史記 / 呉王濞列伝
今乃與楚王戊、趙王遂、膠西王卬、濟南王辟光、菑川王賢、膠東王雄渠約從反,為逆無道,起兵以危宗廟,賊殺大臣及漢使者,迫劫萬民,夭殺無罪,燒殘民家,掘其丘冢,甚為暴虐。今卬等又重逆無道,燒宗廟,鹵御物,朕甚痛之。朕素服避正殿,將軍其勸士大夫擊反虜。擊反虜者,深入多殺為功,斬首捕虜比三百石以上者皆殺之,無有所置。敢有議詔及不如詔者,皆要斬。」初,吳王之度淮,與楚王遂西敗棘壁,乘勝前,銳甚。梁孝王恐,遣六將軍擊吳,又敗梁兩將,士卒皆還走梁。梁數使使報條侯求救,條侯不許。又使使惡條侯於上,上使人告條侯救梁,復守便宜不行。梁使韓安國及楚死事相弟張羽為將軍,乃得頗敗吳兵。吳兵欲西,梁城守堅,不敢西,即走條侯軍,會下邑。欲戰,條侯壁,不肯戰。吳糧絕,卒饑,數挑戰,遂夜奔條侯壁,驚東南。條侯使備西北,果從西北入。吳大敗,士卒多饑死,乃畔散。於是吳王乃與其麾下壯士數千人夜亡去,度江走丹徒,保東越。東越兵可萬餘人,乃使人收聚亡卒。漢使人以利啗東越,東越即紿吳王,吳王出勞軍,即使人鏦殺吳王,盛其頭,馳傳以聞。吳王子子華、子駒亡走閩越。
新字:今乃与楚王戊、趙王遂、膠西王卬、済南王辟光、菑川王賢、膠東王雄渠約従反,為逆無道,起兵以危宗廟,賊殺大臣及漢使者,迫劫万民,夭殺無罪,焼残民家,掘其丘冢,甚為暴虐。今卬等又重逆無道,焼宗廟,鹵御物,朕甚痛之。朕素服避正殿,将軍其勧士大夫撃反虜。撃反虜者,深入多殺為功,斬首捕虜比三百石以上者皆殺之,無有所置。敢有議詔及不如詔者,皆要斬。」初,呉王之度淮,与楚王遂西敗棘壁,乗勝前,鋭甚。梁孝王恐,遣六将軍撃呉,又敗梁両将,士卒皆還走梁。梁数使使報条侯求救,条侯不許。又使使悪条侯於上,上使人告条侯救梁,復守便宜不行。梁使韓安国及楚死事相弟張羽為将軍,乃得頗敗呉兵。呉兵欲西,梁城守堅,不敢西,即走条侯軍,会下邑。欲戦,条侯壁,不肯戦。呉糧絶,卒饑,数挑戦,遂夜奔条侯壁,驚東南。条侯使備西北,果従西北入。呉大敗,士卒多饑死,乃畔散。於是呉王乃与其麾下壮士数千人夜亡去,度江走丹徒,保東越。東越兵可万余人,乃使人収聚亡卒。漢使人以利啗東越,東越即紿呉王,呉王出労軍,即使人鏦殺呉王,盛其頭,馳伝以聞。呉王子子華、子駒亡走閩越。
書き下し
今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
現代語訳
「それなのに今、楚王劉戊・趙王劉遂・膠西王劉卬・済南王劉辟光・菑川王劉賢・膠東王劉雄渠と盟約を結んで反乱を起こし、逆らって道にはずれ、兵を起こして宗廟を危うくし、大臣や漢の使者を殺害し、万民を脅かし、罪のない者を若死にさせ、民家を焼き払い、墓をあばき、はなはだ暴虐を働いている。今また劉卬らは重ねて逆らい道にはずれ、宗廟を焼き、天子の御物を奪い取った。朕はこれをたいへん悲しむ。朕は白い喪服を着て正殿を避けている。将軍たちは士大夫を励まして反逆者を討たせよ。反逆者を討つ者は、深く攻め入って多く殺すことを手柄とせよ。首を斬り捕虜を捕らえるにあたっては、三百石相当以上の者は皆殺し、一人も生かしておいてはならない。この詔についてとやかく論じたり、詔のとおりにしなかったりする者があれば、皆腰斬の刑に処する」。これより前、呉王は淮水を渡ると、楚王と共に西へ進んで棘壁で漢軍を破り、勝ちに乗じて進撃し、その勢いはきわめて鋭かった。梁の孝王は恐れて六人の将軍を送って呉を攻撃させたが、呉はまたも梁の二人の将軍を破り、梁の兵士たちは皆退却して梁に逃げ帰った。梁はたびたび使者を送って条侯(周亜夫)に救援を求めたが、条侯は応じなかった。梁はまた使者を送って天子に条侯のことを悪く言わせた。天子は人をやって条侯に梁を救うよう命じたが、条侯は(将軍として)有利な策を守って動かなかった。梁は韓安国と、楚で主君を諫めて殺された相の弟の張羽を将軍とし、ようやく呉の兵をかなり破ることができた。呉の兵は西へ進もうとしたが、梁の城の守りが堅いので、あえて西へは行かず、条侯の軍へ向かい、下邑で対峙した。呉は戦おうとしたが、条侯は陣地にこもって戦おうとしなかった。呉は兵糧が尽き、兵士は飢えて、たびたび戦いを挑み、ついに夜、条侯の陣地に攻め寄せて、東南の隅を騒がせた。条侯は西北に備えさせた。はたして呉は西北から攻め入ってきた。呉は大敗し、兵士の多くは飢えて死に、背いて散り散りになった。そこで呉王は旗本の勇士数千人と共に夜に逃げ去り、長江を渡って丹徒に走り、東越に身を寄せた。東越の兵は一万人余りいたので、人をやって逃げ散った兵を集めさせた。漢は人を遣わして利益で東越を釣った。東越はそこで呉王をあざむき、呉王が軍の慰労に出てきたところを、人に命じて矛で突き殺させ、その首を箱に入れて駅伝の馬を走らせて報告した。呉王の子の子華と子駒は閩越に逃げた。
解説
関連する章句
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史記 呉王濞列伝遂に使を発して斉・菑川・膠東・済南・済北に約す。皆許諾す。而して曰く、「城陽の景王は義有り、諸呂を攻む。与にする勿れ。事定まらば之を分かつのみ」と。諸侯既に新たに削罰せられ、振恐して、多く晁錯を怨む。呉の会稽・豫章郡を削るの書至るに及び、則ち呉王先づ兵を起こす。膠西は正月丙午、漢の吏二千石以下を誅す。膠東・菑川・済南・楚・趙も亦然り。遂に兵を発して西す。斉王後に悔い、薬を飲みて自殺し、約に畔く。済北王は城壊れて未だ完からず、其の郎中令其の王を劫守し、兵を発するを得ず。膠西渠率と為り、膠東・菑川・済南共に臨菑を攻囲す。趙王遂も亦反し、陰かに匈奴をして兵を連ねしむ。七国の発するや、呉王悉く其の士卒をあげ、令を国中に下して曰く、「寡人年六十二、身自ら将たり。少子年十四、亦士卒の先と為る。諸々の年上は寡人と比しく、下は少子と等しき者は、皆発せよ」と。二十余万人を発す。南のかた閩越・東越に使ひす。東越も亦兵を発して従ふ。孝景帝三年正月甲子、初めて兵を広陵に起こす。西のかた淮を渉り、因りて楚の兵を并す。使を発して諸侯に書を遺りて曰く、「呉王劉濞敬みて膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・故の長沙王の子に問ふ。幸ひに寡人に教へよ。漢に賊臣有り、天下に功無く、諸侯の地を侵奪し、吏をして劾し系ぎ訊治せしめ、之を僇辱するを以て故と為し、諸侯人君の礼を以て劉氏の骨肉を遇せず、先帝の功臣を絶ち、姦宄を進任し、天下を詿乱し、社稷を危うくせんと欲す。陛下多病にして志失ひ、省察する能はず。兵を挙げて之を誅せんと欲す。謹みて教へを聞かん。敝国は狭しと雖も、地方三千里、人少なしと雖も、精兵五十万を具ふべし。
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史記 呉王濞列伝呉王の其の軍を棄てて亡ぐるや、軍遂に潰え、往往にして稍く太尉・梁の軍に降る。楚王戊の軍敗れ、自殺す。三王の斉の臨菑を囲むや、三月にして下す能はず。漢の兵至り、膠西・膠東・菑川王各々兵を引きて帰る。膠西王乃ち袒跣し、槁に席し、水を飲み、太后に謝す。王の太子徳曰く、「漢の兵遠し。臣之を観るに已に罷れたり。襲ふべし。願はくは大王の余兵を収めて之を撃たん。之を撃ちて勝たずんば、乃ち逃れて海に入るも、未だ晩からざるなり」と。王曰く、「吾が士卒皆已に壊れたり。発して用ふべからず」と。聴かず。漢の将弓高侯穨当王に書を遺りて曰く、「詔を奉じて不義を誅す。降る者は其の罪を赦し、故に復す。降らざる者は之を滅ぼす。王何くにか処る。須ちて以て事に従はん」と。王肉袒して漢の軍の壁に叩頭し、謁して曰く、「臣卬法を奉ずること謹まず、百姓を驚駭せしめ、乃ち将軍を苦しめて遠道窮国に至らしむ。敢へて菹醢の罪を請ふ」と。弓高侯金鼓を執りて之に見えて曰く、「王軍事に苦しむ。願はくは王の兵を発するの状を聞かん」と。王頓首膝行して対へて曰く、「今者、晁錯は天子の用事の臣にして、高皇帝の法令を変更し、諸侯の地を侵奪す。卬等以て不義と為し、其の天下を敗乱せんことを恐れ、七国兵を発して、且に以て錯を誅せんとす。今錯已に誅せらるると聞き、卬等謹みて以て兵を罷めて帰る」と。将軍曰く、「王苟くも錯を以て善からずと為さば、何ぞ以て聞せざる。乃ち未だ詔虎符有らざるに、擅に兵を発して義国を撃つ。此を以て之を観れば、意は錯を誅せんと欲するに非ざるなり」と。乃ち詔書を出だして王の為に之を読む。之を読み訖りて、曰く、「王其れ自ら図れ」と。王曰く、「卬等の如きは死して余罪有り」と。遂に自殺す。太后・太子皆死す。膠東・菑川・済南王皆死し、国除かれ、漢に納る。酈将軍趙を囲むこと十月にして之を下す。趙王自殺す。済北王は劫かされたるの故を以て、誅せられざるを得、徙りて菑川に王たり。初め、呉王首として反し、楚の兵を并せ将ゐ、斉趙に連なる。
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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