史記 / 袁盎鼂錯列伝
盎素不好鼂錯,鼂錯所居坐,盎去;盎坐,錯亦去:兩人未嘗同堂語。及孝文帝崩,孝景帝即位,鼂錯為御史大夫,使吏案袁盎受吳王財物,抵罪,詔赦以為庶人。吳楚反,聞,鼂錯謂丞史曰:「夫袁盎多受吳王金錢,專為蔽匿,言不反。今果反,欲請治盎宜知計謀。」丞史曰:「事未發,治之有絕。今兵西鄉,治之何益!且袁盎不宜有謀。」鼂錯猶與未決。人有告袁盎者,袁盎恐,夜見竇嬰,為言吳所以反者,願至上前口對狀。竇嬰入言上,上乃召袁盎入見。鼂錯在前,及盎請辟人賜閒,錯去,固恨甚。袁盎具言吳所以反狀,以錯故,獨急斬錯以謝吳,吳兵乃可罷。其語具在吳事中。使袁盎為太常,竇嬰為大將軍。兩人素相與善。逮吳反。諸陵長者長安中賢大夫爭附兩人,車隨者日數百乘。及鼂錯已誅,袁盎以太常使吳。吳王欲使將,不肯。欲殺之,使一都尉以五百人圍守盎軍中。袁盎自其為吳相時,有從史嘗盜愛盎侍兒,盎知之,弗泄,遇之如故。人有告從史,言「君知爾與侍者通」,乃亡歸。袁盎驅自追之,遂以侍者賜之,復為從史。
新字:盎素不好鼂錯,鼂錯所居坐,盎去;盎坐,錯亦去:両人未嘗同堂語。及孝文帝崩,孝景帝即位,鼂錯為御史大夫,使吏案袁盎受呉王財物,抵罪,詔赦以為庶人。呉楚反,聞,鼂錯謂丞史曰:「夫袁盎多受呉王金銭,専為蔽匿,言不反。今果反,欲請治盎宜知計謀。」丞史曰:「事未発,治之有絶。今兵西郷,治之何益!且袁盎不宜有謀。」鼂錯猶与未決。人有告袁盎者,袁盎恐,夜見竇嬰,為言呉所以反者,願至上前口対状。竇嬰入言上,上乃召袁盎入見。鼂錯在前,及盎請辟人賜閒,錯去,固恨甚。袁盎具言呉所以反状,以錯故,独急斬錯以謝呉,呉兵乃可罷。其語具在呉事中。使袁盎為太常,竇嬰為大将軍。両人素相与善。逮呉反。諸陵長者長安中賢大夫争附両人,車随者日数百乗。及鼂錯已誅,袁盎以太常使呉。呉王欲使将,不肯。欲殺之,使一都尉以五百人囲守盎軍中。袁盎自其為呉相時,有従史嘗盗愛盎侍児,盎知之,弗泄,遇之如故。人有告従史,言「君知爾与侍者通」,乃亡帰。袁盎駆自追之,遂以侍者賜之,復為従史。
書き下し
盎素より鼂錯(ちょうそ)を好まず。鼂錯の居坐する所、盎去り、盎坐すれば、錯も亦去る。両人未だ嘗て堂を同じくして語らず。孝文帝崩じ、孝景帝即位するに及び、鼂錯御史大夫と為り、吏をして袁盎の呉王の財物を受くるを案ぜしめ、罪に抵(あ)て、詔して赦して以て庶人と為す。呉楚反す。聞こゆるや、鼂錯丞史に謂ひて曰く、「夫れ袁盎多く呉王の金銭を受け、専ら為に蔽匿し、反せずと言ふ。今果して反す、請ひて盎を治めんと欲す、宜しく計謀を知るべし」と。丞史曰く、「事未だ発せざるに、之を治むれば絶つこと有り。今兵西に郷かふ、之を治むるも何の益かあらん。且つ袁盎宜しく謀有るべからず」と。鼂錯猶与して未だ決せず。人袁盎に告ぐる者有り。袁盎恐れ、夜竇嬰に見え、為に呉の反する所以の者を言ひ、上の前に至りて口づから状を対へんと願ふ。竇嬰入りて上に言ひ、上乃ち袁盎を召して入れ見ゆ。鼂錯前に在り。盎の人を辟け閒を賜はんことを請ふに及び、錯去り、固より恨むこと甚だし。袁盎具さに呉の反する所以の状を言ひ、錯の故を以てなれば、独り急ぎ錯を斬りて以て呉に謝せば、呉の兵乃ち罷むべしとす。其の語具さに呉の事の中に在り。袁盎をして太常と為し、竇嬰を大将軍と為す。両人素より相与に善し。呉の反するに逮(およ)び、諸陵の長者、長安中の賢大夫争ひて両人に附き、車の随ふ者日に数百乗。鼂錯已に誅せらるるに及び、袁盎太常を以て呉に使ひす。呉王将と為さんと欲するも、肯へてせず。之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を軍中に囲守せしむ。袁盎其の呉の相たりし時より、(嘗)従史の嘗て盎の侍児を盗愛する有り。盎之を知るも、泄らさず、之を遇すること故の如し。人従史に告ぐる有り、「君爾の侍者と通ずるを知る」と言ふ。乃ち亡げ帰る。袁盎駆りて自ら之を追ひ、遂に侍者を以て之に賜ひ、復た従史と為す。
現代語訳
袁盎はもともと鼂錯と仲が悪かった。鼂錯が座っている所からは袁盎が立ち去り、袁盎が座れば鼂錯もまた立ち去った。二人は同じ部屋で言葉を交わしたことが一度もなかった。孝文帝が崩じ、孝景帝が即位すると、鼂錯は御史大夫となり、役人に命じて袁盎が呉王から財物を受け取った件を取り調べさせ、罪に問うたが、詔によって赦され、庶民に落とされた。呉・楚が反乱を起こしたという知らせが届くと、鼂錯は丞史(御史大夫の属官)に言った。「袁盎は呉王から多くの金銭を受け取り、もっぱら呉王をかばって、謀反などしないと言っていた。いま果たして反乱を起こした。袁盎を取り調べるよう願い出たい。彼は謀略を知っているはずだ。」丞史は言った。「事が起こる前に取り調べていれば、謀略を断てたかもしれない。いまや反乱軍はすでに西へ向かっている。いま取り調べて何の益があろうか。それに袁盎が謀略に関わっているはずがない。」鼂錯はためらって決めかねていた。ある者がこのことを袁盎に知らせた。袁盎は恐れ、夜に竇嬰に会い、呉が反乱を起こした理由を話して、皇帝の前で直接事情を申し上げたいと願った。竇嬰が参内して景帝に申し上げると、景帝は袁盎を召し入れて会った。そのとき鼂錯は景帝の前にいた。袁盎が人払いをして二人きりで話したいと願うと、鼂錯は退出したが、ひどく恨んだ。袁盎は呉が反乱を起こした事情を詳しく述べ、反乱は鼂錯のせいなのだから、ただ急いで鼂錯を斬って呉に謝罪すれば、呉の兵は引き上げるだろうと言った。その言葉は詳しく呉王濞の列伝の中にある。景帝は袁盎を太常とし、竇嬰を大将軍とした。二人はもともと仲が良かった。呉の反乱が起こると、諸陵邑の有力者や長安の賢い大夫たちは争って二人に付き従い、あとに従う車は毎日数百台に及んだ。鼂錯が誅されたのち、袁盎は太常として呉へ使いした。呉王は袁盎を将軍にしようとしたが、袁盎は承知しなかった。呉王は彼を殺そうとして、一人の都尉に五百人を率いさせて、陣中で袁盎を包囲して見張らせた。これより前、袁盎が呉の相であった時、配下の従史(下役)で袁盎の侍女とひそかに通じていた者がいた。袁盎はこれを知っていたが口外せず、以前と変わらず遇していた。ある者が従史に「殿はおまえが侍女と通じていることをご存じだ」と告げたので、従史は逃げて郷里へ帰ってしまった。袁盎は自ら車を駆って追いかけ、侍女を彼に与えて、再び従史とした。
解説
関連する章句
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史記 袁盎鼂錯列伝死すること十余日、呉楚七国果して反し、錯を誅するを以て名と為す。竇嬰・袁盎の進説するに及び、上鼂錯をして朝衣を衣て東市に斬らしむ。鼂錯已に死し、謁者僕射鄧公校尉と為り、呉楚の軍を撃ちて将と為る。還りて、上書して軍事を言ひ、上に謁見す。上問ひて曰く、「軍の来たる所より道(い)へ、鼂錯の死を聞きて、呉楚罷むや不や」と。鄧公曰く、「呉王反を為すこと数十年なり。地を削らるるに怒りを発し、錯を誅するを以て名と為す。其の意錯に在るに非ざるなり。且つ臣恐らくは天下の士口を噤みて、敢へて復た言はざらんことを」と。上曰く、「何ぞや」と。鄧公曰く、「夫れ鼂錯は諸侯の彊大にして制すべからざるを患ふ、故に地を削りて以て京師を尊ばんことを請ふ、万世の利なり。計画始めて行はれ、卒に大戮を受く。内は忠臣の口を杜ぎ、外は諸侯の為に仇に報ゆ。臣窃かに陛下の為に取らざるなり」と。是に於て景帝黙然たること良久しくして、曰く、「公の言善し、吾も亦之を恨む」と。乃ち鄧公を拝して城陽の中尉と為す。鄧公は成固の人なり、奇計多し。建元中、上賢良を招き、公卿鄧公を言ふ。時に鄧公免ぜらる、家より起ちて九卿と為る。一年にして、復た病を謝して免じて帰る。其の子章、黄老の言を修むるを以て諸公の間に顕る。太史公曰く、袁盎は学を好まずと雖も、亦善く傅会し、仁心を質と為し、義を引きて慨す。孝文の初めて立つに遭ひ、資適(たまたま)世に逢ふ。時以て変易し、呉楚に及びて一たび説く。説行はると雖も、然れども復た遂げず。声を好み賢に矜り、竟に名を以て敗る。鼂錯は家令たりし時、数(しばしば)事を言ひて用ひられず。後に権を擅にし、変更する所多し。諸侯難を発するに、急ぎ匡救せず、私讎に報いんと欲して、反りて以て軀を亡ぼす。語に曰く「古を変じ常を乱せば、死せずんば則ち亡ぶ」と。豈に錯等の謂か。
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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史記 袁盎鼂錯列伝袁盎の呉に使ひして守らるるに及び、従史適(たまたま)盎を守る校尉司馬と為る。乃ち悉く其の装齎を以て二石の醇醪を置ふ。会(たまたま)天寒く、士卒飢渇し、酒を飲みて酔ひ、西南の陬の卒皆臥す。司馬夜袁盎を引きて起たしめて曰く、「君以て去るべし、呉王旦日君を斬らんと期す」と。盎信ぜず、曰く、「公は何為る者ぞ」と。司馬曰く、「臣は故の従史にして君の侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち驚き謝して曰く、「公幸ひに親有り、吾以て公を累はすに足らず」と。司馬曰く、「君弟(ただ)去れ、臣も亦且に亡げて、吾が親を辟けんとす、君何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て張(とばり)を決し、道して酔卒の隧より直ちに出づ。司馬与に分かれて背く。袁盎節の毛を解きて之を懐にし、杖つきて、歩行すること七八里、明けて、梁の騎を見る。騎馳せ去り、遂に帰りて報ず。呉楚已に破れ、上更めて元王の子平陸侯礼を以て楚王と為し、袁盎を楚の相と為す。嘗て上書して言ふ所有るも、用ひられず。袁盎病みて免ぜられ家に居り、閭里と浮沈し、相随ひて行き、鶏を闘はせ狗を走らす。雒陽の劇孟嘗て袁盎に過る、盎善く之を待す。安陵の富人に盎に謂ふ者有りて曰く、「吾聞く劇孟は博徒なりと、将軍何ぞ自ら之に通ずる」と。盎曰く、「劇孟は博徒なりと雖も、然れども母死して、客の葬を送る車千余乗、此れ亦人に過ぐる者有り。且つ緩急は人の有る所なり。夫れ一旦急有りて門を叩かば、親を以て解と為さず、存亡を以て辞と為さず、天下の望む所の者は、独り季心・劇孟のみ。今公常に数騎を従ふるも、一旦緩急有らば、寧んぞ恃むに足らんや」と。富人を罵り、与に通ぜず。諸公之を聞き、皆袁盎を多とす。袁盎家居すと雖も、景帝時時人をして籌策を問はしむ。梁王嗣と為らんことを求めんと欲す。袁盎進みて説き、其の後語塞がる。梁王此を以て盎を怨み、曾て人をして盎を刺さしむ。刺す者関中に至り、袁盎を問ふに、諸君之を誉めて皆口を容れず。乃ち袁盎に見えて曰く、「臣梁王の金を受けて来たりて君を刺さんとす。君は長者なり、君を刺すに忍びず。
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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説苑・復恩孝景の時、呉楚反す、袁盎太常を以て呉に使ひす、呉王将たらしめんと欲するも肯んぜず、之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を囲守せしむ、盎呉の相為りし時、従史盎の侍児と私通す、盎之を知りて泄らさず、之に遇すること故人の如し、告ぐる者従史に有り、従史懼れて亡げ帰る、盎自ら之を追ひ、遂に侍児を以て之に賄す、復た従史と為る。盎の呉に使ひして囲守せらるるに及び、従史適々盎を守るの校司馬為り、夜盎を引きて起して曰く、「君以て去るべし、呉王旦日を期して君を斬らんとす」と。盎信ぜず、曰く、「公何為る者ぞや」と。司馬曰く、「臣は故に君の従史にして侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち敬みて対へて曰く、「公親有り、吾以て公に累はすに足らず」と。司馬曰く、「君去れ、臣も亦た且に亡げて避けんとす、吾君に親しむ、何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て帳を決り、徒卒を率ゐて道より出で、皆をして去らしめ、盎遂に帰り報ず。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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