史記 / 田叔列伝
趙禹曰:「吾聞之,將門之下必有將類。傳曰『不知其君視其所使,不知其子視其所友』。今有詔舉將軍舍人者,欲以觀將軍而能得賢者文武之士也。今徒取盎人子上之,又無智略,如木偶人衣之綺繡耳,將柰之何?」於是趙禹悉召衛將軍舍人百餘人,以次問之,得田仁、任安,曰:「獨此兩人可耳,餘無可用者。」衛將軍見此兩人貧,意不平。趙禹去,謂兩人曰:「各自具樾象絳衣。」兩人對曰:「家貧無用具也。」將軍怒曰:「今兩君家自為貧,何為出此言?鞅鞅如有移德於我者,何也?」將軍不得已,上籍以聞。有詔召見衛將軍舍人,此二人前見,詔問能略相推第也。田仁對曰;「提桴鼓立軍門,使士大夫樂死戰鬬,仁不及任安。」任安對曰:「夫決嫌疑,定是非,辯治官,使百姓無怨心,安不及仁也。」武帝大笑曰:「善。」使任安護北軍,使田仁護邊田穀於河上。此兩人立名天下。其後用任安為益州刺史,以田仁為丞相長史。田仁上書言:「天下郡太守多為姦利,三河尤甚,臣請先刺舉三河。三河太守皆內倚中貴人,與三公有親屬,無所畏憚,宜先正三河以警天下姦吏。」是時河南、河內太守皆御史大夫杜父兄子弟也,河東太守石丞相子孫也。
新字:趙禹曰:「吾聞之,将門之下必有将類。伝曰『不知其君視其所使,不知其子視其所友』。今有詔舉将軍舎人者,欲以観将軍而能得賢者文武之士也。今徒取盎人子上之,又無智略,如木偶人衣之綺繍耳,将柰之何?」於是趙禹悉召衛将軍舎人百余人,以次問之,得田仁、任安,曰:「独此両人可耳,余無可用者。」衛将軍見此両人貧,意不平。趙禹去,謂両人曰:「各自具樾象絳衣。」両人対曰:「家貧無用具也。」将軍怒曰:「今両君家自為貧,何為出此言?鞅鞅如有移徳於我者,何也?」将軍不得已,上籍以聞。有詔召見衛将軍舎人,此二人前見,詔問能略相推第也。田仁対曰;「提桴鼓立軍門,使士大夫楽死戦闘,仁不及任安。」任安対曰:「夫決嫌疑,定是非,弁治官,使百姓無怨心,安不及仁也。」武帝大笑曰:「善。」使任安護北軍,使田仁護辺田穀於河上。此両人立名天下。其後用任安為益州刺史,以田仁為丞相長史。田仁上書言:「天下郡太守多為姦利,三河尤甚,臣請先刺舉三河。三河太守皆内倚中貴人,与三公有親属,無所畏憚,宜先正三河以警天下姦吏。」是時河南、河内太守皆御史大夫杜父兄子弟也,河東太守石丞相子孫也。
書き下し
趙禹曰く、「吾之を聞く、将門の下には必ず将の類有り。伝に曰く、『其の君を知らずんば其の使ふ所を視よ。其の子を知らずんば其の友とする所を視よ』と。今詔有りて将軍の舎人を挙ぐるは、以て将軍の能く賢者文武の士を得るかを観んと欲するなり。今徒に盎人の子を取りて之を上るも、又智略無し。木偶人の之に綺繡を衣するが如きのみ。将に之を奈何せんとす」と。是に於て趙禹悉く衛将軍の舎人百余人を召し、次を以て之に問ひ、田仁・任安を得て、曰く、「独り此の両人可なるのみ。余は用ふべき者無し」と。衛将軍此の両人の貧しきを見て、意平らかならず。趙禹去り、両人に謂ひて曰く、「各々自ら樾象絳衣を具へよ」と。両人対へて曰く、「家貧しくして用て具ふる無きなり」と。将軍怒りて曰く、「今両君家自ら貧しと為す。何為れぞ此の言を出だす。鞅鞅として我に徳を移す有る者の如きは、何ぞや」と。将軍已むを得ず、籍を上りて以て聞す。詔有りて衛将軍の舎人を召見す。此の二人前みて見ゆ。詔して能略を問ひて相推第せしむ。田仁対へて曰く、「桴鼓を提げて軍門に立ち、士大夫をして死を楽しみて戦闘せしむるは、仁任安に及ばず」と。任安対へて曰く、「夫れ嫌疑を決し、是非を定め、治官を弁じ、百姓をして怨心無からしむるは、安仁に及ばざるなり」と。武帝大いに笑ひて曰く、「善し」と。任安をして北軍を護らしめ、田仁をして辺の田穀を河上に護らしむ。此の両人名を天下に立つ。其の後任安を用ひて益州の刺史と為し、田仁を以て丞相長史と為す。田仁上書して言ふ、「天下の郡の太守多く姦利を為し、三河尤も甚だし。臣請ふ、先づ三河を刺挙せん。三河の太守皆内は中貴人に倚り、三公と親属有り、畏憚する所無し。宜しく先づ三河を正して以て天下の姦吏を警むべし」と。是の時河南・河内の太守は皆御史大夫杜の父兄子弟なり。河東の太守は石丞相の子孫なり。
現代語訳
趙禹は言った。「わたしはこう聞いている。将軍の家の門下には必ず将軍にふさわしい人物がいる、と。古い書物にも『その君主がわからなければ、その使っている臣下を見よ。その子がわからなければ、その友人を見よ』とある。今、詔によって将軍の舎人を推挙させるのは、将軍が賢者や文武の人材を得ることができるかどうかを見ようとしているのだ。今ただ金持ちの子を選んで推挙しても、知恵も才覚もない。木の人形に綾絹の刺繍の衣を着せたようなものにすぎない。いったいどうなさるおつもりか」。そこで趙禹は衛将軍の舎人百人余りを全員呼び集め、順番に問いただして、田仁と任安を見いだし、「この二人だけが使える。ほかに用いるべき者はいない」と言った。衛将軍はこの二人が貧しいのを見て、心中おもしろくなかった。趙禹が去ると、将軍は二人に「それぞれ自分で鞍馬と赤い衣をそろえよ」と言った。二人は「家が貧しくて、そろえる金がないのです」と答えた。将軍は怒って言った。「今、二人とも自分から家が貧しいと言う。なぜそんなことを言うのか。不満げな顔をして、まるでわたしに恩を着せようとしているかのようなのは、どういうわけだ」。将軍はやむを得ず、名簿を奉って天子に報告した。詔によって衛将軍の舎人たちが召し出されて謁見し、この二人が進み出た。天子は二人にその才能と方略を問い、互いを評して順位をつけさせた。田仁は答えた。「ばちと太鼓を手に軍門に立ち、兵士や将校たちに喜んで死を賭して戦わせることにかけては、わたくし仁は任安に及びません」。任安は答えた。「疑わしいことを決め、是非を定め、官府の治め方を見分け、民衆に恨みの心を抱かせないことにかけては、わたくし安は仁に及びません」。武帝は大笑いして「よろしい」と言った。任安には北軍(首都警備軍)を監督させ、田仁には黄河のほとりで辺境の屯田の穀物を監督させた。この二人は天下に名を立てた。その後、任安を益州の刺史(監察官)に、田仁を丞相長史に任用した。田仁は上書して言った。「天下の郡の太守の多くが不正な利益をむさぼっており、三河(河南・河内・河東)がとりわけひどい。わたくしはまず三河を摘発したい。三河の太守は皆、内には宮中の有力な宦官や寵臣を頼みとし、三公とも姻戚関係にあるので、何も恐れ憚るところがない。まず三河を正して、天下の悪徳官吏への戒めとすべきである」。この時、河南・河内の太守は皆、御史大夫杜周の父兄や子弟であり、河東の太守は石丞相(石慶)の子孫であった。
解説
関連する章句
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史記 田叔列伝褚先生曰く、臣郎為りし時、之を聞きて曰く、田仁は故より任安と相善し。任安は、滎陽の人なり。少くして孤にして貧困、人の為に車を将ゐて長安に之き、留まり、事を求めて小吏と為らんとするも、未だ因縁有らざるなり。因りて名数を占著す。武功は、扶風の西界の小邑なり。谷口は蜀道にして山に近し。安以為へらく、武功は小邑にして、豪無く、高くし易しと。安留まり、人に代はりて求盗亭父と為る。後に亭長と為る。邑中の人民倶に出でて猟するに、任安常に人の為に麋鹿雉兎を分かち、老小壮の劇易の処に当たるを部署す。衆人皆喜びて曰く、「傷む無きなり、任少卿は分別平らかにして、智略有り」と。明日復た合会するに、会する者数百人。任少卿曰く、「某子甲は何為れぞ来らざるか」と。諸人皆其の之を見ることの疾きを怪しむ。其の後除せられて三老と為り、挙げられて親民と為り、出でて三百石の長と為り、民を治む。上の行きて出游するに共帳辦ぜざるに坐して、斥け免ぜらる。乃ち衛将軍の舎人と為り、田仁と会し、倶に舎人と為り、門下に居り、心を同じくして相愛す。此の二人家貧しく、銭の以て将軍の家監に事ふる無し。家監悪齧の馬を養はしむ。両人床を同じくして臥す。仁竊かに言ひて曰く、「人を知らざるかな家監や」と。任安曰く、「将軍すら尚ほ人を知らず、何ぞ乃ち家監をや」と。衛将軍此の両人を従へて平陽主に過ぎる。主の家両人をして騎奴と席を同じくして食はしむ。此の二子刀を抜きて席を列断して別に坐す。主の家皆怪しみて之を悪むも、敢へて呵する莫し。其の後詔有りて衛将軍の舎人を募択して以て郎と為さんとす。将軍舎人の中の富給なる者を取り、鞍馬・絳衣・玉具の剣を具へしめ、入りて之を奏せんと欲す。会々賢大夫少府趙禹来りて衛将軍に過ぎる。将軍挙ぐる所の舎人を呼びて以て趙禹に示す。趙禹次を以て之に問ふに、十余人一人として事に習ひ智略有る者無し。
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史記 田叔列伝是の時石氏の九人二千石と為り、方に盛貴なり。田仁数々上書して之を言ふ。杜大夫及び石氏人をして謝せしめ、田少卿に謂ひて曰く、「吾敢へて語言有るに非ざるなり。願はくは少卿相誣汚すること無かれ」と。仁已に三河を刺し、三河の太守皆吏に下されて誅死す。仁還りて事を奏す。武帝説び、仁を以て能く彊御を畏れずと為し、仁を拝して丞相司直と為す。威天下に振ふ。其の後太子の兵事有るに逢ふ。丞相自ら兵を将ゐ、司直をして城門を主らしむ。司直以為へらく、太子は骨肉の親にして、父子の間は甚だしくは近づくを欲せずと。之を去りて諸陵に之き過ぐ。是の時武帝甘泉に在り、御史大夫暴君をして下りて丞相を責めしむ、「何為れぞ太子を縦す」と。丞相対へて言ふ、「司直をして城門を部守せしむるに太子を開けり」と。上書して以て聞し、司直を捕繋せんことを請ふ。司直吏に下され、誅死す。是の時任安北軍の使者護軍為り。太子車を北軍の南門の外に立て、任安を召し、節を与へて兵を発せしむ。安拝して節を受け、入りて、門を閉ぢて出でず。武帝之を聞き、以為へらく任安詳りを為すか、事に傅かざるは何ぞやと。任安北軍の銭官の小吏を笞辱す。小吏上書して之を言ひ、以為へらく太子の節を受け、「幸ひに我に其の鮮好なる者を与へよ」と言へりと。書上りて聞す。武帝曰く、「是れ老吏なり。兵事の起こるを見て、坐して成敗を観んと欲し、勝つ者を見て之に合従せんと欲す。両心有り。安は死に当たるの罪有ること甚だ衆きも、吾常に之を活かす。今詐りを懐き、不忠の心有り」と。安を吏に下し、誅死す。夫れ月満つれば則ち虧け、物盛んなれば則ち衰ふるは、天地の常なり。進むを知りて退くを知らず、久しく富貴に乗ずれば、禍積りて祟りを為す。故に范蠡の越を去り、辞して官位を受けず、名後世に伝はり、万歳忘れられざるは、豈に及ぶべけんや。後進の者慎みて之を戒めよ。
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史記 田叔列伝数年にして、叔官を以て卒す。魯百金を以て祠るも、少子仁受けざるなり。曰く、「百金を以て先人の名を傷つけず」と。仁は壮健を以て衛将軍の舎人と為り、数々従ひて匈奴を撃つ。衛将軍仁を進言し、仁郎中と為る。数歳にして、二千石の丞相長史と為り、官を失ふ。其の後三河を刺挙せしむ。上東巡し、仁事を奏して辞有り。上説び、拝して京輔都尉と為す。月余にして、上遷して拝して司直と為す。数歳にして、太子の事に坐す。時に左相自ら兵を将ゐ、司直田仁をして城門を閉守するを主らしむ。太子を縦すに坐し、吏に下されて誅死す。仁兵を発するに、長陵の令車千秋仁を上変し、仁族死す。陘城は今中山国に在り。太史公曰く、孔子称して曰く、「是の国に居れば必ず其の政を聞く」と。田叔の謂か。義にして賢を忘れず、主の美を明らかにして以て過を救ふ。仁は余と善し。余故に并せて之を論ず。
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史記 孫子呉起列伝呉起、西河の守と為り、甚だ声名有り。魏、相を置き、田文を相とす。呉起悦ばず、田文に謂ひて曰く、「請ふ、子と功を論ぜん、可なるか」と。田文曰く、「可なり」と。起曰く、「三軍を将ゐ、士卒をして死を楽ひ、敵国をして敢て謀らざらしむるは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「百官を治め、万民を親しましめ、府庫を実たすは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「西河を守りて秦の兵敢て東に郷はず、韓・趙賓従せしむるは、子、起と孰れぞ」と。文曰く、「子に如かず」と。起曰く、「此の三者、子皆吾が下に出づ、而るに位、吾が上に加はるは何ぞや」と。文曰く、「主少くして国疑ひ、大臣未だ附かず、百姓信ぜず。是の時に方りて、之を子に属せんか、之を我に属せんか」と。起、黙然たること良や久しくして曰く、「之を子に属せん」と。文曰く、「此れ乃ち吾が子の上に居る所以なり」と。呉起乃ち自ら田文に如かざるを知る。
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史記 田叔列伝田叔は、趙の陘城の人なり。其の先は、斉の田氏の苗裔なり。叔は剣を喜み、黄老の術を楽巨公の所に学ぶ。叔の人と為りは刻廉にして自ら喜び、喜んで諸公に游ぶ。趙人之を趙の相趙午に挙げ、午之を趙王張敖の所に言ひ、趙王以て郎中と為す。数歳、切直廉平なり。趙王之を賢とするも、未だ遷すに及ばず。
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