自ら請ひて曰く、「臣の部は前将軍為り。今大将軍乃ち徙して臣をして東道より出でしむ。且つ臣結髪より匈奴と戦ふ。今乃ち一たび単于に当たるを得たり。臣願はくは前に居り、先づ単于に死せん」と。大将軍青も亦陰かに上の誡めを受く。以為へらく李広は老いて、数奇なり、単于に当たらしむる毋かれ、恐らくは欲する所を得ざらんと。而して是の時公孫敖新たに侯を失ひ、中将軍と為りて大将軍に従ふ。大将軍も亦敖をして与に倶に単于に当たらしめんと欲す。故に前将軍広を徙す。広時に之を知り、固く自ら大将軍に辞す。大将軍聴かず。長史をして書を封じて広の莫府に与へしめ、曰く、「急に部に詣れ。書の如くせよ」と。
現代語訳
李広の部下の軍吏や兵士の中にも、侯に封じられた者がいた。李広はかつて雲気を見て吉凶を占う王朔とくつろいで話し、こう言った。「漢が匈奴を攻撃するようになってから、わたしはその戦いに加わらなかったことはない。ところが各部隊の校尉以下で、才能は人並みにも及ばない者たちが、匈奴を撃った軍功によって侯となった者が数十人もいる。わたしは人に後れをとったことはないのに、わずかな功によって封邑を得たことすらないのはなぜか。わたしの人相が侯になれない相なのか。それとももともと運命なのか」。王朔は言った。「将軍、ご自身でよく思い返されよ。何か悔いていることがおありではないか」。李広は言った。「わたしはかつて隴西太守であった時、羌族が反乱を起こした。わたしは誘って降伏させ、降伏した者は八百人余りいたが、わたしはだまして同じ日にすべて殺した。今に至るまで大いに悔いているのは、ただこのことだけである」。王朔は言った。「災いとして、すでに降伏した者を殺すことより大きなものはない。これこそ将軍が侯になれない理由である」。二年後、大将軍(衛青)と驃騎将軍(霍去病)が大軍を出して匈奴を攻撃した。李広はたびたび自ら従軍を願い出た。天子は年老いているとして許さなかったが、しばらくしてようやく許し、前将軍とした。この年は元狩四年である。李広は大将軍衛青に従って匈奴を攻撃し、長城を出た。衛青は捕虜を捕らえて単于の居場所を知ると、自ら精兵を率いてそこへ向かい、李広には右将軍の軍と合流して東の道から進ませた。東の道はやや遠回りで、大軍が進むには水や草が少なく、隊列を組んで進むことができない状況であった。李広は自ら願い出て言った。「わたくしの部隊は前将軍である。今、大将軍はわたくしを移して東の道から進ませようとしている。しかもわたくしは成人して以来、匈奴と戦い続けてきて、今ようやく一度単于と戦う機会を得た。どうか先鋒となって、真っ先に単于と戦って死にたい」。大将軍衛青も、ひそかに天子の戒めを受けていた。李広は年老いていて運が悪いので、単于と戦わせてはならない、望みどおりの結果が得られないおそれがある、というのである。しかもこの時、公孫敖が侯位を失ったばかりで、中将軍として大将軍に従っていた。大将軍も公孫敖と一緒に単于と戦わせたいと思っていた。それで前将軍の李広を移したのである。李広はその時このことを知り、固く大将軍に辞退を申し出た。大将軍は聞き入れず、長史に命じて命令書を封印して李広の幕府に届けさせ、「急いで部隊に行き、書面のとおりにせよ」と言わせた。
解説
関連する章句
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史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
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『十善法語』巻第十二・不邪見戒之下漢書ナトニ。李広ハ才気無双ナリ。匈奴号シテ漢ノ飛将軍ト云。文帝賞嘆シテ云。国初ニ出ハ万戸侯豈云ニタランヤト。初メ吳楚ノ反セシ時ヨリ。匈奴ニ事アルコロ。大小七十余戦。至ル処ニ功アリ。然レドモ爵邑ヲ得ス。官九卿ニ過ス。老年ニ及テ。大将軍衛青ニ従テ匈奴ヲ伐シトキ。道ニ迷テ期限ニ後ル。大将軍人ヲ遣シテ失軍ノ曲折ヲ朝廷ヘ奏スヘシ。幕府ニ参テ簿ヲ上ント云。此ヲ憤テ自剄ス。李広嘗テ望気王朔ト燕語ス。漢匈奴ヲ擊テヨリ已来。我必ス其中ニアリ。諸部校尉己下。材能中人ニ及サル者スラ。軍功ヲ以テ侯ヲ取ル者数十人。我ハ此人ニ後レネドモ。終ニ尺寸ノ功ノ封侯ヲ得ヘキ無ハ何故ソト。王朔曰。君自ラ省ミヨ。心ノ中ニ悔恨有ヘシト。李広曰。我隴西ノ大守タリシトキ羌ヲ伐ツ。其時降者八百余人ヲ誘テ。同日ニ殺ス。今ニ至ルマテ悔恨スト。王朔曰。禍ハ已ニ降ル者ヲ殺スヨリ大ナルハナシ。此将軍ノ侯ヲ得サル所以ナリト。此等ノ事実モ。擴メ思惟セハ。業果アルコトモ信セラルルシヤ。
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史記 李将軍列伝李将軍広は、隴西の成紀の人なり。其の先を李信と曰ふ。秦の時将と為り、燕の太子丹を逐ひて得たる者なり。故は槐里なり、成紀に徙る。広の家は世々射を受く。孝文帝十四年、匈奴大いに蕭関に入る。而して広良家の子を以て軍に従ひて胡を撃ち、騎射を善くするを用て、首虜を殺すこと多く、漢の中郎と為る。広の従弟李蔡も亦郎と為る。皆武騎常侍と為り、秩八百石。嘗て従ひて行き、衝陥折関し及び猛獣に格つ所有り。而して文帝曰く、「惜しいかな、子時に遇はず。如し子をして高帝の時に当たらしめば、万戸侯豈に道ふに足らんや」と。孝景初めて立つに及び、広隴西の都尉と為り、徙りて騎郎将と為る。呉楚の軍の時、広驍騎都尉と為り、太尉亜夫に従ひて呉楚の軍を撃ち、旗を取り、功名を昌邑の下に顕す。梁王広に将軍の印を授くるを以て、還るも、賞行はれず。徙りて上谷の太守と為る。匈奴日に以て合戦す。典属国公孫昆邪上の為に泣きて曰く、「李広の才気は、天下に双び無し。自ら其の能を負み、数々虜と敵戦す。恐らくは之を亡はん」と。是に於て乃ち徙りて上郡の太守と為る。後に広転じて辺郡の太守と為り、上郡に徙る。嘗て隴西・北地・鴈門・代郡・雲中の太守と為り、皆力戦を以て名と為す。匈奴大いに上郡に入る。天子中貴人をして広に従ひて兵を勒習し匈奴を撃たしむ。中貴人騎数十を将ゐて縦にし、匈奴三人を見て、与に戦ふ。三人還りて射、中貴人を傷つけ、其の騎を殺すこと且に尽きんとす。中貴人広に走る。広曰く、「是れ必ず雕を射る者なり」と。広乃ち遂に百騎を従へて往きて三人を馳す。三人馬を亡ひて歩行し、行くこと数十里。広其の騎をして左右の翼を張らしめ、而して広身自ら彼の三人の者を射、其の二人を殺し、一人を生け得たり。果たして匈奴の雕を射る者なり。
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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史記 李将軍列伝程不識は孝景の時数々直諫するを以て太中大夫と為る。人と為り廉にして、文法に謹む。後に漢馬邑の城を以て単于を誘ひ、大軍をして馬邑の旁の谷に伏せしむ。而して広は驍騎将軍と為り、護軍将軍に領属す。是の時単于之を覚りて、去る。漢の軍皆功無し。其の後四歳、広衛尉を以て将軍と為り、鴈門より出でて匈奴を撃つ。匈奴の兵多く、広の軍を破敗し、広を生け得たり。単于素より広の賢を聞き、令して曰く、「李広を得ば必ず生きて之を致せ」と。胡騎広を得たり。広時に傷つき病む。広を両馬の間に置き、絡ひて盛りて広を臥せしむ。行くこと十余里、広佯り死し、其の旁に一胡児の善馬に騎るもの有るを睨み、広暫かに騰りて胡児の馬に上り、因りて児を推し墮とし、其の弓を取り、馬に鞭うちて南に馳すること数十里、復た其の余軍を得て、因りて引きて塞に入る。匈奴の捕ふる者騎数百之を追ふ。広行くゆく胡児の弓を取りて、追騎を射殺し、故を以て脱するを得たり。是に於て漢に至る。漢広を吏に下す。吏広の失亡する所多く、虜の生け得る所と為るを当て、斬に当つ。贖ひて庶人と為る。頃之、家居すること数歳。広家して故の潁陰侯の孫と藍田の南山の中に屏野居して射猟す。嘗て夜一騎を従へて出で、人に従ひて田間に飲む。還りて霸陵の亭に至る。霸陵の尉酔ひて、広を呵止す。広の騎曰く、「故の李将軍なり」と。尉曰く、「今の将軍すら尚ほ夜行くを得ず。何ぞ乃ち故をや」と。広を止めて亭下に宿せしむ。居ること何も無く、匈奴入りて遼西の太守を殺し、韓将軍を敗る。後に韓将軍右北平に徙る。是に於て天子乃ち召して広を拝して右北平の太守と為す。広即ち霸陵の尉を請ひて与に倶にし、軍に至りて之を斬る。広右北平に居る。匈奴之を聞き、号して「漢の飛将軍」と曰ひ、之を避くること数歳、敢へて右北平に入らず。
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史記 衛将軍驃騎列伝乃ち悉く其の輜重を遠く北にし、皆精兵を以て幕北に待つ。而して適々大将軍の軍塞を出づること千余里にして、単于の兵陳して待つを見るに値ふ。是に於て大将軍武剛車をして自ら環りて営と為さしめ、而して五千騎を縦ちて往きて匈奴に当たらしむ。匈奴も亦縦つこと万騎可り。会々日且に入らんとし、大風起こり、沙礫面を撃ち、両軍相見ず。漢益々左右の翼を縦ちて単于を繞る。単于漢の兵の多くして、士馬尚ほ彊きを視、戦ひて匈奴利あらず。薄莫、単于遂に六驘に乗り、壮騎数百可りと、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去る。時に已に昏く、漢と匈奴と相紛挐し、殺傷大いに当たる。漢の軍の左校虜を捕へて言ふ、単于未だ昏れざるに去れりと。漢の軍因りて軽騎を発して夜之を追ひ、大将軍の軍因りて其の後に随ふ。匈奴の兵も亦散走す。遅明、行くこと二百余里、単于を得ず。頗る首虜を捕斬すること万余級、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積粟を得て軍に食はす。軍留まること一日にして還り、悉く其の城の余粟を焼きて以て帰る。大将軍の単于と会するや、前将軍広・右将軍食其の軍別に東道より従ひ、或いは道を失ひ、単于を撃つに後る。大将軍引き還りて幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得たり。大将軍使をして帰りて報ぜしめんと欲し、長史をして前将軍広を簿責せしむ。広自殺す。右将軍至り、吏に下され、贖ひて庶人と為る。大将軍の軍塞に入る。凡そ首虜を斬捕すること万九千級。是の時匈奴の衆単于を失ふこと十余日。右谷蠡王之を聞き、自ら立ちて単于と為る。単于後に其の衆を得、右王乃ち単于の号を去る。驃騎将軍も亦五万騎を将ゐ、車重大将軍の軍と等し。而して裨将無し。
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