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史記 / 張釈之馮唐列伝

後文帝崩,景帝立,釋之恐,稱病。欲免去,懼大誅至;欲見謝,則未知何如。用王生計,卒見謝,景帝不過也。王生者,善爲黃老言,處士也。嘗召居廷中,三公九卿盡會立,王生老人,曰「吾韤解」,顧謂張廷尉:「爲我結韤!」釋之跪而結之。既已,人或謂王生曰:「獨柰何廷辱張廷尉,使跪結韤?」王生曰:「吾老且賤,自度終無益於張廷尉。張廷尉方今天下名臣,吾故聊辱廷尉,使跪結韤,欲以重之。」諸公聞之,賢王生而重張廷尉。張廷尉事景帝歳餘,爲淮南王相,猶尚以前過也。久之,釋之卒。其子曰張摯,字長公,官至大夫,免。以不能取容當世,故終身不仕。馮唐者,其大父趙人。父徙代。漢興徙安陵。唐以孝著,爲中郎署長,事文帝。文帝輦過,問唐曰:「父老何自爲郎?家安在?」唐具以實對。文帝曰:「吾居代時,吾尚食監高袪數爲我言趙將李齊之賢,戰於鉅鹿下。今吾每飯,意未嘗不在鉅鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之爲將也。」上曰:「何以?」唐曰:「臣大父在趙時,爲官率將,善李牧。臣父故爲代相,善趙將李齊,知其爲人也。」上既聞廉頗、李牧爲人,良説,而搏髀曰:「嗟乎!

新字:後文帝崩,景帝立,釈之恐,称病。欲免去,懼大誅至;欲見謝,則未知何如。用王生計,卒見謝,景帝不過也。王生者,善為黄老言,処士也。嘗召居廷中,三公九卿尽会立,王生老人,曰「吾韤解」,顧謂張廷尉:「為我結韤!」釈之跪而結之。既已,人或謂王生曰:「独柰何廷辱張廷尉,使跪結韤?」王生曰:「吾老且賤,自度終無益於張廷尉。張廷尉方今天下名臣,吾故聊辱廷尉,使跪結韤,欲以重之。」諸公聞之,賢王生而重張廷尉。張廷尉事景帝歳余,為淮南王相,猶尚以前過也。久之,釈之卒。其子曰張摯,字長公,官至大夫,免。以不能取容当世,故終身不仕。馮唐者,其大父趙人。父徙代。漢興徙安陵。唐以孝著,為中郎署長,事文帝。文帝輦過,問唐曰:「父老何自為郎?家安在?」唐具以実対。文帝曰:「吾居代時,吾尚食監高袪数為我言趙将李斉之賢,戦於鉅鹿下。今吾毎飯,意未嘗不在鉅鹿也。父知之乎?」唐対曰:「尚不如廉頗、李牧之為将也。」上曰:「何以?」唐曰:「臣大父在趙時,為官率将,善李牧。臣父故為代相,善趙将李斉,知其為人也。」上既聞廉頗、李牧為人,良説,而搏髀曰:「嗟乎!

書き下し

後、文帝崩じ、景帝立つ。釈之恐れて、病と称す。免じて去らんと欲すれば、大誅の至らんことを懼る。見えて謝せんと欲すれば、則ち未だ何如を知らず。王生の計を用ひ、卒に見えて謝す。景帝過(とが)めざるなり。王生は、善く黄老の言を為す処士なり。嘗て召されて廷中に居る。三公九卿尽く会して立つ。王生は老人なり。曰く「吾が韤(べつ)解けたり」と。顧みて張廷尉に謂ふ、「我が為に韤を結べ」と。釈之跪きて之を結ぶ。既に已みて、人或ひと王生に謂ひて曰く、「独り柰何ぞ廷に張廷尉を辱め、跪きて韤を結ばしむるや」と。王生曰く、「吾は老いて且つ賤し。自ら度るに終に張廷尉に益無し。張廷尉は方今天下の名臣なり。吾故に聊か廷尉を辱め、跪きて韤を結ばしめ、以て之を重くせんと欲す」と。諸公之を聞き、王生を賢として張廷尉を重んず。張廷尉、景帝に事ふること歳余、淮南王の相と為る。猶尚ほ前の過ちを以てなり。之を久しくして、釈之卒す。其の子を張摯と曰ひ、字は長公、官は大夫に至り、免ぜらる。当世に容るるを取ること能はざるを以て、故に終身仕へず。馮唐は、其の大父は趙の人なり。父、代に徙る。漢興りて安陵に徙る。唐は孝を以て著はれ、中郎署長と為り、文帝に事ふ。文帝輦にて過ぎり、唐に問ひて曰く、「父老何よりして郎と為れる。家は安くに在る」と。唐具に実を以て対ふ。文帝曰く、「吾代に居りし時、吾が尚食監高袪、数(しばしば)我が為に趙将李斉の賢にして、鉅鹿の下に戦ひしことを言ふ。今吾飯する毎に、意未だ嘗て鉅鹿に在らずんばあらず。父之を知るか」と。唐対へて曰く、「尚ほ廉頗・李牧の将為るに如かざるなり」と。上曰く、「何を以てか」と。唐曰く、「臣の大父趙に在りし時、官率将と為り、李牧に善し。臣の父故(もと)代の相と為り、趙将李斉に善し。其の人と為りを知るなり」と。上既に廉頗・李牧の人と為りを聞き、良(まこと)に説(よろこ)び、而して髀を搏ちて曰く、「嗟乎、

現代語訳

のちに文帝が崩じて景帝が即位すると、張釈之は恐れて病気と称した。辞職して去ろうとすれば、重い処罰が下るのではないかと恐れ、拝謁して謝罪しようにも、どうなるか分からなかった。(かつて太子だった景帝を司馬門で弾劾したことがあったからである。)王生の計略を用いて、ついに拝謁して謝罪したところ、景帝はとがめなかった。王生とは、黄老の説(黄帝・老子の道家思想)をよく説く、仕官しない在野の人であった。あるとき召されて朝廷にいたとき、三公・九卿が皆そろって立っていた。王生は老人であったが、「わしの足袋のひもがほどけた」と言い、振り返って張廷尉に「わしのために足袋のひもを結べ」と言った。張釈之はひざまずいてこれを結んだ。事が済んでから、ある人が王生に言った。「どうして朝廷でわざわざ張廷尉を辱め、ひざまずいて足袋のひもを結ばせたのか」。王生は言った。「わしは年老いて身分も低い。考えてみても、張廷尉に何一つ役立つことはできない。張廷尉は今や天下の名臣だ。だからわしはわざと少しばかり廷尉を辱めて、ひざまずいて足袋のひもを結ばせ、それによって彼の声望を重くしてやろうとしたのだ」。諸公はこれを聞き、王生を賢者とし、張廷尉をいっそう重んじた。張廷尉は景帝に一年余り仕えたのち、淮南王の相に出された。やはり以前の過ち(太子を弾劾したこと)のためであった。しばらくして、張釈之は死んだ。その子を張摯といい、字は長公で、官は大夫に至ったが、免ぜられた。世におもねって受け入れられることができなかったので、生涯仕官しなかった。馮唐は、祖父が趙の人であった。父は代に移り住み、漢が興ると安陵に移った。馮唐は孝行で知られ、中郎署長となって文帝に仕えた。文帝が輦(手押しの車)で通りかかったとき、馮唐に尋ねた。「ご老人はどういう経緯で郎になったのか。家はどこにあるのか」。馮唐はありのままに答えた。文帝は言った。「わしが代にいたころ、尚食監(食膳係の長)の高袪が、しばしば趙の将軍李斉が賢明で、鉅鹿のふもとで戦ったことを話してくれた。今でもわしは食事のたびに、心が鉅鹿に向かわないことはない。ご老人はそのことを知っているか」。馮唐は答えた。「李斉はやはり廉頗や李牧の将としての器には及ばない」。帝が「なぜか」と問うと、馮唐は言った。「わたくしの祖父は趙にいたとき、官率将(部隊を率いる将)で、李牧と親しかった。わたくしの父はもと代の相で、趙の将軍李斉と親しかった。それでその人柄を知っているのだ」。帝は廉頗・李牧の人柄を聞くと、心から喜び、股を打って言った。「ああ、

解説

張釈之の晩年と、馮唐の登場をつなぐ段です。かつて皇太子を弾劾した張釈之は、その皇太子が景帝として即位すると処罰を恐れます。そこで効いたのが、道家の隠者王生の一計でした。満座の中で名臣張釈之に自分の足袋のひもを結ばせ、あえて辱めることで、老人を敬う謙虚な名臣だという評判を高めたのです。景帝はとがめませんでしたが、結局は地方の相に出されており、恨みは完全には消えませんでした。後半は馮唐の話に移り、文帝が名将李斉を懐かしむのに対し、馮唐は祖父と父の見聞をもとに廉頗・李牧こそ上だと答えます。頭を下げることがかえって人の評価を高めること、そして直言には家伝の確かな根拠が伴っていることが読み取れます。

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