史記 / 袁盎鼂錯列伝
然後刺君者十餘曹,備之!」袁盎心不樂,家又多怪,乃之棓生所問占。還,梁刺客後曹輩果遮刺殺盎安陵郭門外。鼂錯者,潁川人也。學申商刑名於軹張恢先所,與雒陽宋孟及劉禮同師。以文學為太常掌故。錯為人陗直刻深。孝文帝時,天下無治尚書者,獨聞濟南伏生故秦博士,治尚書,年九十餘,老不可徵,乃詔太常使人往受之。太常遣錯受尚書伏生所。還,因上便宜事,以書稱說。詔以為太子舍人、門大夫、家令。
新字:然後刺君者十余曹,備之!」袁盎心不楽,家又多怪,乃之棓生所問占。還,梁刺客後曹輩果遮刺殺盎安陵郭門外。鼂錯者,潁川人也。学申商刑名於軹張恢先所,与雒陽宋孟及劉礼同師。以文学為太常掌故。錯為人陗直刻深。孝文帝時,天下無治尚書者,独聞済南伏生故秦博士,治尚書,年九十余,老不可徴,乃詔太常使人往受之。太常遣錯受尚書伏生所。還,因上便宜事,以書称説。詔以為太子舎人、門大夫、家令。
書き下し
然れども後に君を刺す者十余曹あり、之に備へよ」と。袁盎心楽しまず、家又怪多し。乃ち棓生(ほうせい)の所に之きて占を問ふ。還るに、梁の刺客の後曹の輩果して遮りて盎を安陵の郭門の外に刺殺す。鼂錯は潁川の人なり。申商の刑名を軹の張恢先の所に学び、雒陽の宋孟及び劉礼と師を同じくす。文学を以て太常の掌故と為る。錯は人と為り陗直刻深なり。孝文帝の時、天下に尚書を治むる者無く、独り済南の伏生は故の秦の博士にして、尚書を治むと聞く。年九十余、老いて徴すべからず。乃ち太常に詔して人をして往きて之を受けしむ。太常錯を遣はして尚書を伏生の所に受けしむ。還りて、因りて便宜の事を上り、書を以て称説す。詔して以て太子舎人・門大夫・家令と為す。
現代語訳
けれども、このあとにもあなたを狙う刺客が十組余りいる。備えられよ。」袁盎は心が晴れず、家ではまた怪しいことが多く起こった。そこで棓生という占い師のもとへ行って占ってもらった。その帰り道、梁の刺客の後続の一団が、果たして待ち伏せして、安陵の外城の門の外で袁盎を刺し殺した。鼂錯は潁川の人である。申不害・商鞅の刑名の学(法家の学問)を軹県の張恢先生のもとで学び、雒陽の宋孟や劉礼と同門であった。学問によって太常の掌故(礼制の記録を扱う属官)となった。鼂錯は人柄が厳しくまっすぐで、情け容赦がなかった。孝文帝の時、天下に『尚書』を修める者がいなかったが、済南の伏生だけは、もと秦の博士で『尚書』を修めていると聞こえた。しかし年は九十余りで、老いていて召し出すことはできなかった。そこで太常に詔を下し、人を遣わして伏生のもとで学ばせることにした。太常は鼂錯を派遣して、伏生のもとで『尚書』を授からせた。鼂錯は帰ると、それを機に時宜にかなった政策を上奏し、『尚書』を引いて論じた。詔によって太子舎人・門大夫・家令(皇太子付きの官)に任じられた。
解説
関連する章句
-
史記 袁盎鼂錯列伝其の弁を以て太子に幸を得、太子の家号して「智嚢」と曰ふ。数(しばしば)孝文の時に上書し、諸侯を削る事、及び法令の更定すべき者を言ふ。書数十たび上るも、孝文聴かず、然れども其の材を奇とし、遷して中大夫と為す。是の時に当たり、太子錯の計策を善しとし、袁盎・諸大功臣多く錯を好まず。景帝即位し、錯を以て内史と為す。錯常に数(しばしば)閒を請ひて事を言ひ、輒ち聴かれ、寵幸九卿を傾け、法令多く更定する所あり。丞相申屠嘉心に便とせず、力未だ以て傷つくる有らず。内史の府は太上廟の壖(ぜん)中に居り、門東に出で、便ならず。錯乃ち両門を穿ちて南に出だし、廟の壖垣を鑿つ。丞相嘉聞き、大いに怒り、此の過ちに因りて奏請して錯を誅せんと欲す。錯之を聞き、即ち夜閒を請ひ、具さに上の為に之を言ふ。丞相事を奏し、因りて錯擅に廟垣を鑿ちて門と為す、廷尉に下して誅せんことを請ふと言ふ。上曰く、「此れ廟垣に非ず、乃ち壖中の垣なり、法に致さず」と。丞相謝す。朝を罷め、怒りて長史に謂ひて曰く、「吾当に先づ斬りて以て聞すべきに、乃ち先づ請ひ、児の売る所と為る、固より誤れり」と。丞相遂に病を発して死す。錯此を以て愈(いよい)よ貴し。遷りて御史大夫と為り、諸侯の罪過を請ひ、其の地を削り、其の枝郡を収めんとす。奏上し、上公卿列侯宗室をして集議せしむ。敢へて難ずる莫く、独り竇嬰之を争ふ。此に由りて錯と卻(げき)有り。錯の更むる所の令三十章、諸侯皆諠譁して鼂錯を疾む。錯の父之を聞き、潁川より来たり、錯に謂ひて曰く、「上初めて即位し、公政を為して事を用ひ、諸侯を侵削し、人の骨肉を別疏す。人口議して多く公を怨む者は、何ぞや」と。鼂錯曰く、「固よりなり。此の如くならずんば、天子尊からず、宗廟安からず」と。錯の父曰く、「劉氏は安けれども、鼂氏は危ふし。吾公を去りて帰らん」と。遂に薬を飲みて死し、曰く、「吾禍の吾が身に及ぶを見るに忍びず」と。
-
史記 袁盎鼂錯列伝盎素より鼂錯(ちょうそ)を好まず。鼂錯の居坐する所、盎去り、盎坐すれば、錯も亦去る。両人未だ嘗て堂を同じくして語らず。孝文帝崩じ、孝景帝即位するに及び、鼂錯御史大夫と為り、吏をして袁盎の呉王の財物を受くるを案ぜしめ、罪に抵(あ)て、詔して赦して以て庶人と為す。呉楚反す。聞こゆるや、鼂錯丞史に謂ひて曰く、「夫れ袁盎多く呉王の金銭を受け、専ら為に蔽匿し、反せずと言ふ。今果して反す、請ひて盎を治めんと欲す、宜しく計謀を知るべし」と。丞史曰く、「事未だ発せざるに、之を治むれば絶つこと有り。今兵西に郷かふ、之を治むるも何の益かあらん。且つ袁盎宜しく謀有るべからず」と。鼂錯猶与して未だ決せず。人袁盎に告ぐる者有り。袁盎恐れ、夜竇嬰に見え、為に呉の反する所以の者を言ひ、上の前に至りて口づから状を対へんと願ふ。竇嬰入りて上に言ひ、上乃ち袁盎を召して入れ見ゆ。鼂錯前に在り。盎の人を辟け閒を賜はんことを請ふに及び、錯去り、固より恨むこと甚だし。袁盎具さに呉の反する所以の状を言ひ、錯の故を以てなれば、独り急ぎ錯を斬りて以て呉に謝せば、呉の兵乃ち罷むべしとす。其の語具さに呉の事の中に在り。袁盎をして太常と為し、竇嬰を大将軍と為す。両人素より相与に善し。呉の反するに逮(およ)び、諸陵の長者、長安中の賢大夫争ひて両人に附き、車の随ふ者日に数百乗。鼂錯已に誅せらるるに及び、袁盎太常を以て呉に使ひす。呉王将と為さんと欲するも、肯へてせず。之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を軍中に囲守せしむ。袁盎其の呉の相たりし時より、(嘗)従史の嘗て盎の侍児を盗愛する有り。盎之を知るも、泄らさず、之を遇すること故の如し。人従史に告ぐる有り、「君爾の侍者と通ずるを知る」と言ふ。乃ち亡げ帰る。袁盎駆りて自ら之を追ひ、遂に侍者を以て之に賜ひ、復た従史と為す。
-
史記 袁盎鼂錯列伝死すること十余日、呉楚七国果して反し、錯を誅するを以て名と為す。竇嬰・袁盎の進説するに及び、上鼂錯をして朝衣を衣て東市に斬らしむ。鼂錯已に死し、謁者僕射鄧公校尉と為り、呉楚の軍を撃ちて将と為る。還りて、上書して軍事を言ひ、上に謁見す。上問ひて曰く、「軍の来たる所より道(い)へ、鼂錯の死を聞きて、呉楚罷むや不や」と。鄧公曰く、「呉王反を為すこと数十年なり。地を削らるるに怒りを発し、錯を誅するを以て名と為す。其の意錯に在るに非ざるなり。且つ臣恐らくは天下の士口を噤みて、敢へて復た言はざらんことを」と。上曰く、「何ぞや」と。鄧公曰く、「夫れ鼂錯は諸侯の彊大にして制すべからざるを患ふ、故に地を削りて以て京師を尊ばんことを請ふ、万世の利なり。計画始めて行はれ、卒に大戮を受く。内は忠臣の口を杜ぎ、外は諸侯の為に仇に報ゆ。臣窃かに陛下の為に取らざるなり」と。是に於て景帝黙然たること良久しくして、曰く、「公の言善し、吾も亦之を恨む」と。乃ち鄧公を拝して城陽の中尉と為す。鄧公は成固の人なり、奇計多し。建元中、上賢良を招き、公卿鄧公を言ふ。時に鄧公免ぜらる、家より起ちて九卿と為る。一年にして、復た病を謝して免じて帰る。其の子章、黄老の言を修むるを以て諸公の間に顕る。太史公曰く、袁盎は学を好まずと雖も、亦善く傅会し、仁心を質と為し、義を引きて慨す。孝文の初めて立つに遭ひ、資適(たまたま)世に逢ふ。時以て変易し、呉楚に及びて一たび説く。説行はると雖も、然れども復た遂げず。声を好み賢に矜り、竟に名を以て敗る。鼂錯は家令たりし時、数(しばしば)事を言ひて用ひられず。後に権を擅にし、変更する所多し。諸侯難を発するに、急ぎ匡救せず、私讎に報いんと欲して、反りて以て軀を亡ぼす。語に曰く「古を変じ常を乱せば、死せずんば則ち亡ぶ」と。豈に錯等の謂か。
-
史記 袁盎鼂錯列伝袁盎の呉に使ひして守らるるに及び、従史適(たまたま)盎を守る校尉司馬と為る。乃ち悉く其の装齎を以て二石の醇醪を置ふ。会(たまたま)天寒く、士卒飢渇し、酒を飲みて酔ひ、西南の陬の卒皆臥す。司馬夜袁盎を引きて起たしめて曰く、「君以て去るべし、呉王旦日君を斬らんと期す」と。盎信ぜず、曰く、「公は何為る者ぞ」と。司馬曰く、「臣は故の従史にして君の侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち驚き謝して曰く、「公幸ひに親有り、吾以て公を累はすに足らず」と。司馬曰く、「君弟(ただ)去れ、臣も亦且に亡げて、吾が親を辟けんとす、君何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て張(とばり)を決し、道して酔卒の隧より直ちに出づ。司馬与に分かれて背く。袁盎節の毛を解きて之を懐にし、杖つきて、歩行すること七八里、明けて、梁の騎を見る。騎馳せ去り、遂に帰りて報ず。呉楚已に破れ、上更めて元王の子平陸侯礼を以て楚王と為し、袁盎を楚の相と為す。嘗て上書して言ふ所有るも、用ひられず。袁盎病みて免ぜられ家に居り、閭里と浮沈し、相随ひて行き、鶏を闘はせ狗を走らす。雒陽の劇孟嘗て袁盎に過る、盎善く之を待す。安陵の富人に盎に謂ふ者有りて曰く、「吾聞く劇孟は博徒なりと、将軍何ぞ自ら之に通ずる」と。盎曰く、「劇孟は博徒なりと雖も、然れども母死して、客の葬を送る車千余乗、此れ亦人に過ぐる者有り。且つ緩急は人の有る所なり。夫れ一旦急有りて門を叩かば、親を以て解と為さず、存亡を以て辞と為さず、天下の望む所の者は、独り季心・劇孟のみ。今公常に数騎を従ふるも、一旦緩急有らば、寧んぞ恃むに足らんや」と。富人を罵り、与に通ぜず。諸公之を聞き、皆袁盎を多とす。袁盎家居すと雖も、景帝時時人をして籌策を問はしむ。梁王嗣と為らんことを求めんと欲す。袁盎進みて説き、其の後語塞がる。梁王此を以て盎を怨み、曾て人をして盎を刺さしむ。刺す者関中に至り、袁盎を問ふに、諸君之を誉めて皆口を容れず。乃ち袁盎に見えて曰く、「臣梁王の金を受けて来たりて君を刺さんとす。君は長者なり、君を刺すに忍びず。
-
史記 袁盎鼂錯列伝袁盎(えんおう)は楚人なり、字は絲。父は故(もと)群盗たり、徙りて安陵に処る。高后の時、盎嘗て呂禄の舎人と為る。孝文帝即位するに及び、盎の兄噲、盎を任じて中郎と為す。
-
史記 儒林列伝是より後、斉の詩を言ふは皆轅固生に本づくなり。諸々の斉人の詩を以て顕貴なる者は、皆固の弟子なり。韓生は、燕人なり。孝文帝の時博士と為り、景帝の時常山王の太傅と為る。韓生詩の意を推して内外伝数万言を為る、其の語頗る斉魯の間と殊なり、然れども其の帰は一なり。淮南の賁生之を受く。是より後、燕趙の間の詩を言ふ者は韓生に由る。韓生の孫商今上の博士と為る。伏生は、済南の人なり。故の秦の博士為り。孝文帝の時、能く尚書を治むる者を求めんと欲するも、天下に有る無し、乃ち伏生の能く治むるを聞き、之を召さんと欲す。是の時伏生年九十余、老いて、行くこと能はず、是に於て乃ち太常に詔して掌故晁錯をして往きて之を受けしむ。秦の時書を焚く、伏生壁に之を蔵す。其の後兵大いに起こり、流亡す、漢定まり、伏生其の書を求むるに、数十篇を亡ひ、独り二十九篇を得、即ち以て斉魯の間に教ふ。学者是に由りて頗る能く尚書を言ひ、諸々の山東の大師尚書に渉りて以て教へざる無し。伏生済南の張生及び欧陽生に教へ、欧陽生千乗の兒寛に教ふ。兒寛既に尚書に通じ、文学を以て郡の挙に応じ、博士に詣りて業を受く、業を孔安国に受く。兒寛貧しくして資用無し、常に弟子の為に都養し、及び時時間行して傭賃し、以て衣食に給す。行くに常に経を帯び、止息すれば則ち之を誦習す。試みの第次を以て、廷尉史に補せらる。是の時張湯方に学に郷ひ、以て奏讞の掾と為し、古法を以て疑はしき大獄を議決せしめ、而して寛を愛幸す。寛人と為り温良にして、廉智有り、自ら持し、而して善く書を著し、書奏し、文に敏きも、口発明すること能はざるなり。湯以て長者と為し、数々之を称誉す。湯御史大夫と為るに及び、兒寛を以て掾と為し、之を天子に薦む。天子見て問ひ、之を説ぶ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る