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史記 / 韓長孺列伝

安國始爲御史大夫及護軍,後稍斥疎,下遷;而新幸壯將軍衞青等有功,益貴。安國既疎遠,默默也;將屯又爲匈奴所欺,失亡多,甚自愧。幸得罷歸,乃益東徙屯,意忽忽不樂。數月,病歐血死。安國以元朔二年中卒。 太史公曰:余與壺遂定律暦,觀韓長孺之義,壺遂之深中隱厚。世之言梁多長者,不虛哉!

新字:安国始為御史大夫及護軍,後稍斥疎,下遷;而新幸壮将軍衛青等有功,益貴。安国既疎遠,黙黙也;将屯又為匈奴所欺,失亡多,甚自愧。幸得罷帰,乃益東徙屯,意忽忽不楽。数月,病欧血死。安国以元朔二年中卒。 太史公曰:余与壺遂定律暦,観韓長孺之義,壺遂之深中隠厚。世之言梁多長者,不虚哉!

書き下し

安国始め御史大夫及び護軍為り、後稍く斥疏せられ、下遷す、而して新たに幸せらるる壮将軍衛青等功有り、益ます貴し。安国既に疏遠せられ、默默たり、屯を将ゐて又匈奴に欺かれ、失亡多く、甚だ自ら愧づ。幸に罷帰するを得、乃ち益ます東のかた徙屯し、意忽忽として楽しまず。数月、病みて血を歐して死す。太史公曰く、「余壺遂と律歴を定め、韓長孺の義、壺遂の深中隱厚を観る。世の梁に長者多しと言ふ、虚しからざるかな」と。

現代語訳

安国ははじめ御史大夫や護軍を務めたが、後にしだいに遠ざけられ、下の職に移された。そこへ新たに寵愛された壮年の将軍・衛青らが功を立て、ますます貴くなった。安国は遠ざけられて、ふさぎ込んだ。守備隊を率いてはまた匈奴に欺かれ、損害を多く出し、深く恥じ入った。ようやく職を解かれて帰ることを許されたが、さらに東へ駐屯地を移され、心はふさいで楽しまなかった。数か月後、病んで血を吐いて死んだ。太史公は言う。「私は壺遂とともに暦法を定めたが、韓長孺(安国)の義と、壺遂の思慮深く情の厚い人柄を目にした。世に梁には長者が多いと言われるのは、虚言ではなかったのだ」。

解説

「栄枯盛衰の中で寵は移ろい、新しい力に道を譲る日が来る——その理を静かに受け止める」——韓安国の晩年の失意と、司馬遷の総括を描いた、この篇の結びです。かつて御史大夫や護軍として重んじられた韓安国も、年月とともに次第に朝廷から遠ざけられ、下位へと移されていきました。代わって、新たに寵愛される若く勇猛な将軍・衛青らが功を立て、ますます高位に上っていきます。時代の主役が、静かに交代していったのです。疎んじられた安国は、ただ黙々と過ごすほかありませんでした。加えて、辺境の守備を任されると、匈奴に欺かれて多くの兵を失い、深く自らを恥じます。ようやく任を解かれて帰ることができたものの、さらに東へと駐屯地を移され、心は晴れず、うつうつと楽しまない日々が続きました。そして数か月の後、病んで血を吐いて亡くなったのです。かつて度量と知略で梁王を救い、天下の名士を推挙した「国家の器」の、寂しい晩年でした。司馬遷はこの篇をこう結びます。「私(司馬遷)は、壺遂とともに暦法を定めたが、そのとき韓長孺(安国)の義や、壺遂の内に秘めた深く厚い人柄を思い見た。世に『梁には長者(徳ある人物)が多い』と言うのは、まことに虚しい言葉ではない」と。ここに、栄枯盛衰についての教訓があります。第一に、どんなに重んじられた者にも、寵が移ろい、新しい力に道を譲る日が来るということ。韓安国の衰えと衛青の台頭は、世代交代の理そのものである。永遠に続く栄華はなく、盛りには必ず衰えが伴う。第二に、その移ろいを、静かに受け止める心の構えが要るということ。安国は疎んじられても取り乱さず「默默」と過ごした。時勢の変化を恨みや焦りで受けるのでなく、静かに受け入れる成熟。第三に、しかし、たとえ晩年が不遇であっても、その人が生涯で示した義や徳(長者としての生き方)は、後世に残り、正当に記憶されるということ。司馬遷は、安国を「長者」として讃えた。目先の栄枯にかかわらず、人としての生き方そのものが、最後に評価される。組織や人生で、寵や地位は必ず移ろうと知ること、その変化を静かに受け止める成熟を持つこと、そして目先の栄枯を超えて人としての生き方が残ると信じること——韓安国の晩年は、栄枯盛衰の理と、生き方の価値を教えます。

この章句が説くこと

韓安国寵の移ろい栄枯盛衰衛青の台頭世代交代変化を静かに受け止める

この一句を、あなたの毎日に。

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