史記 / 袁盎鼂錯列伝
及袁盎使吳見守,從史適為守盎校尉司馬,乃悉以其裝齎置二石醇醪,會天寒,士卒饑渴,飲酒醉,西南陬卒皆臥,司馬夜引袁盎起,曰:「君可以去矣,吳王期旦日斬君。」盎弗信,曰:「公何為者?」司馬曰:「臣故為從史盜君侍兒者。」盎乃驚謝曰;「公幸有親,吾不足以累公。」司馬曰:「君弟去,臣亦且亡,辟吾親,君何患!」乃以刀決張,道從醉卒隧直出。司馬與分背,袁盎解節毛懷之,杖,步行七八里,明,見梁騎,騎馳去,遂歸報。吳楚已破,上更以元王子平陸侯禮為楚王,袁盎為楚相。嘗上書有所言,不用。袁盎病免居家,與閭里浮沈,相隨行,鬬雞走狗。雒陽劇孟嘗過袁盎,盎善待之。安陵富人有謂盎曰:「吾聞劇孟博徒,將軍何自通之?」盎曰:「劇孟雖博徒,然母死,客送葬車千餘乘,此亦有過人者。且緩急人所有。夫一旦有急叩門,不以親為解,不以存亡為辭,天下所望者,獨季心、劇孟耳。今公常從數騎,一旦有緩急,寧足恃乎!」罵富人,弗與通。諸公聞之,皆多袁盎。袁盎雖家居,景帝時時使人問籌策。梁王欲求為嗣,袁盎進說,其後語塞。梁王以此怨盎,曾使人刺盎。刺者至關中,問袁盎,諸君譽之皆不容口。乃見袁盎曰:「臣受梁王金來刺君,君長者,不忍刺君。
新字:及袁盎使呉見守,従史適為守盎校尉司馬,乃悉以其装齎置二石醇醪,会天寒,士卒饑渇,飲酒酔,西南陬卒皆臥,司馬夜引袁盎起,曰:「君可以去矣,呉王期旦日斬君。」盎弗信,曰:「公何為者?」司馬曰:「臣故為従史盗君侍児者。」盎乃驚謝曰;「公幸有親,吾不足以累公。」司馬曰:「君弟去,臣亦且亡,辟吾親,君何患!」乃以刀決張,道従酔卒隧直出。司馬与分背,袁盎解節毛懐之,杖,歩行七八里,明,見梁騎,騎馳去,遂帰報。呉楚已破,上更以元王子平陸侯礼為楚王,袁盎為楚相。嘗上書有所言,不用。袁盎病免居家,与閭里浮沈,相随行,闘鶏走狗。雒陽劇孟嘗過袁盎,盎善待之。安陵富人有謂盎曰:「吾聞劇孟博徒,将軍何自通之?」盎曰:「劇孟雖博徒,然母死,客送葬車千余乗,此亦有過人者。且緩急人所有。夫一旦有急叩門,不以親為解,不以存亡為辞,天下所望者,独季心、劇孟耳。今公常従数騎,一旦有緩急,寧足恃乎!」罵富人,弗与通。諸公聞之,皆多袁盎。袁盎雖家居,景帝時時使人問籌策。梁王欲求為嗣,袁盎進説,其後語塞。梁王以此怨盎,曽使人刺盎。刺者至関中,問袁盎,諸君誉之皆不容口。乃見袁盎曰:「臣受梁王金来刺君,君長者,不忍刺君。
書き下し
袁盎の呉に使ひして守らるるに及び、従史適(たまたま)盎を守る校尉司馬と為る。乃ち悉く其の装齎を以て二石の醇醪を置ふ。会(たまたま)天寒く、士卒飢渇し、酒を飲みて酔ひ、西南の陬の卒皆臥す。司馬夜袁盎を引きて起たしめて曰く、「君以て去るべし、呉王旦日君を斬らんと期す」と。盎信ぜず、曰く、「公は何為る者ぞ」と。司馬曰く、「臣は故の従史にして君の侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち驚き謝して曰く、「公幸ひに親有り、吾以て公を累はすに足らず」と。司馬曰く、「君弟(ただ)去れ、臣も亦且に亡げて、吾が親を辟けんとす、君何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て張(とばり)を決し、道して酔卒の隧より直ちに出づ。司馬与に分かれて背く。袁盎節の毛を解きて之を懐にし、杖つきて、歩行すること七八里、明けて、梁の騎を見る。騎馳せ去り、遂に帰りて報ず。呉楚已に破れ、上更めて元王の子平陸侯礼を以て楚王と為し、袁盎を楚の相と為す。嘗て上書して言ふ所有るも、用ひられず。袁盎病みて免ぜられ家に居り、閭里と浮沈し、相随ひて行き、鶏を闘はせ狗を走らす。雒陽の劇孟嘗て袁盎に過る、盎善く之を待す。安陵の富人に盎に謂ふ者有りて曰く、「吾聞く劇孟は博徒なりと、将軍何ぞ自ら之に通ずる」と。盎曰く、「劇孟は博徒なりと雖も、然れども母死して、客の葬を送る車千余乗、此れ亦人に過ぐる者有り。且つ緩急は人の有る所なり。夫れ一旦急有りて門を叩かば、親を以て解と為さず、存亡を以て辞と為さず、天下の望む所の者は、独り季心・劇孟のみ。今公常に数騎を従ふるも、一旦緩急有らば、寧んぞ恃むに足らんや」と。富人を罵り、与に通ぜず。諸公之を聞き、皆袁盎を多とす。袁盎家居すと雖も、景帝時時人をして籌策を問はしむ。梁王嗣と為らんことを求めんと欲す。袁盎進みて説き、其の後語塞がる。梁王此を以て盎を怨み、曾て人をして盎を刺さしむ。刺す者関中に至り、袁盎を問ふに、諸君之を誉めて皆口を容れず。乃ち袁盎に見えて曰く、「臣梁王の金を受けて来たりて君を刺さんとす。君は長者なり、君を刺すに忍びず。
現代語訳
袁盎が呉に使いして見張られるに及んで、かつての従史がちょうど袁盎を見張る校尉司馬(部隊長)になっていた。彼は自分の持ち物をすべて売り払って、二石の濃い酒を買った。ちょうど寒い時で、兵士たちは飢えと渇きに苦しんでいたので、酒を飲んで酔い、陣の西南の隅の兵士たちは皆寝込んでしまった。司馬は夜中に袁盎を揺り起こして言った。「あなたはもう逃げてよい。呉王は明朝あなたを斬るつもりだ。」袁盎は信じずに言った。「あなたは何者か。」司馬は言った。「私は、以前従史としてあなたの侍女と通じた者だ。」袁盎は驚き、辞退して言った。「あなたには幸い親御がおられる。私のためにあなたを巻き添えにすることはできない。」司馬は言った。「あなたはただ逃げればよい。私も逃げて、親を連れて身を隠すつもりだ。あなたが心配することはない。」そして刀で陣幕を切り裂き、袁盎を導いて酔い潰れた兵士たちの間の通路からまっすぐ脱出させた。司馬とはそこで別れて別々の方向へ向かった。袁盎は使者の証である節の飾りの毛を外して懐に入れ、節を杖にして七、八里歩き、夜が明けると梁の騎兵に出会った。騎兵に送られて駆け去り、ついに都へ帰って報告した。呉・楚が破れたのち、景帝は改めて楚の元王の子の平陸侯劉礼を楚王に立て、袁盎を楚の相とした。袁盎はかつて上書して意見を述べたことがあったが、用いられなかった。袁盎は病気で職を退いて家におり、村人たちと浮き沈みをともにし、連れ立って出歩き、闘鶏や犬の競走に興じた。雒陽の劇孟が袁盎を訪ねて来たとき、袁盎は手厚くもてなした。安陵の富豪で袁盎にこう言う者がいた。「劇孟は博徒だと聞いている。将軍はどうしてそんな者と付き合うのか。」袁盎は言った。「劇孟は博徒ではあるが、母親が亡くなったとき、葬儀を見送る客の車が千台余りもあった。これもまた人並み外れたところがあるということだ。それに危急の事態は誰にでも起こりうる。いったん急なことがあって門を叩いたとき、親がいるからと断らず、自分の生死を理由に拒まない者として、天下が頼みにするのは季心と劇孟だけだ。いまあなたはいつも数騎の供を連れているが、いったん危急の事態になったとき、そんな者たちが頼りになるだろうか。」そしてその富豪を罵り、付き合いを断った。諸公はこれを聞いて、皆袁盎を称えた。袁盎は家に退いていたが、景帝はときどき人をやって策を尋ねさせた。梁王(景帝の弟の劉武)が皇位継承者になることを求めようとしたとき、袁盎が進み出て反対を説き、その後その話は立ち消えになった。梁王はこのことで袁盎を恨み、刺客を送って袁盎を刺させようとした。刺客は関中に来て袁盎の評判を尋ねたが、人々は皆袁盎を褒めて、口々に称えてやまなかった。そこで刺客は袁盎に会って言った。「私は梁王の金を受け取って、あなたを刺しに来た。しかしあなたは徳のある方だ。あなたを刺すことはできない。
解説
関連する章句
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説苑・復恩孝景の時、呉楚反す、袁盎太常を以て呉に使ひす、呉王将たらしめんと欲するも肯んぜず、之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を囲守せしむ、盎呉の相為りし時、従史盎の侍児と私通す、盎之を知りて泄らさず、之に遇すること故人の如し、告ぐる者従史に有り、従史懼れて亡げ帰る、盎自ら之を追ひ、遂に侍児を以て之に賄す、復た従史と為る。盎の呉に使ひして囲守せらるるに及び、従史適々盎を守るの校司馬為り、夜盎を引きて起して曰く、「君以て去るべし、呉王旦日を期して君を斬らんとす」と。盎信ぜず、曰く、「公何為る者ぞや」と。司馬曰く、「臣は故に君の従史にして侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち敬みて対へて曰く、「公親有り、吾以て公に累はすに足らず」と。司馬曰く、「君去れ、臣も亦た且に亡げて避けんとす、吾君に親しむ、何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て帳を決り、徒卒を率ゐて道より出で、皆をして去らしめ、盎遂に帰り報ず。
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史記 袁盎鼂錯列伝盎素より鼂錯(ちょうそ)を好まず。鼂錯の居坐する所、盎去り、盎坐すれば、錯も亦去る。両人未だ嘗て堂を同じくして語らず。孝文帝崩じ、孝景帝即位するに及び、鼂錯御史大夫と為り、吏をして袁盎の呉王の財物を受くるを案ぜしめ、罪に抵(あ)て、詔して赦して以て庶人と為す。呉楚反す。聞こゆるや、鼂錯丞史に謂ひて曰く、「夫れ袁盎多く呉王の金銭を受け、専ら為に蔽匿し、反せずと言ふ。今果して反す、請ひて盎を治めんと欲す、宜しく計謀を知るべし」と。丞史曰く、「事未だ発せざるに、之を治むれば絶つこと有り。今兵西に郷かふ、之を治むるも何の益かあらん。且つ袁盎宜しく謀有るべからず」と。鼂錯猶与して未だ決せず。人袁盎に告ぐる者有り。袁盎恐れ、夜竇嬰に見え、為に呉の反する所以の者を言ひ、上の前に至りて口づから状を対へんと願ふ。竇嬰入りて上に言ひ、上乃ち袁盎を召して入れ見ゆ。鼂錯前に在り。盎の人を辟け閒を賜はんことを請ふに及び、錯去り、固より恨むこと甚だし。袁盎具さに呉の反する所以の状を言ひ、錯の故を以てなれば、独り急ぎ錯を斬りて以て呉に謝せば、呉の兵乃ち罷むべしとす。其の語具さに呉の事の中に在り。袁盎をして太常と為し、竇嬰を大将軍と為す。両人素より相与に善し。呉の反するに逮(およ)び、諸陵の長者、長安中の賢大夫争ひて両人に附き、車の随ふ者日に数百乗。鼂錯已に誅せらるるに及び、袁盎太常を以て呉に使ひす。呉王将と為さんと欲するも、肯へてせず。之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を軍中に囲守せしむ。袁盎其の呉の相たりし時より、(嘗)従史の嘗て盎の侍児を盗愛する有り。盎之を知るも、泄らさず、之を遇すること故の如し。人従史に告ぐる有り、「君爾の侍者と通ずるを知る」と言ふ。乃ち亡げ帰る。袁盎駆りて自ら之を追ひ、遂に侍者を以て之に賜ひ、復た従史と為す。
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史記 袁盎鼂錯列伝然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
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史記 梁孝王世家袁盎等宋の宣公正を立てず、禍を生じ、禍乱後五世絶えず、小を忍ばざれば大義を害する状を以て太后に報ず。太后乃ち解説し、即ち梁王をして帰りて国に就かしむ。而して梁王其の義の袁盎諸大臣の所より出づるを聞き、怨望し、人をして来たりて袁盎を殺さしむ。袁盎之を顧みて曰く、「我は所謂袁将軍なる者なり、公誤ること毋きを得んや」と。刺す者曰く、「是なり」と。之を刺し、其の剣を置く、剣身に著く。其の剣を視るに、新たに治む。長安中の削厲工に問ふに、工曰く、「梁の郎某子来たりて此の剣を治む」と。此を以て知りて之を発覚し、使者を発して捕へ逐はしむ。独り梁王の殺さんと欲する所の大臣十余人、文吏之を窮本し、謀反の端頗る見はる。太后食はず、日夜泣きて止まず。景帝甚だ之を憂へ、公卿大臣に問ふ、大臣以為へらく経術の吏を遣はして往きて之を治めしめば、乃ち解くべしと。是に於いて田叔・呂季主を遣はして往きて之を治めしむ。此の二人皆経術に通じ、大礼を知る。来たり還りて、霸昌廏に至り、火を取りて悉く梁の反辞を焼き、但だ空手にて来たりて景帝に対ふ。景帝曰く、「何如」と。対へて曰く、「言ふこころは梁王知らざるなり。之を造為する者は、独り其の幸臣羊勝・公孫詭の属之を為すのみ。謹んで以て誅に伏して死し、梁王恙無きなり」と。景帝喜説して、曰く、「急ぎ趨りて太后に謁せよ」と。太后之を聞き、立ちどころに起ちて坐して湌し、気平復す。故に曰く、経術に通じ古今の大礼を知らざれば、以て三公及び左右の近臣と為すべからず。少見の人は、管中より天を闚ふが如きなり。
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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史記 袁盎鼂錯列伝袁盎(えんおう)は楚人なり、字は絲。父は故(もと)群盗たり、徙りて安陵に処る。高后の時、盎嘗て呂禄の舎人と為る。孝文帝即位するに及び、盎の兄噲、盎を任じて中郎と為す。
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