史記 / 万石張叔列伝
建老白首,萬石君尚無恙。建爲郎中令,毎五日洗沐歸謁親,入子舍,竊問侍者,取親中帬廁牏,身自浣滌,復與侍者,不敢令萬石君知,以爲常。建爲郎中令,事有可言,屛人恣言,極切;至廷見,如不能言者。是以上乃親尊禮之。
新字:建老白首,万石君尚無恙。建為郎中令,毎五日洗沐帰謁親,入子舎,窃問侍者,取親中帬廁牏,身自浣滌,復与侍者,不敢令万石君知,以為常。建為郎中令,事有可言,屛人恣言,極切;至廷見,如不能言者。是以上乃親尊礼之。
書き下し
建老いて白首なるも、万石君尚ほ恙無し。建郎中令と為り、五日毎に洗沐して帰りて親に謁し、子舎に入り、竊かに侍者に問ひ、親の中帬廁牏を取りて、身自ら浣滌し、復た侍者に与へ、敢へて万石君をして知らしめず、以て常と為す。建郎中令と為り、事の言ふべき有れば、人を屏けて恣に言ひ、極めて切なり。廷見するに至りては、言ふ能はざる者の如し。是を以て上乃ち親しく之を尊礼す。
現代語訳
長男の建は年老いて白髪頭になったが、万石君はなお健在であった。建は郎中令となってからも、五日ごとの休暇(洗沐の日)には家に帰って父に挨拶し、自分の部屋に入ると、こっそり召使いに尋ねて、父の下着や便器の類を取り出し、自分の手で洗い清めてから、また召使いに返した。万石君には決して知らせず、これを常のこととしていた。建は郎中令として、進言すべきことがあると、人払いをしたうえで思う存分に言い、きわめて痛切であった。ところが朝廷で公に謁見するときには、まるで物が言えない人のようであった。それゆえ天子(武帝)は自ら親しく建を尊び、礼遇した。
解説
万石君の長男、石建の孝行と仕え方を描いた段です。白髪の老人となり、宮中警護の長官である郎中令の地位にありながら、休暇のたびに父の下着や便器を自分で洗い、しかも父に知られないようにしていました。人に見せるための孝行ではないところに、この家の徹底ぶりが表れています。後半は主君への仕え方です。言うべきことがあれば人払いをして遠慮なく痛切に述べ、公の場では口数少なく控えめにふるまいました。人前で主君の非を責めず、私的な場で率直に諫めるという使い分けが、武帝の信頼と礼遇を生みました。組織で上司に異論を伝えるときも、会議の場で面子をつぶすより、一対一で率直に話すほうが受け入れられやすいものです。建の姿は、率直さと配慮は両立するということを教えてくれます。
関連する章句
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史記 万石張叔列伝万石君は元朔五年中を以て卒す。長子郎中令建哭泣哀思し、杖に扶けられて乃ち能く行く。歳余にして、建も亦死す。諸子孫咸孝なるも、然れども建最も甚だしく、万石君より甚だし。
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史記 万石張叔列伝其の官は孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無きも、恭謹なること与に比ぶる無し。文帝の時、東陽侯張相如太子太傅と為り、免ぜらる。傅と為るべき者を選ぶに、皆奮を推し、奮太子太傅と為る。孝景即位するに及び、以て九卿と為す。迫近して之を憚り、奮を徙して諸侯の相と為す。奮の長子は建、次子は甲、次子は乙、次子は慶、皆馴行孝謹を以て、官皆二千石に至る。是に於て景帝曰く、「石君及び四子皆二千石、人臣の尊寵乃ち其の門に集まる」と。奮を号して万石君と為す。孝景帝の季年、万石君は上大夫の禄を以て老を家に帰し、歳時を以て朝臣と為る。宮門の闕を過ぐれば、万石君必ず車を下りて趨り、路馬を見れば必ず式す。子孫小吏と為り、来り帰りて謁すれば、万石君必ず朝服して之に見え、名いはず。子孫過失有れば、譙譲せず、便坐を為し、案に対して食はず。然る後に諸子相責め、長老に因りて肉袒して固く罪を謝し、之を改むれば、乃ち許す。子孫の冠に勝ふる者側に在れば、燕居と雖も必ず冠し、申申如たり。僮僕も訢訢如として、唯謹む。上時に食を家に賜へば、必ず稽首俯伏して之を食ふこと、上の前に在るが如し。其の喪を執るや、哀戚甚だ悼む。子孫教へに遵ひ、亦之の如くす。万石君の家は孝謹を以て郡国に聞こえ、斉魯の諸儒の質行と雖も、皆自ら以て及ばずと為す。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく、儒者は文多く質少なし、今万石君の家は言はずして躬ら行ふと。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。
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史記 万石張叔列伝萬石君徙りて陵裏に居る。内史慶酔ひて帰り、外門に入るに車を下らず。萬石君之を聞き、食らはず。慶恐れ、肉袒して罪を請ふも、許さず。宗を挙げて及び兄建肉袒するに、萬石君譲めて曰く、「内史は貴人なり、閭里に入るに、里中の長老皆走り匿るるに、而れども内史車中に坐して自如たり、固より当れり」と。乃ち謝して慶を罷めしむ。慶及び諸子弟里門に入るに、趨りて家に至る。
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史記 万石張叔列伝建郎中令為り、書して事を奏す、事下るに、建之を読みて曰く、「誤書せり。馬なる者は尾と与に当に五なるべきに、今乃ち四、一を足らず。上譴めなば死せん」と。甚だ惶恐す。其の謹慎為ること、他と雖も皆是くのごとし。
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史記 万石張叔列伝万石君、名は奮、其の父は趙の人なり、姓は石氏。趙亡び、徙りて温に居る。高祖東のかた項籍を撃ち、河内を過ぐ。時に奮は年十五、小吏と為り、高祖に侍す。高祖与に語り、其の恭敬を愛し、問ひて曰く、「若(なんぢ)何か有る」と。対へて曰く、「奮は独り母有り、不幸にして明を失ふ。家貧し。姊有り、能く琴を鼓す」と。高祖曰く、「若能く我に従はんか」と。曰く、「願はくは力を尽くさん」と。是に於て高祖其の姊を召して美人と為し、奮を以て中涓と為し、書謁を受けしめ、其の家を長安の中の戚里に徙す。姊の美人為るを以ての故なり。
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史記 万石張叔列伝御史大夫張叔は、名は欧、安丘侯説の庶子なり。孝文の時、刑名を治むるを以て太子に言事す。然れども欧は刑名家を治むと雖も、其の人は長者なり。景帝の時尊重せられ、常に九卿為り。武帝の元朔四年に至り、韓安国免ぜられ、詔して欧を拝して御史大夫と為す。欧の吏と為りしより、未だ嘗て人を案ずるを言はず、専ら誠長者を以て官に処る。官属以て長者と為し、亦敢へて大いに欺かず。上獄事を具ふるに、卻くべき有れば、之を卻け、不可なる者は、已むを得ず、為に涕泣し面対して之を封ず。其の人を愛すること此の如し。老いて病篤く、免ぜられんことを請ふ。是に於て天子も亦策して罷め、上大夫の禄を以て老を家に帰す。陽陵に家す。子孫咸大官に至る。太史公曰く、仲尼言へる有りて曰く、「君子は言に訥にして行ひに敏ならんと欲す」と。其れ万石・建陵・張叔の謂か。是を以て其の教へ粛ならずして成り、厳ならずして治まる。塞侯は微巧にして、周文は讇に処りて君子之を譏る。其の佞に近きが為なり。然れども斯れ篤行の君子と謂ふべし。
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