史記 / 万石張叔列伝
天子曰:「倉廩既空,民貧流亡,而君欲請徙之,搖蕩不安,動危之,而辭位,君欲安歸難乎?」以書讓慶,慶甚慚,遂復視事。慶文深審謹,然無他大略,爲百姓言。後三歳餘,太初二年中,丞相慶卒,謚爲恬侯。慶中子德,慶愛用之,上以德爲嗣,代侯。後爲太常,坐法當死,贖免爲庶人。慶方爲丞相,諸子孫爲吏更至二千石者十三人。及慶死後,稍以罪去,孝謹益衰矣。建陵侯衞綰者,代大陵人也。綰以戲車爲郎,事文帝,功次遷爲中郎將,醇謹無他。孝景爲太子時,召上左右飲,而綰稱病不行。文帝且崩時,屬孝景曰:「綰長者,善遇之。」及文帝崩,景帝立,歳餘不噍呵綰,綰日以謹力。景帝幸上林,詔中郎將參乘,還而問曰:「君知所以得參乘乎?」綰曰:「臣從車士幸得以功次遷爲中郎將,不自知也。」上問曰:「吾爲太子時召君,君不肯來,何也?」對曰:「死罪,實病!」上賜之劍。綰曰:「先帝賜臣劍凡六,劍不敢奉詔。」上曰:「劍,人之所施易,獨至今乎?」綰曰:「具在。」上使取六劍,劍尚盛,未嘗服也。郎官有譴,常蒙其罪,不與他將爭;有功,常讓他將。上以爲廉,忠實無他腸,乃拜綰爲河閒王太傅。呉楚反,詔綰爲將,將河閒兵撃呉楚有功,拜爲中尉。
新字:天子曰:「倉廩既空,民貧流亡,而君欲請徙之,揺蕩不安,動危之,而辞位,君欲安帰難乎?」以書譲慶,慶甚慚,遂復視事。慶文深審謹,然無他大略,為百姓言。後三歳余,太初二年中,丞相慶卒,謚為恬侯。慶中子徳,慶愛用之,上以徳為嗣,代侯。後為太常,坐法当死,贖免為庶人。慶方為丞相,諸子孫為吏更至二千石者十三人。及慶死後,稍以罪去,孝謹益衰矣。建陵侯衛綰者,代大陵人也。綰以戯車為郎,事文帝,功次遷為中郎将,醇謹無他。孝景為太子時,召上左右飲,而綰称病不行。文帝且崩時,属孝景曰:「綰長者,善遇之。」及文帝崩,景帝立,歳余不噍呵綰,綰日以謹力。景帝幸上林,詔中郎将参乗,還而問曰:「君知所以得参乗乎?」綰曰:「臣従車士幸得以功次遷為中郎将,不自知也。」上問曰:「吾為太子時召君,君不肯来,何也?」対曰:「死罪,実病!」上賜之剣。綰曰:「先帝賜臣剣凡六,剣不敢奉詔。」上曰:「剣,人之所施易,独至今乎?」綰曰:「具在。」上使取六剣,剣尚盛,未嘗服也。郎官有譴,常蒙其罪,不与他将争;有功,常譲他将。上以為廉,忠実無他腸,乃拝綰為河閒王太傅。呉楚反,詔綰為将,将河閒兵撃呉楚有功,拝為中尉。
書き下し
天子曰く、「倉廩既に空しく、民貧しく流亡す。而るに君之を徙さんことを請はんと欲し、揺蕩して安んぜず、之を動かし危うくす。而して位を辞す。君安くに難を帰せんと欲するか」と。書を以て慶を譲む。慶甚だ慚ぢ、遂に復た事を視る。慶は文深く審謹なるも、然れども他の大略無く、百姓の為に言ふ。後三歳余、太初二年中、丞相慶卒し、諡して恬侯と為す。慶の中子徳、慶愛して之を用ふ。上徳を以て嗣と為し、侯に代はらしむ。後に太常と為り、法に坐して死に当たり、贖ひて免れて庶人と為る。慶方に丞相為りしとき、諸子孫の吏と為りて更々二千石に至る者十三人。慶死して後に及び、稍く罪を以て去り、孝謹益々衰ふ。建陵侯衛綰は、代の大陵の人なり。綰は戯車を以て郎と為り、文帝に事へ、功次もて遷りて中郎将と為り、醇謹にして他無し。孝景太子為りし時、上の左右を召して飲ましむ。而るに綰病と称して行かず。文帝且に崩ぜんとする時、孝景に属して曰く、「綰は長者なり、善く之を遇せよ」と。文帝崩じ、景帝立つに及び、歳余綰を噍呵せず、綰日に以て謹み力む。景帝上林に幸し、中郎将に詔して参乗せしむ。還りて問ひて曰く、「君参乗するを得る所以を知るか」と。綰曰く、「臣は車士より幸ひに功次を以て遷りて中郎将と為るを得、自ら知らざるなり」と。上問ひて曰く、「吾太子為りし時君を召すに、君来るを肯ぜざりしは、何ぞや」と。対へて曰く、「死罪、実に病めり」と。上之に剣を賜ふ。綰曰く、「先帝臣に剣を賜ふこと凡そ六、剣は敢へて詔を奉ぜず」と。上曰く、「剣は、人の施易する所なり。独り今に至るか」と。綰曰く、「具に在り」と。上六剣を取らしむるに、剣尚ほ盛にして、未だ嘗て服せざるなり。郎官譴有れば、常に其の罪を蒙り、他の将と争はず。功有れば、常に他の将に譲る。上以て廉と為し、忠実にして他腸無しとし、乃ち綰を拝して河間王の太傅と為す。呉楚反し、綰に詔して将と為す。河間の兵を将ゐて呉楚を撃ちて功有り、拝して中尉と為す。
現代語訳
天子は言った。「倉は既に空で、民は貧しく流亡している。それなのに君は流民を移住させるよう願い出ようとし、民を揺り動かして不安にさせ、危険にさらそうとした。そのうえで辞職するというのか。君はこの難局を誰に押しつけるつもりか」。こうして書面で慶を責めた。慶はひどく恥じ入り、結局また職務に復帰した。慶は文書に細かく、慎重で慎み深かったが、それ以外に大きな方策はなく、民衆のために意見を述べることはあった。その後三年余り、太初二年のうちに丞相慶は亡くなり、恬侯と諡された。慶の次男の徳を慶は可愛がって重用していたので、天子は徳を跡継ぎとし、侯位を継がせた。徳は後に太常(祭祀を司る長官)となったが、法に触れて死罪に当たり、金で罪を贖って免れ、庶民に落とされた。慶が丞相であった頃、子や孫で役人となって次々と二千石に至った者は十三人いた。しかし慶が死んだ後は、次第に罪を得て職を去り、孝行と慎み深さはますます衰えた。建陵侯衛綰は、代の大陵の人である。綰は戯車(曲芸的な車の操縦)の技で郎となって文帝に仕え、功績の順に昇進して中郎将となった。純朴で慎み深く、ほかに取り柄はなかった。孝景帝が皇太子だった時、文帝の側近たちを招いて酒宴を開いたが、綰は病気と称して行かなかった。文帝は崩御しようとする時、孝景帝に「綰は長者(徳のある人物)である。よく待遇せよ」と言い残した。文帝が崩じて景帝が即位すると、一年余り綰を叱ったり咎めたりすることはなく、綰は日々ますます慎んで勤めに励んだ。景帝が上林苑に行幸したとき、中郎将に命じて同じ車に陪乗させた。帰り道に景帝は尋ねた。「君はなぜ陪乗できたかわかるか」。綰は「わたくしは車士から幸いにも功績の順で中郎将に昇進できただけで、自分ではわかりません」と答えた。景帝はさらに問うた。「わたしが太子だった時に君を招いたのに、君が来ようとしなかったのはなぜか」。綰は「死罪に値しますが、実際に病気でございました」と答えた。景帝は綰に剣を与えた。綰は「先帝がわたくしに下さった剣はすでに六振りございますので、剣はお受けいたしかねます」と言った。景帝は「剣というものは、人が売り払ったり取り替えたりするものだ。今まで全部持っているというのか」と言った。綰は「すべてございます」と答えた。景帝が六振りの剣を持ってこさせると、剣はまだ鞘に収まったままで、一度も身に帯びたことがなかった。配下の郎官に落ち度があると、綰はいつも自分がその罪をかぶり、他の将と争わなかった。功績があれば、いつも他の将に譲った。景帝は綰を清廉で、忠実で裏表がないと考え、河間王の太傅に任じた。呉楚七国の乱が起こると、景帝は綰に詔して将とした。綰は河間の兵を率いて呉楚を攻めて功を立て、中尉(首都警備の長官)に任じられた。
解説
関連する章句
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史記 万石張叔列伝三歳にして、軍功を以て、孝景前六年中に綰を封じて建陵侯と為す。其の明年、上太子を廃し、栗卿の属を誅す。上以為へらく、綰は長者なりと。忍びず、乃ち綰に告帰を賜ひ、而して郅都をして栗氏を治捕せしむ。既已にして、上膠東王を立てて太子と為し、綰を召して、拝して太子太傅と為す。之を久しくして、遷りて御史大夫と為る。五歳にして、桃侯舎に代はりて丞相と為り、朝に事を奏すること職の奏する所の如し。然れども初めて官たりしより以て丞相に至るまで、終に言ふべき無し。天子以て敦厚にして、少主に相たるべしと為し、之を尊寵し、賞賜甚だ多し。丞相と為ること三歳にして、景帝崩じ、武帝立つ。建元年中、丞相景帝の疾の時の諸官の囚多く不辜に坐する者あるを以て、而して君職に任へずとし、之を免ず。其の後綰卒し、子信代はる。酎金に坐して侯を失ふ。
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史記 万石張叔列伝万石君の少子慶太僕と為り、御して出づ。上車中の幾馬なるかを問ふ。慶策を以て馬を数へ畢り、手を挙げて曰く、「六馬」と。慶は諸子の中に於て最も簡易と為すも、然れども猶ほ此の如し。斉の相と為り、斉国を挙げて皆其の家行を慕ひ、言はずして斉国大いに治まり、為に石相祠を立つ。元狩元年、上太子を立て、群臣の傅と為るべき者を選ぶ。慶沛の守より太子太傅と為り、七歳にして遷りて御史大夫と為る。元鼎五年秋、丞相罪有りて罷む。御史に制詔すらく、「万石君は先帝之を尊び、子孫孝なり。其れ御史大夫慶を以て丞相と為し、封じて牧丘侯と為せ」と。是の時漢方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を撃ち、北のかた匈奴を逐ひ、西のかた大宛を伐ち、中国事多し。天子海内を巡狩し、上古の神祠を修め、封禅し、礼楽を興す。公家の用少なく、桑弘羊等利を致し、王温舒の属法を峻しくし、児寛等文学を推して九卿に至り、更々進みて事を用ふ。事丞相に関決せず、丞相は醇謹なるのみ。位に在ること九歳、能く匡言する所有る無し。嘗て上の近臣所忠・九卿咸宣の罪を治めんことを請はんと欲するも、服する能はず、反つて其の過を受け、罪を贖ふ。元封四年中、関東の流民二百万口、名数無き者四十万、公卿議して流民を辺に徙して以て之を適せんことを請はんと欲す。上以為へらく、丞相は老謹にして、其の議に与る能はずと。乃ち丞相に告帰を賜ひ、而して御史大夫以下の議して請ふを為す者を案ず。丞相職に任へざるを慚ぢ、乃ち上書して曰く、「慶幸ひに罪を丞相に待つを得るも、罷駑にして以て治を輔くる無く、城郭倉庫空虚にして、民多く流亡す。罪は斧質に伏すに当たるも、上法を致すに忍びず。願はくは丞相侯の印を帰し、骸骨を乞ひて帰り、賢者の路を避けん」と。
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史記 万石張叔列伝其の官は孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無きも、恭謹なること与に比ぶる無し。文帝の時、東陽侯張相如太子太傅と為り、免ぜらる。傅と為るべき者を選ぶに、皆奮を推し、奮太子太傅と為る。孝景即位するに及び、以て九卿と為す。迫近して之を憚り、奮を徙して諸侯の相と為す。奮の長子は建、次子は甲、次子は乙、次子は慶、皆馴行孝謹を以て、官皆二千石に至る。是に於て景帝曰く、「石君及び四子皆二千石、人臣の尊寵乃ち其の門に集まる」と。奮を号して万石君と為す。孝景帝の季年、万石君は上大夫の禄を以て老を家に帰し、歳時を以て朝臣と為る。宮門の闕を過ぐれば、万石君必ず車を下りて趨り、路馬を見れば必ず式す。子孫小吏と為り、来り帰りて謁すれば、万石君必ず朝服して之に見え、名いはず。子孫過失有れば、譙譲せず、便坐を為し、案に対して食はず。然る後に諸子相責め、長老に因りて肉袒して固く罪を謝し、之を改むれば、乃ち許す。子孫の冠に勝ふる者側に在れば、燕居と雖も必ず冠し、申申如たり。僮僕も訢訢如として、唯謹む。上時に食を家に賜へば、必ず稽首俯伏して之を食ふこと、上の前に在るが如し。其の喪を執るや、哀戚甚だ悼む。子孫教へに遵ひ、亦之の如くす。万石君の家は孝謹を以て郡国に聞こえ、斉魯の諸儒の質行と雖も、皆自ら以て及ばずと為す。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく、儒者は文多く質少なし、今万石君の家は言はずして躬ら行ふと。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。
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史記 魏其武安侯列伝主爵都尉汲黯魏其を是とす。内史鄭当時魏其を是とするも、後に敢へて堅く対へず。余は皆敢へて対ふる莫し。上内史を怒りて曰く、「公平生数々魏其・武安の長短を言ふ。今日廷論するに、局趣して轅下の駒に効ふ。吾並びに若の属を斬らん」と。即ち罷めて起ちて入り、太后に食を上る。太后も亦已に人をして候伺せしめ、具に以て太后に告ぐ。太后怒りて、食はずして、曰く、「今我在るに、人皆吾が弟を藉く。我が百歳の後をして、皆之を魚肉にせしめん。且つ帝寧ぞ能く石人為らんや。此れ特だ帝在ればこそ、即ち録録たり。設し百歳の後ならば、是の属寧ぞ信ずべき者有らんや」と。上謝して曰く、「倶に宗室外家なり。故に之を廷弁せしむ。然らずんば、此れ一獄吏の決する所のみ」と。是の時郎中令石建上の為に別に両人の事を言ふ。武安已に朝を罷め、止車門を出で、韓御史大夫を召して載せ、怒りて曰く、「長孺と共に一老禿翁なり。何為れぞ首鼠両端なる」と。韓御史良久しくして丞相に謂ひて曰く、「君何ぞ自ら喜せざる。夫れ魏其君を毀らば、君当に冠を免ぎ印綬を解きて帰り、『臣肺腑を以て幸ひに罪を待つを得たるも、固より其の任に非ず。魏其の言は皆是なり』と曰ふべし。此の如くんば、上必ず君の譲る有るを多として、君を廃せざらん。魏其必ず内に愧ぢ、門を杜ぢ舌を齰みて自殺せん。今人君を毀り、君も亦人を毀る。譬へば賈豎・女子の言を争ふが如し。何ぞ其の大体無きや」と。武安謝罪して曰く、「争ふ時急にして、此に出づるを知らず」と。是に於て上御史をして魏其の灌夫を言ふ所を簿責せしむるに、頗る讎はず、欺謾なり。劾して都司空に系ぐ。孝景の時、魏其常に遺詔を受く、曰く「事に便ならざる有らば、便宜を以て上に論ぜよ」と。系がるるに及び、灌夫の罪族に至り、事日に急にして、諸公敢へて復た明らかに上に言ふ莫し。魏其乃ち昆弟の子をして上書して之を言はしめ、幸ひに復た召見せらるるを得んとす。書上に奏せらるるも、尚書を案ずるに大行に遺詔無し。
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史記 魏其武安侯列伝武安侯田蚡は、孝景后の同母弟なり。長陵に生まる。魏其已に大将軍と為りし後、方に盛んなり。蚡諸郎為りて、未だ貴からず、往来して魏其に侍酒し、跪起すること子姓の如し。孝景の晩節に及び、蚡益々貴幸せられ、太中大夫と為る。蚡は弁にして口有り、槃盂の諸書を学ぶ。王太后之を賢とす。孝景崩じ、即日太子立ち、制を称す。鎮撫する所多く田蚡の賓客の計筴有り。蚡の弟田勝、皆太后の弟なるを以て、孝景の後三年、蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。武安侯新たに事を用ひて相と為らんと欲し、賓客に卑下し、名士の家居する者を進めて之を貴くし、以て魏其の諸将相を傾けんと欲す。建元元年、丞相綰病みて免ぜらる。上丞相・太尉を置かんことを議す。籍福武安侯に説きて曰く、「魏其貴きこと久し。天下の士素より之に帰す。今将軍初めて興り、未だ魏其に如かず。即し上将軍を以て丞相と為さば、必ず魏其に譲れ。魏其丞相と為らば、将軍必ず太尉と為らん。太尉・丞相は尊きこと等しきのみ。又賢に譲るの名有り」と。武安侯乃ち微かに太后に言ひて上に風せしむ。是に於て乃ち魏其侯を以て丞相と為し、武安侯を太尉と為す。籍福魏其侯を賀し、因りて弔ひて曰く、「君侯の資性は善を喜び悪を疾む。方今善人君侯を誉む。故に丞相に至る。然れども君侯且つ悪を疾む。悪人衆し。亦且に君侯を毀らんとす。君侯能く兼容せば、則ち幸ひに久しからん。能はずんば、今以て毀られて去らん」と。魏其聴かず。魏其・武安倶に儒術を好み、趙綰を推轂して御史大夫と為し、王臧を郎中令と為す。魯の申公を迎へ、明堂を設け、列侯をして国に就かしめ、関を除き、礼を以て服制を為し、以て太平を興さんと欲す。諸竇の宗室の節行毋き者を挙適し、其の属籍を除く。時に諸々の外家列侯と為り、列侯多く公主を尚り、皆国に就くを欲せず。故を以て毀日に竇太后に至る。
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