史記 / 韓長孺列伝
梁內史之缺也,孝王新得齊人公孫詭,説之,欲請以爲內史。竇太后聞,乃詔王以安國爲內史。
新字:梁内史之欠也,孝王新得斉人公孫詭,説之,欲請以為内史。竇太后聞,乃詔王以安国為内史。
書き下し
梁の内史の缺くるや、孝王新たに斉人公孫詭を得て、之を説び、請ひて以て内史と為さんと欲す。竇太后聞き、乃ち王に詔して安国を以て内史と為さしむ。
現代語訳
梁の内史(国の民政長官)が欠員になった時、孝王は新たに斉の人の公孫詭を召し抱えて気に入っており、朝廷に願い出て内史にしようとした。竇太后はこれを聞くと、梁王に詔を下して、韓安国を内史とさせた。
解説
梁の内史という要職の人事をめぐる短い段です。梁の孝王は、新たに召し抱えた斉の人公孫詭を気に入り、内史に任じようとしました。公孫詭は、後に羊勝とともに梁王の皇位継承を画策し、反対した大臣袁盎らの暗殺に関わったとされる人物です。竇太后はこれを聞くと、自ら詔を下して、先の一件で信頼を得た韓安国を内史とさせました。溺愛する息子の人事であっても、太后は寵臣ではなく実績と誠実さを示した人物を選ばせたのです。前の段で韓安国が梁王と朝廷の間を取り持った働きが、ここで信頼として実を結んでいます。この後、梁王と公孫詭らの暗殺事件が起こると、韓安国は梁王を涙ながらに諫め、事件の収拾に力を尽くすことになります。人事の場面では、上に立つ者が気に入った人物より、試された実績のある人物を選ぶ判断が、組織を危機から守ることになります。
関連する章句
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史記 韓長孺列伝公孫詭・羊勝孝王を説きて帝の太子と為り及び地を益す事を求む、漢の大臣の聴かざるを恐れ、乃ち陰かに人をして漢の用事の謀臣を刺さしむ。景帝遂に詭・勝等の計画を聞き、乃ち使を遣りて詭・勝を捕へしむ。内史安国詭・勝の孝王の所に匿るるを聞き、安国入りて王に見えて泣きて曰く、「主辱めらるれば臣死す。大王良臣無く、故に事紛紛として此に至る。今詭・勝得ずんば、辞して賜死を請はん」と。王曰く、「何ぞ此に至る」と。安国泣数行下りて曰く、「大王自ら皇帝に度るに、太上皇の高皇帝におけると、皇帝の臨江王におけると孰与れか親しき。天下を治むるは終に私を以て公を乱さず。今大王一邪臣の浮説を悦び、上禁を犯し、明法を橈ぐ。如し太后の宮車即ち晏駕せば、大王尚ほ誰にか攀らんや」と。語未だ卒らざるに、孝王泣数行下り、安国に謝して曰く、「吾今詭・勝を出ださん」と。詭・勝自殺す。梁の事皆釈するを得、安国の力なり。
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史記 韓長孺列伝御史大夫韓安国は、梁の成安の人なり。後に睢陽に徙る。嘗て韓子・雑家の説を騶の田生の所に受く。梁の孝王に事へて中大夫と為る。呉楚反する時、孝王安国及び張羽をして将と為さしめ、呉の兵を東界に捍ぐ。張羽は力戦し、安国は持重す。故を以て呉梁を過ぐる能はず。呉楚已に破れ、安国・張羽の名此に由りて顕る。梁の孝王は、景帝の母弟なり。竇太后之を愛し、自ら相・二千石を置かんことを請ふを得しむ。出入遊戯、天子に僭す。天子之を聞きて、心に善しとせず。太后帝の善しとせざるを知り、乃ち梁の使者を怒りて、見ず、王の為す所を案責す。韓安国梁の使と為り、大長公主に見えて泣きて曰く、「何ぞ梁王の人の子為るの孝、人の臣為るの忠、太后曾ち省みざるや。夫れ前日呉・楚・斉・趙七国反する時、関より以東皆合従して西郷す。惟だ梁のみ最も親しくして艱難を為す。梁王太后・帝の中に在りて、諸侯擾乱するを念ひ、一言すれば泣くこと数行下り、跪きて臣等六人を送り、兵を将ゐて呉楚を撃ち卻けしむ。呉楚故を以て兵敢へて西せずして、卒に破亡す。梁王の力なり。今太后小睗苛礼を以て梁王を責望す。梁王の父兄は皆帝王にして、見る所の者大なり。故に出づれば蹕と称し、入れば警と言ふ。車旗は皆帝の賜ふ所なり。即ち以て鄙県に侘り、国中を駆馳して、以て諸侯に夸り、天下をして尽く太后・帝の之を愛するを知らしめんと欲するなり。今梁の使来れば、輒ち之を案責す。梁王恐れ、日夜涕泣思慕して、為す所を知らず。何ぞ梁王の子為りて孝、臣為りて忠なるに、太后恤れまざるや」と。大長公主具に以て太后に告ぐ。太后喜びて曰く、「為に之を帝に言へ」と。之を言ふ。帝の心乃ち解けて、冠を免ぎて太后に謝して曰く、「兄弟相教ふる能はず、乃ち太后の為に憂ひを遺す」と。悉く梁の使に見え、厚く之に賜ふ。其の後梁王益々親驩せらる。太后・長公主更々安国に千余金に直るべきを賜ふ。名此に由りて顕れ、漢に結ぶ。
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『長短経』難必〔景帝の弟梁の孝王、羊勝・公孫詭の計を用いて、漢の太子と為らんことを求む。大臣の聴かざるを恐れ、乃ち陰かに人をして漢の事を用うる謀臣袁盎を刺さしむ。帝、詭・勝の計を聞き、使い十輩を遣わし、国を挙げて大いに索めしめ、詭・勝を捕えんとするも、得ず。内史韓安国、詭・勝の孝王の所に匿るるを聞き、入りて王に見え、之に説く。王、詭・勝を出だす。詭・勝自殺す。〕
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史記 韓長孺列伝安国人と為り大略多く、智以て当世に取合するに足り、而も忠厚に出づ。財を貪嗜す。推挙する所皆廉士、己に賢れる者なり。梁に於て壺遂・臧固・郅他を挙ぐ、皆天下の名士なり、士も亦た此を以て之を称慕し、唯だ天子のみ以て国器と為す。安国御史大夫為ること四歳餘、丞相田蚡死し、安国丞相の事を行ふ、引を奉じて車より墮ちて蹇む。天子相を置くを議し、安国を用ゐんと欲す、使をして之を視しむるに、蹇むこと甚だし、乃ち更に平棘侯薛澤を以て丞相と為す。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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『長短経』難必漢の時、梁の孝王、羊勝・公孫詭を蔵匿す。韓安国泣きて梁の孝王に説きて曰く「大王自ら度るに皇帝に於けるは〔皇帝は景帝なり。是れ梁の孝王の兄なり〕、太上皇の高皇帝に与る、及び皇帝の臨江王に与るの親しきに孰与れぞ」と〔臨江王は景帝の太子なり〕。孝王曰く「如かざるなり」と。安国曰く「夫れ太上・臨江は、親しき父子の間なり。然り而して高帝曰く『三尺の剣を提げて天下を取る者は、朕なり』と。故に太上は終に事を制するを得ず、櫟陽に居る。臨江王は適長の太子なり。言の過ちを以て廃せられて臨江に王たり〔景嘗て諸姫・太子の母を属す。栗姫の言遜らず。是に由りて太子を廃し、栗姫憂えて死すなり〕。宮垣の事を用て、卒に中尉府に自殺す。何となれば、天下を治むるは終に私を以て公を害せざればなり。語に曰く、親父有りと雖も、安んぞ其の虎と為らざるを知らん。親兄有りと雖も、安んぞ其の狼と為らざるを知らん、と。今、大王は列して諸侯に在り、一邪臣に説び、浮説して上を犯し、明法を禁撓す。天子は太后の故を以て、法を王に致すに忍びず。太后は日夜泣涕して、大王の自ら改むることを幸う。而るに大王は終に覚悟せず。又た如し太后の車即ち晏駕せば、大王尚お誰にか攀らん」と。語未だ卒わらざるに、孝王、羊勝等を出だす。
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