史記 / 呉王濞列伝
吳王之棄其軍亡也,軍遂潰,往往稍降太尉、梁軍。楚王戊軍敗,自殺。三王之圍齊臨菑也,三月不能下。漢兵至,膠西、膠東、菑川王各引兵歸。膠西王乃袒跣,席槁,飲水,謝太后。王太子德曰:「漢兵遠,臣觀之已罷,可襲,願收大王餘兵擊之,擊之不勝,乃逃入海,未晚也。」王曰:「吾士卒皆已壞,不可發用。」弗聽。漢將弓高侯穨當遺王書曰:「奉詔誅不義,降者赦其罪,復故;不降者滅之。王何處,須以從事。」王肉袒叩頭漢軍壁,謁曰:「臣卬奉法不謹,驚駭百姓,乃苦將軍遠道至于窮國,敢請菹醢之罪。」弓高侯執金鼓見之,曰:「王苦軍事,願聞王發兵狀。」王頓首膝行對曰:「今者,晁錯天子用事臣,變更高皇帝法令,侵奪諸侯地。卬等以為不義,恐其敗亂天下,七國發兵,且以誅錯。今聞錯已誅,卬等謹以罷兵歸。」將軍曰:「王茍以錯不善,何不以聞?乃未有詔虎符,擅發兵擊義國。以此觀之,意非欲誅錯也。」乃出詔書為王讀之。讀之訖,曰:「王其自圖。」王曰:「如卬等死有餘罪。」遂自殺。太后、太子皆死。膠東、菑川、濟南王皆死,國除,納于漢。酈將軍圍趙十月而下之,趙王自殺。濟北王以劫故,得不誅,徙王菑川。初,吳王首反,并將楚兵,連齊趙。
新字:呉王之棄其軍亡也,軍遂潰,往往稍降太尉、梁軍。楚王戊軍敗,自殺。三王之囲斉臨菑也,三月不能下。漢兵至,膠西、膠東、菑川王各引兵帰。膠西王乃袒跣,席槁,飲水,謝太后。王太子徳曰:「漢兵遠,臣観之已罷,可襲,願収大王余兵撃之,撃之不勝,乃逃入海,未晩也。」王曰:「吾士卒皆已壊,不可発用。」弗聴。漢将弓高侯穨当遺王書曰:「奉詔誅不義,降者赦其罪,復故;不降者滅之。王何処,須以従事。」王肉袒叩頭漢軍壁,謁曰:「臣卬奉法不謹,驚駭百姓,乃苦将軍遠道至于窮国,敢請菹醢之罪。」弓高侯執金鼓見之,曰:「王苦軍事,願聞王発兵状。」王頓首膝行対曰:「今者,晁錯天子用事臣,変更高皇帝法令,侵奪諸侯地。卬等以為不義,恐其敗乱天下,七国発兵,且以誅錯。今聞錯已誅,卬等謹以罷兵帰。」将軍曰:「王苟以錯不善,何不以聞?乃未有詔虎符,擅発兵撃義国。以此観之,意非欲誅錯也。」乃出詔書為王読之。読之訖,曰:「王其自図。」王曰:「如卬等死有余罪。」遂自殺。太后、太子皆死。膠東、菑川、済南王皆死,国除,納于漢。酈将軍囲趙十月而下之,趙王自殺。済北王以劫故,得不誅,徙王菑川。初,呉王首反,并将楚兵,連斉趙。
書き下し
呉王の其の軍を棄てて亡ぐるや、軍遂に潰え、往往にして稍く太尉・梁の軍に降る。楚王戊の軍敗れ、自殺す。三王の斉の臨菑を囲むや、三月にして下す能はず。漢の兵至り、膠西・膠東・菑川王各々兵を引きて帰る。膠西王乃ち袒跣し、槁に席し、水を飲み、太后に謝す。王の太子徳曰く、「漢の兵遠し。臣之を観るに已に罷れたり。襲ふべし。願はくは大王の余兵を収めて之を撃たん。之を撃ちて勝たずんば、乃ち逃れて海に入るも、未だ晩からざるなり」と。王曰く、「吾が士卒皆已に壊れたり。発して用ふべからず」と。聴かず。漢の将弓高侯穨当王に書を遺りて曰く、「詔を奉じて不義を誅す。降る者は其の罪を赦し、故に復す。降らざる者は之を滅ぼす。王何くにか処る。須ちて以て事に従はん」と。王肉袒して漢の軍の壁に叩頭し、謁して曰く、「臣卬法を奉ずること謹まず、百姓を驚駭せしめ、乃ち将軍を苦しめて遠道窮国に至らしむ。敢へて菹醢の罪を請ふ」と。弓高侯金鼓を執りて之に見えて曰く、「王軍事に苦しむ。願はくは王の兵を発するの状を聞かん」と。王頓首膝行して対へて曰く、「今者、晁錯は天子の用事の臣にして、高皇帝の法令を変更し、諸侯の地を侵奪す。卬等以て不義と為し、其の天下を敗乱せんことを恐れ、七国兵を発して、且に以て錯を誅せんとす。今錯已に誅せらるると聞き、卬等謹みて以て兵を罷めて帰る」と。将軍曰く、「王苟くも錯を以て善からずと為さば、何ぞ以て聞せざる。乃ち未だ詔虎符有らざるに、擅に兵を発して義国を撃つ。此を以て之を観れば、意は錯を誅せんと欲するに非ざるなり」と。乃ち詔書を出だして王の為に之を読む。之を読み訖りて、曰く、「王其れ自ら図れ」と。王曰く、「卬等の如きは死して余罪有り」と。遂に自殺す。太后・太子皆死す。膠東・菑川・済南王皆死し、国除かれ、漢に納る。酈将軍趙を囲むこと十月にして之を下す。趙王自殺す。済北王は劫かされたるの故を以て、誅せられざるを得、徙りて菑川に王たり。初め、呉王首として反し、楚の兵を并せ将ゐ、斉趙に連なる。
現代語訳
呉王が軍を捨てて逃げると、軍はそのまま崩れ、あちこちで次々と太尉(周亜夫)の軍や梁の軍に降伏した。楚王劉戊の軍は敗れ、楚王は自殺した。三人の王が斉の臨菑を包囲していたが、三か月たっても落とせなかった。漢の兵が到着すると、膠西王・膠東王・菑川王はそれぞれ兵を引いて帰った。膠西王は肌脱ぎになり裸足で、藁の上に座り、水だけを飲んで、母の太后にわびた。王の太子の劉徳が言った。「漢の兵は遠くから来ている。わたくしの見るところ、もう疲れきっている。襲撃できる。どうか大王の残りの兵を集めて攻撃させていただきたい。攻撃して勝てなければ、それから海へ逃れても遅くはない」。王は「わが兵士たちは皆もう崩れてしまった。動員して使うことはできない」と言って、聞き入れなかった。漢の将軍の弓高侯韓穨当が王に書状を送って言った。「詔を奉じて不義の者を誅する。降伏する者はその罪を赦し、もとの地位に戻す。降伏しない者は滅ぼす。王はどうされるのか。その返事を待って事を進めよう」。王は肌脱ぎになって漢軍の陣地の前で叩頭し、謁見を願い出て言った。「わたくし劉卬は法を謹んで守らず、民を驚かせ恐れさせ、将軍を苦労させて遠い道のりをこの窮した国までお越しいただいた。どうか塩漬けの刑に処していただきたい」。弓高侯は軍の指揮に用いる金鼓を手にして会い、言った。「王は戦で苦労されたであろう。王が兵を起こした事情をうかがいたい」。王は頭を地につけ、膝で進み出て答えた。「このたび、晁錯は天子の政務を執る臣として、高皇帝の法令を変え、諸侯の領地を侵し奪った。わたくしどもはこれを不義と考え、天下を乱し損なうことを恐れて、七国で兵を起こし、晁錯を誅しようとしたのである。今、晁錯はすでに誅殺されたと聞いたので、わたくしどもは謹んで兵を収めて帰った」。将軍は言った。「王がもし晁錯をよくないと考えていたのなら、なぜ天子に申し上げなかったのか。それなのに詔も虎符(兵を動かすための割符)もないのに、勝手に兵を起こして義を守る国を攻撃した。このことから見れば、あなたの本意は晁錯を誅することではなかったのだ」。そこで詔書を取り出して王のために読み上げた。読み終わると、「王よ、自ら処置を考えられよ」と言った。王は「わたくしどものような者は、死んでもなお罪が余る」と言って、そのまま自殺した。太后と太子も皆死んだ。膠東王・菑川王・済南王も皆死に、国は取りつぶされて漢の直轄地に編入された。酈将軍(酈寄)は趙を包囲して十か月でこれを落とし、趙王は自殺した。済北王は脅されて監禁されていたという理由で誅殺を免れ、菑川王に移された。そもそも、呉王が首謀者として反乱を起こし、楚の兵を合わせて率い、斉・趙と連合したのであった。
解説
関連する章句
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史記 呉王濞列伝遂に使を発して斉・菑川・膠東・済南・済北に約す。皆許諾す。而して曰く、「城陽の景王は義有り、諸呂を攻む。与にする勿れ。事定まらば之を分かつのみ」と。諸侯既に新たに削罰せられ、振恐して、多く晁錯を怨む。呉の会稽・豫章郡を削るの書至るに及び、則ち呉王先づ兵を起こす。膠西は正月丙午、漢の吏二千石以下を誅す。膠東・菑川・済南・楚・趙も亦然り。遂に兵を発して西す。斉王後に悔い、薬を飲みて自殺し、約に畔く。済北王は城壊れて未だ完からず、其の郎中令其の王を劫守し、兵を発するを得ず。膠西渠率と為り、膠東・菑川・済南共に臨菑を攻囲す。趙王遂も亦反し、陰かに匈奴をして兵を連ねしむ。七国の発するや、呉王悉く其の士卒をあげ、令を国中に下して曰く、「寡人年六十二、身自ら将たり。少子年十四、亦士卒の先と為る。諸々の年上は寡人と比しく、下は少子と等しき者は、皆発せよ」と。二十余万人を発す。南のかた閩越・東越に使ひす。東越も亦兵を発して従ふ。孝景帝三年正月甲子、初めて兵を広陵に起こす。西のかた淮を渉り、因りて楚の兵を并す。使を発して諸侯に書を遺りて曰く、「呉王劉濞敬みて膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・故の長沙王の子に問ふ。幸ひに寡人に教へよ。漢に賊臣有り、天下に功無く、諸侯の地を侵奪し、吏をして劾し系ぎ訊治せしめ、之を僇辱するを以て故と為し、諸侯人君の礼を以て劉氏の骨肉を遇せず、先帝の功臣を絶ち、姦宄を進任し、天下を詿乱し、社稷を危うくせんと欲す。陛下多病にして志失ひ、省察する能はず。兵を挙げて之を誅せんと欲す。謹みて教へを聞かん。敝国は狭しと雖も、地方三千里、人少なしと雖も、精兵五十万を具ふべし。
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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史記 呉王濞列伝呉と膠西とは、名を知らるる諸侯なり。一時に察せらるれば、恐らくは安肆するを得ざらん。呉王身に内病有り、朝請する能はざること二十余年、嘗て疑はるるを患ふるも、以て自ら白す無し。今肩を脅め足を累ぬるも、猶ほ釈かれざるを懼る。竊かに聞く、大王爵事を以て適有りと。聞く所の諸侯の地を削らるるは、罪此に至らず。此れ恐らくは地を削らるるを得るのみならざらん」と。王曰く、「然り。之有り。子将に奈何せんとす」と。高曰く、「悪を同じくするは相助け、好を同じくするは相留め、情を同じくするは相成し、欲を同じくするは相趨り、利を同じくするは相死す。今呉王自ら以為へらく大王と憂を同じくすと。願はくは時に因り理に循ひ、軀を棄てて以て患害を天下より除かん。億ふに亦可ならんか」と。王瞿然として駭きて曰く、「寡人何ぞ敢へて是の如くせん。今主上急なりと雖も、固より死有るのみ。安んぞ戴かざるを得ん」と。高曰く、「御史大夫晁錯、天子を熒惑し、諸侯を侵奪し、忠を蔽ひ賢を塞ぎ、朝廷疾み怨み、諸侯皆倍畔の意有り。人事極まれり。彗星出で、蝗虫数々起こる。此れ万世の一時にして、愁労は聖人の起こる所以なり。故に呉王内は晁錯を以て討を為し、外は大王の後車に随ひ、天下に彷徉し、郷ふ所の者は降り、指す所の者は下り、天下敢へて服せざるは莫からんと欲す。大王誠に幸ひにして之に一言を許さば、則ち呉王楚王を率ゐて函谷関を略し、滎陽敖倉の粟を守り、漢兵を距がん。次舎を治めて、大王を須たん。大王幸ひにして之に臨む有らば、則ち天下并すべく、両主分割せん。亦可ならずや」と。王曰く、「善し」と。高帰りて呉王に報ず。呉王猶ほ其の与せざるを恐れ、乃ち身自ら使と為り、膠西に使ひして、面して之と結ぶ。膠西の群臣或いは王の謀を聞き、諫めて曰く、「一帝を承くるは、至楽なり。今大王呉と西に郷ふ。弟令ひ事成るとも、両主分争し、患乃ち始めて結ばん。諸侯の地は漢郡の什の二と為すに足らず。而して畔逆を為して以て太后を憂へしむるは、長策に非ざるなり」と。王聴かず。
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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