史記 / 魏其武安侯列伝
太后好黃老之言,而魏其、武安、趙綰、王臧等務隆推儒術,貶道家言,是以竇太后滋不說魏其等。及建元二年,御史大夫趙綰請無奏事東宮。竇太后大怒,乃罷逐趙綰、王臧等,而免丞相、太尉,以柏至侯許昌為丞相,武彊侯莊青翟為御史大夫。魏其、武安由此以侯家居。
新字:太后好黄老之言,而魏其、武安、趙綰、王臧等務隆推儒術,貶道家言,是以竇太后滋不説魏其等。及建元二年,御史大夫趙綰請無奏事東宮。竇太后大怒,乃罷逐趙綰、王臧等,而免丞相、太尉,以柏至侯許昌為丞相,武彊侯荘青翟為御史大夫。魏其、武安由此以侯家居。
書き下し
太后は黄老の言を好む。而るに魏其・武安・趙綰・王臧等務めて儒術を隆推し、道家の言を貶す。是を以て竇太后滋々魏其等を説ばず。建元二年に及び、御史大夫趙綰東宮に事を奏すること無からんことを請ふ。竇太后大いに怒り、乃ち趙綰・王臧等を罷逐し、而して丞相・太尉を免じ、柏至侯許昌を以て丞相と為し、武彊侯荘青翟を御史大夫と為す。魏其・武安此に由りて侯を以て家居す。
現代語訳
竇太后は黄帝・老子の教えを好んでいた。ところが魏其侯・武安侯・趙綰・王臧らは儒学を盛んに推し進め、道家の教えをおとしめた。そのため竇太后はますます魏其侯らを快く思わなくなった。建元二年になって、御史大夫の趙綰が、東宮(竇太后)に政務を上奏しないようにしたいと願い出た。竇太后は激怒し、趙綰・王臧らを罷免して追放し、丞相と太尉も罷免して、柏至侯許昌を丞相に、武彊侯荘青翟を御史大夫に任じた。魏其侯と武安侯はこのことで、侯の身分のまま家に引きこもることになった。
解説
武帝の治世初めの改革が、竇太后の怒りによって挫折した事件です。竇太后は黄老の思想を好み、儒学を嫌っていました。竇嬰と田蚡、趙綰・王臧らが儒学を推し進め道家をおとしめたうえ、趙綰が「東宮、つまり太后に政務を上奏しないようにしたい」と願い出たことで、太后の怒りが爆発します。趙綰と王臧は罷免追放され、のちに獄中で自殺したと伝えられます。丞相の竇嬰と太尉の田蚡も罷免され、二人は侯の身分のまま家に引きこもりました。万石張叔列伝で、竇太后が「儒者は文多く質少なし」として万石君の子らを重用したのも、この事件の直後のことです。若い武帝がまだ祖母である太皇太后の力を超えられなかった時期の出来事で、武帝が本格的に儒学を国の学問とするのは竇太后の死後になります。組織の実権を握る人を飛び越えて改革を進めようとすると、どれほど理のある改革でも一気に覆されることを示しています。
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