史記 / 袁盎鼂錯列伝
然袁盎亦以數直諫,不得久居中,調為隴西都尉。仁愛士卒,士卒皆爭為死。遷為齊相。徙為吳相,辭行,種謂盎曰:「吳王驕日久,國多姦。今茍欲劾治,彼不上書告君,即利劍刺君矣。南方卑溼,君能日飲,毋何,時說王曰毋反而已。如此幸得脫。」盎用種之計,吳王厚遇盎。盎告歸,道逢丞相申屠嘉,下車拜謁,丞相從車上謝袁盎。袁盎還,愧其吏,乃之丞相舍上謁,求見丞相。丞相良久而見之。盎因跪曰:「願請閒。」丞相曰:「使君所言公事,之曹與長史掾議,吾且奏之;即私邪,吾不受私語。」袁盎即跪說曰:「君為丞相,自度孰與陳平、絳侯?」丞相曰:「吾不如。」袁盎曰:「善,君即自謂不如。夫陳平、絳侯輔翼高帝,定天下,為將相,而誅諸呂,存劉氏;君乃為材官蹶張,遷為隊率,積功至淮陽守,非有奇計攻城野戰之功。且陛下從代來,每朝,郎官上書疏,未嘗不止輦受其言,言不可用置之,言可受採之,未嘗不稱善。何也?則欲以致天下賢士大夫。上日聞所不聞,明所不知,日益聖智;君今自閉鉗天下之口而日益愚。夫以聖主責愚相,君受禍不久矣。」丞相乃再拜曰:「嘉鄙野人,乃不知,將軍幸教。」引入與坐,為上客。
新字:然袁盎亦以数直諫,不得久居中,調為隴西都尉。仁愛士卒,士卒皆争為死。遷為斉相。徙為呉相,辞行,種謂盎曰:「呉王驕日久,国多姦。今苟欲劾治,彼不上書告君,即利剣刺君矣。南方卑湿,君能日飲,毋何,時説王曰毋反而已。如此幸得脱。」盎用種之計,呉王厚遇盎。盎告帰,道逢丞相申屠嘉,下車拝謁,丞相従車上謝袁盎。袁盎還,愧其吏,乃之丞相舎上謁,求見丞相。丞相良久而見之。盎因跪曰:「願請閒。」丞相曰:「使君所言公事,之曹与長史掾議,吾且奏之;即私邪,吾不受私語。」袁盎即跪説曰:「君為丞相,自度孰与陳平、絳侯?」丞相曰:「吾不如。」袁盎曰:「善,君即自謂不如。夫陳平、絳侯輔翼高帝,定天下,為将相,而誅諸呂,存劉氏;君乃為材官蹶張,遷為隊率,積功至淮陽守,非有奇計攻城野戦之功。且陛下従代来,毎朝,郎官上書疏,未嘗不止輦受其言,言不可用置之,言可受採之,未嘗不称善。何也?則欲以致天下賢士大夫。上日聞所不聞,明所不知,日益聖智;君今自閉鉗天下之口而日益愚。夫以聖主責愚相,君受禍不久矣。」丞相乃再拝曰:「嘉鄙野人,乃不知,将軍幸教。」引入与坐,為上客。
書き下し
然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
現代語訳
しかし袁盎もまた、たびたび直言して諫めたため、長く宮中に留まることはできず、転任して隴西の都尉となった。彼は兵士たちを慈しんだので、兵士たちは皆、争って彼のために命を投げ出そうとした。やがて斉の相に移り、さらに呉の相に転じた。任地へ赴くにあたって暇乞いをすると、甥の袁種が袁盎に言った。「呉王は長らく驕り高ぶっていて、国には悪人が多い。いまもしその罪を暴いて取り締まろうとすれば、彼らが上書してあなたを告発するか、そうでなければ鋭い剣であなたを刺すだろう。南方は低湿の地だから、あなたは毎日酒を飲み、何もせず、ときどき呉王に『謀反などなさいますな』と説くだけにしておくがよい。そうすれば運よく難を逃れられるだろう。」袁盎は袁種の計を用い、呉王は袁盎を手厚く遇した。袁盎が休暇で都へ帰ったとき、道で丞相の申屠嘉に出会ったので、車を降りて拝謁したが、丞相は車の上から袁盎に会釈しただけだった。袁盎は帰ってから部下の手前恥ずかしく思い、丞相の屋敷へ行って名札を差し出し、面会を求めた。丞相はだいぶ待たせてから会った。袁盎はひざまずいて言った。「どうか人払いをお願いしたい。」丞相は言った。「あなたの話が公の事なら、役所へ行って長史や属官と相談せよ。私はそれを奏上しよう。もし私事なら、私は私的な話は受けない。」袁盎はひざまずいたまま説いた。「あなたは丞相として、ご自分を陳平・絳侯(周勃)と比べてどうお考えか。」丞相は言った。「私は及ばない。」袁盎は言った。「結構、あなたはご自分で及ばないと言われた。そもそも陳平・絳侯は高帝を補佐して天下を平定し、将軍・宰相となり、呂氏一族を誅して劉氏を存続させた。あなたはもともと足で弩を引く材官(弩兵)から、隊長に昇進し、功を積み重ねて淮陽の太守に至っただけで、奇策を立てたり城を攻めたり野戦で戦ったりした功があるわけではない。それに陛下は代から来られて以来、朝議のたびに、郎官が上書すると、必ず車を止めてその言葉を受け取られる。用いることのできない意見は置いておき、受け入れるべき意見は採用し、必ず褒めておられる。なぜか。天下の賢い士大夫を招き寄せたいからだ。陛下は日々聞いたことのないことを聞き、知らなかったことを明らかにして、日に日にますます聡明になっておられる。ところがあなたはいま、自ら天下の人の口を閉ざし、日に日にますます愚かになっている。聖明な君主が愚かな宰相を責めるなら、あなたが禍を受けるのは遠いことではない。」丞相はそこで再拝して言った。「私は田舎者で、そうしたことを知らなかった。将軍どうか教えていただきたい。」そして袁盎を奥へ招き入れてともに座り、上客としてもてなした。
解説
関連する章句
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史記 袁盎鼂錯列伝袁盎の呉に使ひして守らるるに及び、従史適(たまたま)盎を守る校尉司馬と為る。乃ち悉く其の装齎を以て二石の醇醪を置ふ。会(たまたま)天寒く、士卒飢渇し、酒を飲みて酔ひ、西南の陬の卒皆臥す。司馬夜袁盎を引きて起たしめて曰く、「君以て去るべし、呉王旦日君を斬らんと期す」と。盎信ぜず、曰く、「公は何為る者ぞ」と。司馬曰く、「臣は故の従史にして君の侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち驚き謝して曰く、「公幸ひに親有り、吾以て公を累はすに足らず」と。司馬曰く、「君弟(ただ)去れ、臣も亦且に亡げて、吾が親を辟けんとす、君何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て張(とばり)を決し、道して酔卒の隧より直ちに出づ。司馬与に分かれて背く。袁盎節の毛を解きて之を懐にし、杖つきて、歩行すること七八里、明けて、梁の騎を見る。騎馳せ去り、遂に帰りて報ず。呉楚已に破れ、上更めて元王の子平陸侯礼を以て楚王と為し、袁盎を楚の相と為す。嘗て上書して言ふ所有るも、用ひられず。袁盎病みて免ぜられ家に居り、閭里と浮沈し、相随ひて行き、鶏を闘はせ狗を走らす。雒陽の劇孟嘗て袁盎に過る、盎善く之を待す。安陵の富人に盎に謂ふ者有りて曰く、「吾聞く劇孟は博徒なりと、将軍何ぞ自ら之に通ずる」と。盎曰く、「劇孟は博徒なりと雖も、然れども母死して、客の葬を送る車千余乗、此れ亦人に過ぐる者有り。且つ緩急は人の有る所なり。夫れ一旦急有りて門を叩かば、親を以て解と為さず、存亡を以て辞と為さず、天下の望む所の者は、独り季心・劇孟のみ。今公常に数騎を従ふるも、一旦緩急有らば、寧んぞ恃むに足らんや」と。富人を罵り、与に通ぜず。諸公之を聞き、皆袁盎を多とす。袁盎家居すと雖も、景帝時時人をして籌策を問はしむ。梁王嗣と為らんことを求めんと欲す。袁盎進みて説き、其の後語塞がる。梁王此を以て盎を怨み、曾て人をして盎を刺さしむ。刺す者関中に至り、袁盎を問ふに、諸君之を誉めて皆口を容れず。乃ち袁盎に見えて曰く、「臣梁王の金を受けて来たりて君を刺さんとす。君は長者なり、君を刺すに忍びず。
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史記 袁盎鼂錯列伝絳侯丞相と為り、朝罷りて趨り出づ、意得ること甚だし。上之を礼すること恭しく、常に自ら之を送る。袁盎進みて曰く、「陛下丞相を以て何如なる人と為す」と。上曰く、「社稷の臣なり」と。盎曰く、「絳侯は所謂功臣にして、社稷の臣に非ず。社稷の臣は主在れば与に在り、主亡べば与に亡ぶ。方に呂后の時、諸呂事を用ひ、擅に相王とし、劉氏絶えざること帯の如し。是の時絳侯太尉と為り、兵柄を主るも、正す能はず。呂后崩じ、大臣相与に共に諸呂に畔く。太尉兵を主り、適(たまたま)其の成功に会ふ。所謂功臣にして、社稷の臣に非ず。丞相如し主に驕る色有り、陛下謙譲せば、臣主礼を失ふ。窃かに陛下の為に取らざるなり」と。後の朝、上益ます荘にして、丞相益ます畏る。已にして絳侯袁盎を望(うら)みて曰く、「吾而(なんぢ)の兄と善し、今児廷に我を毀る」と。盎遂に謝せず。絳侯相を免ぜられて国に之くに及び、国人上書して告げて以て反すと為し、徴されて清室に繋がる。宗室諸公敢へて為に言ふ莫し。唯だ袁盎のみ絳侯の罪無きを明らかにす。絳侯釈さるるを得たるは、盎頗る力有り。絳侯乃ち大いに盎と交はりを結ぶ。
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史記 袁盎鼂錯列伝盎素より鼂錯(ちょうそ)を好まず。鼂錯の居坐する所、盎去り、盎坐すれば、錯も亦去る。両人未だ嘗て堂を同じくして語らず。孝文帝崩じ、孝景帝即位するに及び、鼂錯御史大夫と為り、吏をして袁盎の呉王の財物を受くるを案ぜしめ、罪に抵(あ)て、詔して赦して以て庶人と為す。呉楚反す。聞こゆるや、鼂錯丞史に謂ひて曰く、「夫れ袁盎多く呉王の金銭を受け、専ら為に蔽匿し、反せずと言ふ。今果して反す、請ひて盎を治めんと欲す、宜しく計謀を知るべし」と。丞史曰く、「事未だ発せざるに、之を治むれば絶つこと有り。今兵西に郷かふ、之を治むるも何の益かあらん。且つ袁盎宜しく謀有るべからず」と。鼂錯猶与して未だ決せず。人袁盎に告ぐる者有り。袁盎恐れ、夜竇嬰に見え、為に呉の反する所以の者を言ひ、上の前に至りて口づから状を対へんと願ふ。竇嬰入りて上に言ひ、上乃ち袁盎を召して入れ見ゆ。鼂錯前に在り。盎の人を辟け閒を賜はんことを請ふに及び、錯去り、固より恨むこと甚だし。袁盎具さに呉の反する所以の状を言ひ、錯の故を以てなれば、独り急ぎ錯を斬りて以て呉に謝せば、呉の兵乃ち罷むべしとす。其の語具さに呉の事の中に在り。袁盎をして太常と為し、竇嬰を大将軍と為す。両人素より相与に善し。呉の反するに逮(およ)び、諸陵の長者、長安中の賢大夫争ひて両人に附き、車の随ふ者日に数百乗。鼂錯已に誅せらるるに及び、袁盎太常を以て呉に使ひす。呉王将と為さんと欲するも、肯へてせず。之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を軍中に囲守せしむ。袁盎其の呉の相たりし時より、(嘗)従史の嘗て盎の侍児を盗愛する有り。盎之を知るも、泄らさず、之を遇すること故の如し。人従史に告ぐる有り、「君爾の侍者と通ずるを知る」と言ふ。乃ち亡げ帰る。袁盎駆りて自ら之を追ひ、遂に侍者を以て之に賜ひ、復た従史と為す。
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説苑・復恩孝景の時、呉楚反す、袁盎太常を以て呉に使ひす、呉王将たらしめんと欲するも肯んぜず、之を殺さんと欲し、一都尉をして五百人を以て盎を囲守せしむ、盎呉の相為りし時、従史盎の侍児と私通す、盎之を知りて泄らさず、之に遇すること故人の如し、告ぐる者従史に有り、従史懼れて亡げ帰る、盎自ら之を追ひ、遂に侍児を以て之に賄す、復た従史と為る。盎の呉に使ひして囲守せらるるに及び、従史適々盎を守るの校司馬為り、夜盎を引きて起して曰く、「君以て去るべし、呉王旦日を期して君を斬らんとす」と。盎信ぜず、曰く、「公何為る者ぞや」と。司馬曰く、「臣は故に君の従史にして侍児を盗みし者なり」と。盎乃ち敬みて対へて曰く、「公親有り、吾以て公に累はすに足らず」と。司馬曰く、「君去れ、臣も亦た且に亡げて避けんとす、吾君に親しむ、何ぞ患へん」と。乃ち刀を以て帳を決り、徒卒を率ゐて道より出で、皆をして去らしめ、盎遂に帰り報ず。
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史記 張丞相列伝申屠丞相嘉は、梁の人なり。材官蹶張(けつちやう)を以て高帝に従ひて項籍を撃ち、遷りて隊率と為る。従ひて黥布の軍を撃ち、都尉と為る。孝恵の時、淮陽の守と為る。孝文帝の元年、故の吏士二千石の高皇帝に従ひし者を挙げて、悉く以て関内侯と為し、邑を食む者二十四人、而して申屠嘉は食邑五百戸。張蒼已に丞相と為り、嘉遷りて御史大夫と為る。張蒼相を免ぜられ、孝文帝、皇后の弟竇広国を用ひて丞相と為さんと欲して曰く、「恐らくは天下、吾を以て広国に私すとせん」と。広国は賢にして行ひ有り。故に之を相とせんと欲す。之を念ふこと久しくして不可なりとす。而して高帝の時の大臣又皆多く死し、余は見(げん)に可なる者無し。乃ち御史大夫嘉を以て丞相と為し、故の邑に因りて封じて故安侯と為す。嘉は人と為り廉直にして、門に私謁を受けず。是の時太中大夫鄧通方に愛幸を隆(さか)んにし、賞賜巨万を累ぬ。文帝嘗て通の家に燕飲す。其の寵是くの如し。是の時丞相入朝し、而して通、上の傍らに居り、怠慢の礼有り。丞相事を奏し畢りて、因りて言ひて曰く、「陛下臣を愛幸せば、則ち之を富貴にせよ。朝廷の礼に至りては、以て粛ならざるべからず」と。上曰く、「君言ふ勿かれ。吾之を私す」と。朝を罷めて府中に坐し、嘉、檄を為りて鄧通を召して丞相府に詣らしむ。来たらずんば、且に通を斬らんとす。通恐れて、入りて文帝に言ふ。文帝曰く、「汝第(ただ)往け。吾今人をして若(なんぢ)を召さしめん」と。通丞相府に至り、冠を免(ぬ)ぎ、徒跣(とせん)して、頓首して謝す。嘉坐すること自如として、故(ことさら)に礼を為さず。責めて曰く、「夫れ朝廷は、高皇帝の朝廷なり。通は小臣にして、殿上に戯る。大不敬なり。当に斬るべし。吏今之を行ひて斬れ」と。通頓首し、首尽く血を出だせども、解けず。文帝、丞相已に通を困しむと度り、使者をして節を持して通を召さしめ、而して丞相に謝して曰く、「此れ吾が弄臣なり。君之を釈せ」と。
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史記 袁盎鼂錯列伝淮南厲王朝し、辟陽侯を殺し、居処驕ること甚だし。袁盎諫めて曰く、「諸侯大いに驕れば必ず患を生ず、適(まさ)に地を削るべし」と。上用ひず。淮南王益ます横なり。棘蒲侯柴武の太子の謀反の事覚(あらは)れ、治むるに及び、淮南王に連なる。淮南王徴され、上因りて之を蜀に遷し、轞車にて伝送す。袁盎時に中郎将たり、乃ち諫めて曰く、「陛下素より淮南王を驕らせ、稍(や)や禁ぜず、以て此に至る。今又暴かに之を摧折す。淮南王は人と為り剛なり、如し霧露に遇ひて道に行きて死すること有らば、陛下竟に天下の大を以て容るる能はずと為し、弟を殺すの名有らん、奈何」と。上聴かず、遂に之を行ふ。淮南王雍に至り、病みて死す。聞こゆるや、上食を輟め、哭すること甚だ哀し。盎入り、頓首して罪を請ふ。上曰く、「公の言を用ひざるを以て此に至る」と。盎曰く、「上自ら寛うせよ。此れ往事なり、豈に悔ゆべけんや。且つ陛下に高世の行ひなる者三有り、此れ以て名を毀るに足らず」と。上曰く、「吾が高世の行ひ三なる者は何事ぞ」と。盎曰く、「陛下代に居りし時、太后嘗て病むこと三年、陛下睫を交へず、衣を解かず、湯薬は陛下の口の嘗むる所に非ざれば進めず。夫れ曾参は布衣を以て猶ほ之を難しとす。今陛下親ら王者を以て之を修む、曾参の孝に過ぐること遠し。夫れ諸呂事を用ひ、大臣専制す。然れども陛下代より六伝に乗りて不測の淵に馳す、賁育の勇と雖も陛下に及ばず。陛下代邸に至り、西に向かひて天子の位を譲ること再び、南面して天子の位を譲ること三たび。夫れ許由は一たび譲るのみ、而るに陛下は五たび天下を以て譲る、許由に過ぐること四なり。且つ陛下の淮南王を遷すは、以て其の志を苦しめ、過ちを改めしめんと欲するなり。有司の衛ること謹まず、故に病死す」と。是に於て上乃ち解け、曰く、「将に奈何せん」と。盎曰く、「淮南王に三子有り、唯だ陛下に在るのみ」と。是に於て文帝其の三子を立てて皆王と為す。盎此に由りて名朝廷に重し。袁盎常に大体を引きて慨(がい)す。
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