史記 / 韓長孺列伝
安國病免數月,蹇愈,上復以安國爲中尉。歳餘,徙爲衞尉。車騎將軍衞青擊匈奴,出上谷,破胡蘢城。將軍李廣爲匈奴所得,復失之;公孫敖大亡卒:皆當斬,贖爲庶人。明年,匈奴大入邊,殺遼西太守,及入鴈門,所殺略數千人。車騎將軍衞青擊之,出鴈門。衞尉安國爲材官將軍,屯於漁陽。安國捕生虜,言匈奴遠去。即上書言方田作時,請且罷軍屯。罷軍屯月餘,匈奴大入上谷、漁陽。安國壁乃有七百餘人,出與戰,不勝,復入壁。匈奴虜略千餘人及畜產而去。天子聞之,怒,使使責讓安國。徒安國益東,屯右北平。是時匈奴虜言當入東方。
新字:安国病免数月,蹇愈,上復以安国為中尉。歳余,徙為衛尉。車騎将軍衛青撃匈奴,出上谷,破胡蘢城。将軍李広為匈奴所得,復失之;公孫敖大亡卒:皆当斬,贖為庶人。明年,匈奴大入辺,殺遼西太守,及入鴈門,所殺略数千人。車騎将軍衛青撃之,出鴈門。衛尉安国為材官将軍,屯於漁陽。安国捕生虜,言匈奴遠去。即上書言方田作時,請且罷軍屯。罷軍屯月余,匈奴大入上谷、漁陽。安国壁乃有七百余人,出与戦,不勝,復入壁。匈奴虜略千余人及畜産而去。天子聞之,怒,使使責譲安国。徒安国益東,屯右北平。是時匈奴虜言当入東方。
書き下し
安国病みて免ぜらるること数月、蹇愈ゆ。上復た安国を以て中尉と為す。歳余にして、徙りて衛尉と為る。車騎将軍衛青匈奴を撃ち、上谷より出で、胡を蘢城に破る。将軍李広匈奴の得る所と為り、復た之を失ふ。公孫敖大いに卒を亡ふ。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。明年、匈奴大いに辺に入り、遼西の太守を殺し、及び鴈門に入り、殺略する所数千人。車騎将軍衛青之を撃ち、鴈門より出づ。衛尉安国材官将軍と為り、漁陽に屯す。安国生虜を捕へ、匈奴遠く去ると言ふ。即ち上書して言ふ、方に田作の時なり、請ふ且く軍屯を罷めんと。軍屯を罷むること月余、匈奴大いに上谷・漁陽に入る。安国の壁乃ち七百余人有り。出でて与に戦ふも、勝たず、復た壁に入る。匈奴千余人及び畜産を虜略して去る。天子之を聞きて、怒り、使をして安国を責譲せしむ。安国を徙して益々東にし、右北平に屯せしむ。是の時匈奴の虜言ふ、当に東方に入るべしと。
現代語訳
韓安国は病気で職を退いて数か月、足の不自由が治ると、天子は再び韓安国を中尉とした。一年余りして衛尉に移った。車騎将軍の衛青が匈奴を攻撃し、上谷から出撃して、蘢城で匈奴を破った。将軍李広は匈奴に捕らえられたが、再び逃げ帰った。公孫敖は多くの兵を失った。いずれも斬罪に当たるとされたが、金で罪を贖って庶民に落とされた。翌年、匈奴が大挙して辺境に侵入し、遼西太守を殺し、さらに鴈門に侵入して、数千人を殺したり連れ去ったりした。車騎将軍衛青がこれを攻撃し、鴈門から出撃した。衛尉の韓安国は材官将軍となり、漁陽に駐屯した。韓安国は匈奴の捕虜を生け捕りにし、その者が匈奴は遠くへ去ったと言ったので、すぐに上書して、今は農作業の時期であるから、しばらく駐屯軍を解きたいと願い出た。駐屯軍を解いて一か月余りたつと、匈奴が大挙して上谷・漁陽に侵入した。韓安国の陣地にはわずか七百人余りしかおらず、出撃して戦ったが勝てず、また陣地に戻った。匈奴は千人余りの人と家畜を奪って去った。天子はこれを聞いて怒り、使者を遣わして韓安国を責めた。そして韓安国をさらに東へ移して、右北平に駐屯させた。この時、匈奴の捕虜は、匈奴は東方に侵入するはずだと言っていた。
解説
関連する章句
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史記 匈奴列伝単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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史記 韓長孺列伝安国始め御史大夫及び護軍為り、後稍く斥疏せられ、下遷す、而して新たに幸せらるる壮将軍衛青等功有り、益ます貴し。安国既に疏遠せられ、默默たり、屯を将ゐて又匈奴に欺かれ、失亡多く、甚だ自ら愧づ。幸に罷帰するを得、乃ち益ます東のかた徙屯し、意忽忽として楽しまず。数月、病みて血を歐して死す。太史公曰く、「余壺遂と律歴を定め、韓長孺の義、壺遂の深中隱厚を観る。世の梁に長者多しと言ふ、虚しからざるかな」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝乃ち悉く其の輜重を遠く北にし、皆精兵を以て幕北に待つ。而して適々大将軍の軍塞を出づること千余里にして、単于の兵陳して待つを見るに値ふ。是に於て大将軍武剛車をして自ら環りて営と為さしめ、而して五千騎を縦ちて往きて匈奴に当たらしむ。匈奴も亦縦つこと万騎可り。会々日且に入らんとし、大風起こり、沙礫面を撃ち、両軍相見ず。漢益々左右の翼を縦ちて単于を繞る。単于漢の兵の多くして、士馬尚ほ彊きを視、戦ひて匈奴利あらず。薄莫、単于遂に六驘に乗り、壮騎数百可りと、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去る。時に已に昏く、漢と匈奴と相紛挐し、殺傷大いに当たる。漢の軍の左校虜を捕へて言ふ、単于未だ昏れざるに去れりと。漢の軍因りて軽騎を発して夜之を追ひ、大将軍の軍因りて其の後に随ふ。匈奴の兵も亦散走す。遅明、行くこと二百余里、単于を得ず。頗る首虜を捕斬すること万余級、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積粟を得て軍に食はす。軍留まること一日にして還り、悉く其の城の余粟を焼きて以て帰る。大将軍の単于と会するや、前将軍広・右将軍食其の軍別に東道より従ひ、或いは道を失ひ、単于を撃つに後る。大将軍引き還りて幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得たり。大将軍使をして帰りて報ぜしめんと欲し、長史をして前将軍広を簿責せしむ。広自殺す。右将軍至り、吏に下され、贖ひて庶人と為る。大将軍の軍塞に入る。凡そ首虜を斬捕すること万九千級。是の時匈奴の衆単于を失ふこと十余日。右谷蠡王之を聞き、自ら立ちて単于と為る。単于後に其の衆を得、右王乃ち単于の号を去る。驃騎将軍も亦五万騎を将ゐ、車重大将軍の軍と等し。而して裨将無し。
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史記 衛将軍驃騎列伝青の校尉張次公功有り、封じて岸頭侯と為す。天子曰く、「匈奴天理に逆らひ、人倫を乱し、長を暴し老を虐げ、盗窃を以て務めと為し、諸蛮夷を行詐し、謀を造り兵を藉り、数々辺害を為す。故に師を興し将を遣はして、以て厥の罪を征す。詩に云はずや、『薄か玁狁を伐ちて、太原に至る』、『車を出だすこと彭彭たり、彼の朔方に城く』と。今車騎将軍青西河を度りて高闕に至り、首虜二千三百級を獲、車輜畜産畢く収めて鹵と為し、已に封じて列侯と為す。遂に西のかた河南の地を定め、榆谿の旧塞を按じ、梓領を絶り、北河に梁し、蒲泥を討ち、符離を破り、軽鋭の卒を斬り、伏聴する者を捕ふること三千七十一級、執訊して醜を獲、馬牛羊を駆ること百有余万、甲兵を全うして還る。青に三千戸を益封す」と。其の明年、匈奴入りて代郡の太守友を殺し、入りて鴈門の千余人を略す。其の明年、匈奴大いに代・定襄・上郡に入り、漢の数千人を殺略す。其の明年、春、漢車騎将軍青をして三万騎を将ゐて、高闕より出でしむ。衛尉蘇建游撃将軍と為り、左内史李沮彊弩将軍と為り、太僕公孫賀騎将軍と為り、代の相李蔡軽車将軍と為り、皆車騎将軍に領属し、倶に朔方より出づ。大行李息・岸頭侯張次公将軍と為り、右北平より出づ。咸匈奴を撃つ。匈奴の右賢王衛青等の兵に当たり、以為へらく漢の兵此に至る能はずと。飲みて酔ふ。漢の兵夜至り、右賢王を囲む。右賢王驚き、夜逃れ、独り其の愛妾一人・壮騎数百と馳せ、囲みを潰して北に去る。漢の軽騎校尉郭成等逐ふこと数百里、及ばず。右賢の裨王十余人、衆男女万五千余人、畜数千百万を得たり。是に於て兵を引きて還る。
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史記 韓長孺列伝匈奴来たりて和親を請ふ、天子議を下す。大行王恢、燕人なり、数しば辺吏と為り、習ひて胡事を知る。議して曰く、「漢と匈奴和親するも、率ね数歳に過ぎずして即ち復た約に倍く。許す勿きに如かず、兵を興して之を撃たん」と。安国曰く、「千里にして戦へば、兵利を獲ず。今匈奴戎馬の足に負み、禽獣の心を懐き、遷徙鳥挙し、得て制し難きなり。漢数千里にして利を争へば、則ち人馬罷れ、虜全を以て其の敝を制せん。且つ彊弩の極み、矢魯縞を穿つ能はず、沖風の末、力鴻毛を漂はす能はず。初め勁からざるに非ず、末力衰ふるなり。之を撃つは便ならず、和親に如かず」と。群臣議する者多く安国に附く、是に於て上和親を許す。
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