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史記 / 万石張叔列伝

萬石君名奮、其父趙人也、姓石氏。高祖東撃項籍、過河内、時奮年十五、為小吏、侍高祖。高祖与語、愛其恭敬。其官至孝文時、積功労至大中大夫。無文学、恭謹無与比。建元二年、郎中令王臧以文学獲罪。皇太后以為儒者文多質少、今萬石君家不言而躬行、乃以長子建為郎中令、少子慶為内史。

新字:万石君名奮、其父趙人也、姓石氏。高祖東撃項籍、過河内、時奮年十五、為小吏、侍高祖。高祖与語、愛其恭敬。其官至孝文時、積功労至大中大夫。無文学、恭謹無与比。建元二年、郎中令王臧以文学獲罪。皇太后以為儒者文多質少、今万石君家不言而躬行、乃以長子建為郎中令、少子慶為内史。

書き下し

萬石君名は奮、其の父趙人なり、姓は石氏。高祖東のかた項籍を撃ち、河内を過ぐ、時に奮年十五、小吏と為り、高祖に侍す。高祖与に語り、其の恭敬を愛す。其の官孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無く、恭謹なること与に比ぶもの無し。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく儒者は文多く質少なし、今萬石君の家は言はずして躬行す、と。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。

現代語訳

萬石君は名を奮といい、その父は趙の人で、姓は石氏である。高祖が東へ項籍を攻めて河内を通ったとき、奮は十五歳、小役人として高祖に仕えた。高祖は彼と語り、その恭しさを気に入った。その官は孝文帝の時代に至り、功労を積んで大中大夫となった。学問はなかったが、恭しく慎み深いことでは並ぶ者がなかった。建元二年、郎中令の王臧が学問のことで罪を得た。皇太后は、儒者というものは飾りが多く実質が少ない、今、萬石君の家は口では説かずに自ら実行している、と考えた。そこで長子の建を郎中令とし、末子の慶を内史とした。

解説

「言葉ではなく、日々の行いそのものによって価値観を体現し、周囲を導く」——学識ではなく、恭謹(うやうやしく慎み深い)の一点で重んじられた石奮とその一族を描いた、この篇の冒頭です。万石君・石奮は、十五歳で高祖(劉邦)に仕えた小役人でした。彼には特別な学識も弁舌もありません。ただ、その態度が並ぶ者なく恭しく慎み深い(恭謹無与比)ことで、高祖に愛され、着実に功を積んで高位に上りました。後に、学識を売り物にした儒者・王臧が罪を得たとき、皇太后はこう考えます。「儒者は言葉ばかり多くて実質が乏しい。それに対し、万石君の一家は、言葉で説くのではなく、身をもって行っている(不言而躬行)」と。そして、その実直な家風を模範として、石奮の息子たちを要職に登用したのです。ここに、価値観を体現することについての教訓があります。第一に、立派な言葉や理屈を語ることよりも、日々の行いそのものによって価値観を体現することが、人を動かすということ。「不言而躬行」——石奮の一家が重んじられたのは、彼らが理念を口で説いたからではなく、それを黙々と実践していたからでした。第二に、リーダーや模範となる者の価値は、弁舌や知識の量ではなく、その振る舞いの一貫性にあるということ。恭謹という態度を、地位が上がっても崩さなかったからこそ、石奮は信頼された。第三に、組織の文化は、掲げた標語ではなく、上に立つ者が実際にどう振る舞うかによって形づくられるということ。皇太后は、口先の儒者でなく、躬行する一家を選んだ。組織づくりで、理念を言葉で語るより行いで体現すること、振る舞いの一貫性こそが信頼を生むと知ること、そして文化は標語でなく上の者の実践から育つと理解すること——万石君の家風は、価値観を体現するリーダーシップの原点を教えます。

この章句が説くこと

万石君石奮不言而躬行価値観を行いで体現恭謹言葉より実践振る舞いの一貫性

この一句を、あなたの毎日に。

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