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史記 / 呉王濞列伝

司馬,獨周丘不得用。周丘者,下邳人,亡命吳,酤酒無行,吳王濞薄之,弗任。周丘上謁,說王曰:「臣以無能,不得待罪行閒。臣非敢求有所將,願得王一漢節,必有以報王。」王乃予之。周丘得節,夜馳入下邳。下邳時聞吳反,皆城守。至傳舍,召令。令入戶,使從者以罪斬令。遂召昆弟所善豪吏告曰:「吳反兵且至,至,屠下邳不過食頃。今先下,家室必完,能者封侯矣。」出乃相告,下邳皆下。周丘一夜得三萬人,使人報吳王,遂將其兵北略城邑。比至城陽,兵十餘萬,破城陽中尉軍。聞吳王敗走,自度無與共成功,即引兵歸下邳。未至,疽發背死。二月中,吳王兵既破,敗走,於是天子制詔將軍曰:「蓋聞為善者天報之以福;為非者天報之以殃。高皇帝親表功德,建立諸侯,幽王、悼惠王絕無後,孝文皇帝哀憐加惠,王幽王子遂、悼惠王子卬等,令奉其先王宗廟,為漢藩國,德配天地,明并日月。吳王濞倍德反義,誘受天下亡命罪人,亂天下幣,稱病不朝二十餘年,有司數請濞罪,孝文皇帝寬之,欲其改行為善。

新字:司馬,独周丘不得用。周丘者,下邳人,亡命呉,酤酒無行,呉王濞薄之,弗任。周丘上謁,説王曰:「臣以無能,不得待罪行閒。臣非敢求有所将,願得王一漢節,必有以報王。」王乃予之。周丘得節,夜馳入下邳。下邳時聞呉反,皆城守。至伝舎,召令。令入戸,使従者以罪斬令。遂召昆弟所善豪吏告曰:「呉反兵且至,至,屠下邳不過食頃。今先下,家室必完,能者封侯矣。」出乃相告,下邳皆下。周丘一夜得三万人,使人報呉王,遂将其兵北略城邑。比至城陽,兵十余万,破城陽中尉軍。聞呉王敗走,自度無与共成功,即引兵帰下邳。未至,疽発背死。二月中,呉王兵既破,敗走,於是天子制詔将軍曰:「蓋聞為善者天報之以福;為非者天報之以殃。高皇帝親表功徳,建立諸侯,幽王、悼恵王絶無後,孝文皇帝哀憐加恵,王幽王子遂、悼恵王子卬等,令奉其先王宗廟,為漢藩国,徳配天地,明并日月。呉王濞倍徳反義,誘受天下亡命罪人,乱天下幣,称病不朝二十余年,有司数請濞罪,孝文皇帝寛之,欲其改行為善。

書き下し

司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。

現代語訳

司馬に取り立てられたが、周丘だけは用いられなかった。周丘は下邳の人で、呉に亡命して酒を売っており、品行が悪かった。呉王濞は周丘を軽んじて任用しなかった。周丘は王に謁見を願い出て説いた。「わたくしは無能なので、軍列の中で仕えることができない。わたくしは兵を率いる地位を求めているのではない。ただ王の漢の割符を一つだけいただければ、必ず王に報いてみせる」。王はそこで割符を与えた。周丘は割符を手にすると、夜に馬を走らせて下邳に入った。下邳ではその時、呉が反乱を起こしたと聞いて、皆城を固めて守っていた。周丘は駅の宿舎に着くと、県令を呼び出した。県令が戸口に入るやいなや、従者に命じて罪を言い立てて県令を斬らせた。そして兄弟が親しくしていた有力な役人たちを呼んで告げた。「呉の反乱軍がまもなくやって来る。来れば、下邳を皆殺しにするのに食事一回分の時間もかからない。今、先に降伏すれば、家族は必ず無事であろう。才能ある者は侯に封じられるであろう」。彼らは出て行って互いに告げ合い、下邳はこぞって降伏した。周丘は一夜にして三万人を得て、人をやって呉王に報告させ、そのまま兵を率いて北の城邑を攻め取った。城陽に着く頃には兵は十万人余りとなり、城陽の中尉の軍を破った。しかし呉王が敗走したと聞くと、共に事を成し遂げる相手がいなくなったと考え、すぐに兵を引いて下邳に帰ろうとした。まだ着かないうちに、背中に疽ができて死んだ。二月のうちに、呉王の軍はすでに破れて敗走した。そこで天子は将軍たちに詔を下した。「聞くところによれば、善を行う者には天が福で報い、悪を行う者には天が災いで報いるという。高皇帝は自ら功臣の功徳を顕彰し、諸侯を立てた。幽王(趙王劉友)と悼恵王(斉王劉肥)の家は絶えて跡継ぎがいなくなったが、孝文皇帝は哀れんで恩恵を加え、幽王の子の遂、悼恵王の子の卬らを王とし、先王の宗廟を守らせて漢の藩屏の国とした。その徳は天地に並び、その明らかさは日月に等しい。ところが呉王濞は恩徳に背き道義に反し、天下の逃亡した罪人を誘い入れ、天下の貨幣を乱し、病気と称して二十年余りも参朝しなかった。役人がたびたび濞の罪を問うよう願い出たが、孝文皇帝はこれを寛大に許し、行いを改めて善を行うことを望んだ。

解説

呉軍の中で唯一目覚ましい働きをした周丘の話と、景帝の詔の前半です。酒売りで品行の悪い亡命者として呉王に軽んじられた周丘は、兵の指揮権ではなく漢の割符一つだけを求め、それを使って下邳の県令を斬り、「先に降れば家族は無事、才ある者は侯になれる」と有力者たちを説いて、一夜で三万人、やがて十万人余りの兵を集めました。軽んじられた人物が、わずかな道具と説得力だけで大きな成果を上げたのです。しかし呉王の敗走を聞くと、ともに事を成す相手がいないと悟って引き返し、途中で背中の疽により亡くなりました。周丘の活躍は、呉王が人を見る目を持たず、有能な者を生かせなかったことを物語ります。後半は、呉王濞が文帝の恩に背き、亡命者を集め、貨幣を乱し、参朝しなかった罪を列挙する景帝の詔です。評判や経歴で人を判断して、埋もれた才能を見逃していないか考えさせられます。

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