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史記 / 田叔列伝

是時石氏九人為二千石,方盛貴。田仁數上書言之。杜大夫及石氏使人謝,謂田少卿曰:「吾非敢有語言也,願少卿無相誣汙也。」仁已刺三河,三河太守皆下吏誅死。仁還奏事,武帝說,以仁為能不畏彊御,拜仁為丞相司直,威振天下。其後逢太子有兵事,丞相自將兵,使司直主城門。司直以為太子骨肉之親,父子之閒不甚欲近,去之諸陵過。是時武帝在甘泉,使御史大夫暴君下責丞相「何為縱太子」,丞相對言「使司直部守城門而開太子」。上書以聞,請捕系司直。司直下吏,誅死。是時任安為北軍使者護軍,太子立車北軍南門外,召任安,與節令發兵。安拜受節,入,閉門不出。武帝聞之,以為任安為詳邪,不傅事,何也?任安笞辱北軍錢官小吏,小吏上書言之,以為受太子節,言「幸與我其鮮好者」。書上聞,武帝曰:「是老吏也,見兵事起,欲坐觀成敗,見勝者欲合從之,有兩心。安有當死之罪甚眾,吾常活之,今懷詐,有不忠之心。」下安吏,誅死。夫月滿則虧,物盛則衰,天地之常也。知進而不知退,久乘富貴,禍積為祟。故范蠡之去越,辭不受官位,名傳後世,萬歲不忘,豈可及哉!後進者慎戒之。

新字:是時石氏九人為二千石,方盛貴。田仁数上書言之。杜大夫及石氏使人謝,謂田少卿曰:「吾非敢有語言也,願少卿無相誣汚也。」仁已刺三河,三河太守皆下吏誅死。仁還奏事,武帝説,以仁為能不畏彊御,拝仁為丞相司直,威振天下。其後逢太子有兵事,丞相自将兵,使司直主城門。司直以為太子骨肉之親,父子之閒不甚欲近,去之諸陵過。是時武帝在甘泉,使御史大夫暴君下責丞相「何為縦太子」,丞相対言「使司直部守城門而開太子」。上書以聞,請捕系司直。司直下吏,誅死。是時任安為北軍使者護軍,太子立車北軍南門外,召任安,与節令発兵。安拝受節,入,閉門不出。武帝聞之,以為任安為詳邪,不傅事,何也?任安笞辱北軍銭官小吏,小吏上書言之,以為受太子節,言「幸与我其鮮好者」。書上聞,武帝曰:「是老吏也,見兵事起,欲坐観成敗,見勝者欲合従之,有両心。安有当死之罪甚衆,吾常活之,今懐詐,有不忠之心。」下安吏,誅死。夫月満則虧,物盛則衰,天地之常也。知進而不知退,久乗富貴,禍積為祟。故范蠡之去越,辞不受官位,名伝後世,万歳不忘,豈可及哉!後進者慎戒之。

書き下し

是の時石氏の九人二千石と為り、方に盛貴なり。田仁数々上書して之を言ふ。杜大夫及び石氏人をして謝せしめ、田少卿に謂ひて曰く、「吾敢へて語言有るに非ざるなり。願はくは少卿相誣汚すること無かれ」と。仁已に三河を刺し、三河の太守皆吏に下されて誅死す。仁還りて事を奏す。武帝説び、仁を以て能く彊御を畏れずと為し、仁を拝して丞相司直と為す。威天下に振ふ。其の後太子の兵事有るに逢ふ。丞相自ら兵を将ゐ、司直をして城門を主らしむ。司直以為へらく、太子は骨肉の親にして、父子の間は甚だしくは近づくを欲せずと。之を去りて諸陵に之き過ぐ。是の時武帝甘泉に在り、御史大夫暴君をして下りて丞相を責めしむ、「何為れぞ太子を縦す」と。丞相対へて言ふ、「司直をして城門を部守せしむるに太子を開けり」と。上書して以て聞し、司直を捕繋せんことを請ふ。司直吏に下され、誅死す。是の時任安北軍の使者護軍為り。太子車を北軍の南門の外に立て、任安を召し、節を与へて兵を発せしむ。安拝して節を受け、入りて、門を閉ぢて出でず。武帝之を聞き、以為へらく任安詳りを為すか、事に傅かざるは何ぞやと。任安北軍の銭官の小吏を笞辱す。小吏上書して之を言ひ、以為へらく太子の節を受け、「幸ひに我に其の鮮好なる者を与へよ」と言へりと。書上りて聞す。武帝曰く、「是れ老吏なり。兵事の起こるを見て、坐して成敗を観んと欲し、勝つ者を見て之に合従せんと欲す。両心有り。安は死に当たるの罪有ること甚だ衆きも、吾常に之を活かす。今詐りを懐き、不忠の心有り」と。安を吏に下し、誅死す。夫れ月満つれば則ち虧け、物盛んなれば則ち衰ふるは、天地の常なり。進むを知りて退くを知らず、久しく富貴に乗ずれば、禍積りて祟りを為す。故に范蠡の越を去り、辞して官位を受けず、名後世に伝はり、万歳忘れられざるは、豈に及ぶべけんや。後進の者慎みて之を戒めよ。

現代語訳

この時、石氏の一族は九人が二千石の官にあり、まさに盛んで貴い地位にあった。田仁はたびたび上書してこのことを訴えた。御史大夫杜周と石氏は人をやって田仁にわびさせ、田少卿(田仁)にこう言わせた。「わたしたちはあえて何か口出しするつもりはない。どうか少卿よ、わたしたちを誣告して汚さないでほしい」。田仁は三河の摘発を終え、三河の太守は皆獄吏に引き渡されて誅殺された。田仁は都に戻って報告し、武帝は喜んで、田仁が権勢ある者を恐れないと評価して丞相司直に任じた。その威光は天下に鳴り響いた。その後、皇太子が兵を挙げる事件(巫蠱の乱)に出くわした。丞相が自ら兵を率い、司直の田仁に城門の守備を担当させた。司直は、太子は天子の骨肉の親族であり、父子の間のことにはあまり深入りしたくないと考え、城門を離れて諸陵のあたりへ立ち去った。この時、武帝は甘泉宮におり、御史大夫の暴勝之を遣わして丞相を「なぜ太子を逃がしたのか」と責めさせた。丞相は「司直に城門の守備を担当させたところ、太子に門を開けたのです」と答え、上書して天子に報告し、司直を捕らえて獄につなぐよう願い出た。司直は獄吏に引き渡され、誅殺された。この時、任安は北軍の使者護軍(首都警備軍の監督官)であった。太子は車を北軍の南門の外に止めて任安を呼び、割符を与えて兵を出させようとした。任安は拝礼して割符を受け取ったが、軍営に入ると門を閉ざして出なかった。武帝はこれを聞いて、任安は偽りのふりをしたのか、どちらにもつかなかったのはなぜか、と考えた。任安は北軍の銭を管理する下級役人を鞭打って辱めたことがあった。その小役人が上書して、任安は太子の割符を受け取り、「どうか新しく良い兵器をわたしに回してほしい」と言ったと訴えた。この書が天子に届くと、武帝は言った。「これは老獪な役人だ。兵乱が起こったのを見て、座って成り行きを眺め、勝った方を見てそちらにつこうとしたのだ。二心を抱いている。任安には死罪に当たる罪がたいへん多かったが、わたしはいつも生かしてやった。それが今、偽りを抱き、不忠の心を持っている」。こうして任安を獄吏に引き渡し、誅殺した。そもそも月は満ちれば欠け、物は盛んになれば衰えるのが天地の常である。進むことを知って退くことを知らず、長く富貴の地位に乗っていれば、災いが積もって祟りとなる。だから范蠡が越を去り、官位を辞退して受けず、名を後世に伝えて永く忘れられないのは、とうてい及ぶことのできないところである。後に続く者は慎んでこれを戒めとせよ。

解説

褚少孫の補筆の結末で、田仁と任安がともに巫蠱の乱で命を落とす経緯と、褚少孫自身の教訓が語られます。田仁は石氏や杜周の親族が務める三河の太守を恐れず摘発し、威名を天下に響かせましたが、太子が兵を挙げた際、父子の争いに深入りすまいと城門を離れ、太子を逃がした罪で処刑されました。任安は太子から兵を出せと割符を受け取りながら門を閉ざして動かず、恨みを買った小役人の告発によって「成り行きを見て勝つ側につこうとした」と断じられ、同じく誅殺されます。司馬遷が獄中の任安に宛てたとされる「報任少卿書」の背景を知るうえでも重要な記事です。褚少孫は「月満つれば則ち虧く」と説き、功成って身を引いた范蠡を理想として挙げます。組織の争いでどちらにもつかない態度が、かえって最も疑われることがあるという教訓も含まれています。

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