講孟余話 / 公孫丑下 第五章
辞靈丘、而請士師、靈丘ハ下邑ナリ、其大夫ハ今ノ代官ノ類ニシテ、而モ常ニ治所ニ居ル、故ニ都城ニ遠クシテ、数々得失ヲ上言スルコトヲ得ズ、故ニ士師ヲ請フ、士師ハ都城ノ官ナレハ、上言モ心ノ儘ナルヲ以テ也、漢ノ武帝元狩五年、初テ諫大夫ヲ置ク、是ヨリ以前ハ諫官ト云者ナキ故ニ諸官皆上言スルコトヲ得シナリ、註ニ士師近王、得以諫刑罰之不中者ト云、然レトモ士師ノ言フコトヲ得ル、恐クハ刑罰ヲ諫ムルニ止ラサルベシ、
新字:辞霊丘、而請士師、霊丘ハ下邑ナリ、其大夫ハ今ノ代官ノ類ニシテ、而モ常ニ治所ニ居ル、故ニ都城ニ遠クシテ、数々得失ヲ上言スルコトヲ得ズ、故ニ士師ヲ請フ、士師ハ都城ノ官ナレハ、上言モ心ノ儘ナルヲ以テ也、漢ノ武帝元狩五年、初テ諫大夫ヲ置ク、是ヨリ以前ハ諫官ト云者ナキ故ニ諸官皆上言スルコトヲ得シナリ、註ニ士師近王、得以諫刑罰之不中者ト云、然レトモ士師ノ言フコトヲ得ル、恐クハ刑罰ヲ諫ムルニ止ラサルベシ、
書き下し
「霊丘を辞して士師を請ふ」。霊丘は下邑なり、其の大夫は今の代官の類にして、而も常に治所に居る。故に都城に遠くして、数々得失を上言することを得ず。故に士師を請ふ。士師は都城の官なれば、上言も心の儘なるを以てなり。漢の武帝元狩五年、初めて諫大夫を置く。是れより以前は諫官と云ふ者なき故に、諸官皆上言することを得しなり。註に「士師は王に近く、以て刑罰の中らざる者を諫むることを得」と云ふ。然れども士師の言ふことを得る、恐らくは刑罰を諫むるに止まらざるべし。
現代語訳
「霊丘の長官を辞めて、士師(司法官)の職を願い出た」。霊丘は地方の町であり、その大夫はいまの代官のようなもので、しかもいつも任地にいる。そのため都から遠く、たびたび政治の得失を王に申し上げることができない。だから士師の職を願ったのである。士師は都の役人なので、思うままに申し上げることができるからである。漢の武帝の元狩五年に、はじめて諫大夫が置かれた。それより前は諫官というものがなかったので、役人はみな王に意見を申し上げることができたのである。朱子の注には「士師は王に近く、刑罰が当を得ていないことを諫めることができる」とある。しかし士師が言えることは、おそらく刑罰を諫めることだけにとどまらなかったであろう。
解説
この章句が説くこと
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史記 万石張叔列伝建老いて白首なるも、万石君尚ほ恙無し。建郎中令と為り、五日毎に洗沐して帰りて親に謁し、子舎に入り、竊かに侍者に問ひ、親の中帬廁牏を取りて、身自ら浣滌し、復た侍者に与へ、敢へて万石君をして知らしめず、以て常と為す。建郎中令と為り、事の言ふべき有れば、人を屏けて恣に言ひ、極めて切なり。廷見するに至りては、言ふ能はざる者の如し。是を以て上乃ち親しく之を尊礼す。
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