史記 / 万石張叔列伝
三歳,以軍功,孝景前六年中封綰爲建陵侯。其明年,上廢太子,誅栗卿之屬。上以爲綰長者,不忍,乃賜綰告歸,而使郅都治捕栗氏。既已,上立膠東王爲太子,召綰,拜爲太子太傅。久之,遷爲御史大夫。五歳,代桃侯舍爲丞相,朝奏事如職所奏。然自初官以至丞相,終無可言。天子以爲敦厚,可相少主,尊寵之,賞賜甚多。爲丞相三歳,景帝崩,武帝立。建元年中,丞相以景帝疾時諸官囚多坐不辜者,而君不任職,免之。其後綰卒,子信代。坐酎金失侯。
新字:三歳,以軍功,孝景前六年中封綰為建陵侯。其明年,上廃太子,誅栗卿之属。上以為綰長者,不忍,乃賜綰告帰,而使郅都治捕栗氏。既已,上立膠東王為太子,召綰,拝為太子太傅。久之,遷為御史大夫。五歳,代桃侯舎為丞相,朝奏事如職所奏。然自初官以至丞相,終無可言。天子以為敦厚,可相少主,尊寵之,賞賜甚多。為丞相三歳,景帝崩,武帝立。建元年中,丞相以景帝疾時諸官囚多坐不辜者,而君不任職,免之。其後綰卒,子信代。坐酎金失侯。
書き下し
三歳にして、軍功を以て、孝景前六年中に綰を封じて建陵侯と為す。其の明年、上太子を廃し、栗卿の属を誅す。上以為へらく、綰は長者なりと。忍びず、乃ち綰に告帰を賜ひ、而して郅都をして栗氏を治捕せしむ。既已にして、上膠東王を立てて太子と為し、綰を召して、拝して太子太傅と為す。之を久しくして、遷りて御史大夫と為る。五歳にして、桃侯舎に代はりて丞相と為り、朝に事を奏すること職の奏する所の如し。然れども初めて官たりしより以て丞相に至るまで、終に言ふべき無し。天子以て敦厚にして、少主に相たるべしと為し、之を尊寵し、賞賜甚だ多し。丞相と為ること三歳にして、景帝崩じ、武帝立つ。建元年中、丞相景帝の疾の時の諸官の囚多く不辜に坐する者あるを以て、而して君職に任へずとし、之を免ず。其の後綰卒し、子信代はる。酎金に坐して侯を失ふ。
現代語訳
三年後、軍功によって、孝景帝の前元六年に綰は建陵侯に封じられた。その翌年、景帝は皇太子(栗太子)を廃し、栗卿ら(栗姫の一族)を誅殺した。景帝は、綰は長者であるから(この処分を任せるのは)忍びないと考え、綰に休暇を与えて家に帰らせ、郅都に栗氏を取り調べて捕らえさせた。それが終わると、景帝は膠東王(後の武帝)を皇太子に立て、綰を呼び戻して太子太傅に任じた。しばらくして御史大夫に昇進した。五年後、桃侯劉舎に代わって丞相となり、朝廷での上奏は職務上定められたとおりに行った。しかし初めて官に就いてから丞相に至るまで、ついに取り立てて言うべき進言はなかった。天子は綰を誠実で重厚であり、幼い君主の補佐にふさわしいと考え、尊び寵愛し、褒美を非常に多く与えた。丞相となって三年後、景帝が崩御し、武帝が即位した。建元年間、景帝の病中に多くの役所の囚人が無実の罪に問われていたのに、君(綰)は職責を果たさなかったとして、丞相を罷免された。その後綰は亡くなり、子の信が跡を継いだ。信は酎金(宗廟祭祀の献金)の不備に問われて侯位を失った。
解説
関連する章句
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史記 万石張叔列伝天子曰く、「倉廩既に空しく、民貧しく流亡す。而るに君之を徙さんことを請はんと欲し、揺蕩して安んぜず、之を動かし危うくす。而して位を辞す。君安くに難を帰せんと欲するか」と。書を以て慶を譲む。慶甚だ慚ぢ、遂に復た事を視る。慶は文深く審謹なるも、然れども他の大略無く、百姓の為に言ふ。後三歳余、太初二年中、丞相慶卒し、諡して恬侯と為す。慶の中子徳、慶愛して之を用ふ。上徳を以て嗣と為し、侯に代はらしむ。後に太常と為り、法に坐して死に当たり、贖ひて免れて庶人と為る。慶方に丞相為りしとき、諸子孫の吏と為りて更々二千石に至る者十三人。慶死して後に及び、稍く罪を以て去り、孝謹益々衰ふ。建陵侯衛綰は、代の大陵の人なり。綰は戯車を以て郎と為り、文帝に事へ、功次もて遷りて中郎将と為り、醇謹にして他無し。孝景太子為りし時、上の左右を召して飲ましむ。而るに綰病と称して行かず。文帝且に崩ぜんとする時、孝景に属して曰く、「綰は長者なり、善く之を遇せよ」と。文帝崩じ、景帝立つに及び、歳余綰を噍呵せず、綰日に以て謹み力む。景帝上林に幸し、中郎将に詔して参乗せしむ。還りて問ひて曰く、「君参乗するを得る所以を知るか」と。綰曰く、「臣は車士より幸ひに功次を以て遷りて中郎将と為るを得、自ら知らざるなり」と。上問ひて曰く、「吾太子為りし時君を召すに、君来るを肯ぜざりしは、何ぞや」と。対へて曰く、「死罪、実に病めり」と。上之に剣を賜ふ。綰曰く、「先帝臣に剣を賜ふこと凡そ六、剣は敢へて詔を奉ぜず」と。上曰く、「剣は、人の施易する所なり。独り今に至るか」と。綰曰く、「具に在り」と。上六剣を取らしむるに、剣尚ほ盛にして、未だ嘗て服せざるなり。郎官譴有れば、常に其の罪を蒙り、他の将と争はず。功有れば、常に他の将に譲る。上以て廉と為し、忠実にして他腸無しとし、乃ち綰を拝して河間王の太傅と為す。呉楚反し、綰に詔して将と為す。河間の兵を将ゐて呉楚を撃ちて功有り、拝して中尉と為す。
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史記 万石張叔列伝其の官は孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無きも、恭謹なること与に比ぶる無し。文帝の時、東陽侯張相如太子太傅と為り、免ぜらる。傅と為るべき者を選ぶに、皆奮を推し、奮太子太傅と為る。孝景即位するに及び、以て九卿と為す。迫近して之を憚り、奮を徙して諸侯の相と為す。奮の長子は建、次子は甲、次子は乙、次子は慶、皆馴行孝謹を以て、官皆二千石に至る。是に於て景帝曰く、「石君及び四子皆二千石、人臣の尊寵乃ち其の門に集まる」と。奮を号して万石君と為す。孝景帝の季年、万石君は上大夫の禄を以て老を家に帰し、歳時を以て朝臣と為る。宮門の闕を過ぐれば、万石君必ず車を下りて趨り、路馬を見れば必ず式す。子孫小吏と為り、来り帰りて謁すれば、万石君必ず朝服して之に見え、名いはず。子孫過失有れば、譙譲せず、便坐を為し、案に対して食はず。然る後に諸子相責め、長老に因りて肉袒して固く罪を謝し、之を改むれば、乃ち許す。子孫の冠に勝ふる者側に在れば、燕居と雖も必ず冠し、申申如たり。僮僕も訢訢如として、唯謹む。上時に食を家に賜へば、必ず稽首俯伏して之を食ふこと、上の前に在るが如し。其の喪を執るや、哀戚甚だ悼む。子孫教へに遵ひ、亦之の如くす。万石君の家は孝謹を以て郡国に聞こえ、斉魯の諸儒の質行と雖も、皆自ら以て及ばずと為す。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく、儒者は文多く質少なし、今万石君の家は言はずして躬ら行ふと。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。
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史記 魏其武安侯列伝桃侯相を免ぜらる、竇太后数しば魏其侯を言ふ。孝景帝曰く、「太后豈に臣愛む有りて、魏其を相とせずと以為すか。魏其なる者は、沾沾として自喜するのみ、多易なり。以て相と為し難し、持重ならず」と。遂に用ゐず、建陵侯衛綰を用ゐて丞相と為す。
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史記 孝景本紀梁・楚の二王皆薨ず。後九月、馳道の樹を伐り、蘭池に殖う。七年冬、栗太子を廃して臨江王と為す。(一)十(二)[一]月晦、日之を食する有り。春、徒隷の陽陵を作る者を免ず。丞相青免ぜらる。二月乙巳、太尉条侯周亜夫を以て丞相と為す。
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史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
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史記 万石張叔列伝万石君の少子慶太僕と為り、御して出づ。上車中の幾馬なるかを問ふ。慶策を以て馬を数へ畢り、手を挙げて曰く、「六馬」と。慶は諸子の中に於て最も簡易と為すも、然れども猶ほ此の如し。斉の相と為り、斉国を挙げて皆其の家行を慕ひ、言はずして斉国大いに治まり、為に石相祠を立つ。元狩元年、上太子を立て、群臣の傅と為るべき者を選ぶ。慶沛の守より太子太傅と為り、七歳にして遷りて御史大夫と為る。元鼎五年秋、丞相罪有りて罷む。御史に制詔すらく、「万石君は先帝之を尊び、子孫孝なり。其れ御史大夫慶を以て丞相と為し、封じて牧丘侯と為せ」と。是の時漢方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を撃ち、北のかた匈奴を逐ひ、西のかた大宛を伐ち、中国事多し。天子海内を巡狩し、上古の神祠を修め、封禅し、礼楽を興す。公家の用少なく、桑弘羊等利を致し、王温舒の属法を峻しくし、児寛等文学を推して九卿に至り、更々進みて事を用ふ。事丞相に関決せず、丞相は醇謹なるのみ。位に在ること九歳、能く匡言する所有る無し。嘗て上の近臣所忠・九卿咸宣の罪を治めんことを請はんと欲するも、服する能はず、反つて其の過を受け、罪を贖ふ。元封四年中、関東の流民二百万口、名数無き者四十万、公卿議して流民を辺に徙して以て之を適せんことを請はんと欲す。上以為へらく、丞相は老謹にして、其の議に与る能はずと。乃ち丞相に告帰を賜ひ、而して御史大夫以下の議して請ふを為す者を案ず。丞相職に任へざるを慚ぢ、乃ち上書して曰く、「慶幸ひに罪を丞相に待つを得るも、罷駑にして以て治を輔くる無く、城郭倉庫空虚にして、民多く流亡す。罪は斧質に伏すに当たるも、上法を致すに忍びず。願はくは丞相侯の印を帰し、骸骨を乞ひて帰り、賢者の路を避けん」と。
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