史記 / 袁盎鼂錯列伝
淮南厲王朝,殺辟陽侯,居處驕甚。袁盎諫曰:「諸侯大驕必生患,可適削地。」上弗用。淮南王益橫。及棘蒲侯柴武太子謀反事覺,治,連淮南王,淮南王徵,上因遷之蜀,轞車傳送。袁盎時為中郎將,乃諫曰:「陛下素驕淮南王,弗稍禁,以至此,今又暴摧折之。淮南王為人剛,如有遇霧露行道死,陛下竟為以天下之大弗能容,有殺弟之名,柰何?」上弗聽,遂行之。淮南王至雍,病死,聞,上輟食,哭甚哀。盎入,頓首請罪。上曰:「以不用公言至此。」盎曰:「上自寬,此往事,豈可悔哉!且陛下有高世之行者三,此不足以毀名。」上曰:「吾高世行三者何事?」盎曰:「陛下居代時,太后嘗病,三年,陛下不交睫,不解衣,湯藥非陛下口所嘗弗進。夫曾參以布衣猶難之,今陛下親以王者修之,過曾參孝遠矣。夫諸呂用事,大臣專制,然陛下從代乘六傳馳不測之淵,雖賁育之勇不及陛下。陛下至代邸,西向讓天子位者再,南面讓天子位者三。夫許由一讓,而陛下五以天下讓,過許由四矣。且陛下遷淮南王,欲以苦其志,使改過,有司衛不謹,故病死。」於是上乃解,曰:「將柰何?」盎曰:「淮南王有三子,唯在陛下耳。」於是文帝立其三子皆為王。盎由此名重朝廷。袁盎常引大體慨。
新字:淮南厲王朝,殺辟陽侯,居処驕甚。袁盎諫曰:「諸侯大驕必生患,可適削地。」上弗用。淮南王益横。及棘蒲侯柴武太子謀反事覚,治,連淮南王,淮南王徴,上因遷之蜀,轞車伝送。袁盎時為中郎将,乃諫曰:「陛下素驕淮南王,弗稍禁,以至此,今又暴摧折之。淮南王為人剛,如有遇霧露行道死,陛下竟為以天下之大弗能容,有殺弟之名,柰何?」上弗聴,遂行之。淮南王至雍,病死,聞,上輟食,哭甚哀。盎入,頓首請罪。上曰:「以不用公言至此。」盎曰:「上自寛,此往事,豈可悔哉!且陛下有高世之行者三,此不足以毀名。」上曰:「吾高世行三者何事?」盎曰:「陛下居代時,太后嘗病,三年,陛下不交睫,不解衣,湯薬非陛下口所嘗弗進。夫曽参以布衣猶難之,今陛下親以王者修之,過曽参孝遠矣。夫諸呂用事,大臣専制,然陛下従代乗六伝馳不測之淵,雖賁育之勇不及陛下。陛下至代邸,西向譲天子位者再,南面譲天子位者三。夫許由一譲,而陛下五以天下譲,過許由四矣。且陛下遷淮南王,欲以苦其志,使改過,有司衛不謹,故病死。」於是上乃解,曰:「将柰何?」盎曰:「淮南王有三子,唯在陛下耳。」於是文帝立其三子皆為王。盎由此名重朝廷。袁盎常引大体慨。
書き下し
淮南厲王朝し、辟陽侯を殺し、居処驕ること甚だし。袁盎諫めて曰く、「諸侯大いに驕れば必ず患を生ず、適(まさ)に地を削るべし」と。上用ひず。淮南王益ます横なり。棘蒲侯柴武の太子の謀反の事覚(あらは)れ、治むるに及び、淮南王に連なる。淮南王徴され、上因りて之を蜀に遷し、轞車にて伝送す。袁盎時に中郎将たり、乃ち諫めて曰く、「陛下素より淮南王を驕らせ、稍(や)や禁ぜず、以て此に至る。今又暴かに之を摧折す。淮南王は人と為り剛なり、如し霧露に遇ひて道に行きて死すること有らば、陛下竟に天下の大を以て容るる能はずと為し、弟を殺すの名有らん、奈何」と。上聴かず、遂に之を行ふ。淮南王雍に至り、病みて死す。聞こゆるや、上食を輟め、哭すること甚だ哀し。盎入り、頓首して罪を請ふ。上曰く、「公の言を用ひざるを以て此に至る」と。盎曰く、「上自ら寛うせよ。此れ往事なり、豈に悔ゆべけんや。且つ陛下に高世の行ひなる者三有り、此れ以て名を毀るに足らず」と。上曰く、「吾が高世の行ひ三なる者は何事ぞ」と。盎曰く、「陛下代に居りし時、太后嘗て病むこと三年、陛下睫を交へず、衣を解かず、湯薬は陛下の口の嘗むる所に非ざれば進めず。夫れ曾参は布衣を以て猶ほ之を難しとす。今陛下親ら王者を以て之を修む、曾参の孝に過ぐること遠し。夫れ諸呂事を用ひ、大臣専制す。然れども陛下代より六伝に乗りて不測の淵に馳す、賁育の勇と雖も陛下に及ばず。陛下代邸に至り、西に向かひて天子の位を譲ること再び、南面して天子の位を譲ること三たび。夫れ許由は一たび譲るのみ、而るに陛下は五たび天下を以て譲る、許由に過ぐること四なり。且つ陛下の淮南王を遷すは、以て其の志を苦しめ、過ちを改めしめんと欲するなり。有司の衛ること謹まず、故に病死す」と。是に於て上乃ち解け、曰く、「将に奈何せん」と。盎曰く、「淮南王に三子有り、唯だ陛下に在るのみ」と。是に於て文帝其の三子を立てて皆王と為す。盎此に由りて名朝廷に重し。袁盎常に大体を引きて慨(がい)す。
現代語訳
淮南厲王(劉長、文帝の異母弟)が入朝した折に辟陽侯(審食其)を殺し、その暮らしぶりはたいそう驕り高ぶっていた。袁盎は諫めて言った。「諸侯があまりに驕ると必ず禍を生む。領地を削るべきだ。」文帝は聞き入れなかった。淮南王はますます横暴になった。棘蒲侯柴武の太子の謀反が発覚し、取り調べると、淮南王も連座していた。淮南王は召し出され、文帝は彼を蜀へ流すことにし、檻車に乗せて宿駅ごとに送らせた。袁盎は当時中郎将であったが、諫めて言った。「陛下はもともと淮南王を甘やかし、少しも抑えなかったからこうなった。それなのにいま、にわかに厳しく打ちくだこうとしている。淮南王は気性の激しい人だ。もし霧や露にあたって道中で死ぬようなことがあれば、陛下は天下の広さを持ちながら弟一人を受け入れられなかったとされ、弟を殺したという汚名を負うことになる。どうなさるおつもりか。」文帝は聞き入れず、そのまま実行した。淮南王は雍まで来て病死した。その知らせが届くと、文帝は食事をやめ、ひどく悲しんで泣いた。袁盎は参内し、頭を地につけて罪を請うた。文帝は言った。「あなたの言葉を用いなかったためにこうなってしまった。」袁盎は言った。「どうかお気を楽にされよ。これは過ぎたことで、悔やんでもどうにもならない。それに陛下には世に抜きんでた行いが三つあり、この件でその名が損なわれることはない。」文帝は言った。「私の世に抜きんでた三つの行いとは何か。」袁盎は言った。「陛下が代王であった時、太后が三年間病に伏したが、陛下はまぶたを閉じて眠ることもせず、衣も解かず、煎じ薬は自ら口に含んで味見したものでなければ差し上げなかった。孝行で名高い曾参ですら、無位無官の身でさえこれは難しいとした。いま陛下は王の身で自らこれを行われたのだから、曾参の孝をはるかに超えている。また、呂氏一族が権力を握り、大臣たちが政治を専断していた時に、陛下は代から六頭立ての駅伝車に乗り、底知れぬ淵のような危険な都へ駆けつけられた。孟賁・夏育のような勇士でも陛下には及ばない。陛下は代の邸に着くと、西を向いて天子の位を二度辞退し、南を向いて三度辞退された。許由は一度天下を譲られて辞退しただけだが、陛下は五度も天下を辞退された。許由を四度も上回っている。それに陛下が淮南王を流されたのは、その心を苦しめて過ちを改めさせようとしたからだ。役人の護送が行き届かなかったために病死したのである。」そこで文帝の心はようやく晴れ、「これからどうすればよいか」と言った。袁盎は言った。「淮南王には三人の子がいる。すべては陛下のお心次第だ。」そこで文帝はその三人の子を皆王に立てた。袁盎はこれによって朝廷で重んじられるようになった。袁盎はいつも大局の道理を引いて慷慨(意気盛んに論じること)した。
解説
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝臣請ふ蜀郡の厳道の邛郵に処き、其の子母を遣はして従ひて居らしめ、県為に家室を築蓋し、皆廩食し薪菜塩豉炊食器席蓐を給せん。臣等昧死して請ふ、請ふ天下に布告せん」と。制して曰く、「長に食を計りて肉日に五斤、酒二斗を給せよ。故の美人才人の幸を得たる者十人をして従ひて居らしめよ。他は可なり」と。尽く与に謀る所の者を誅す。是に於て乃ち淮南王を遣はし、載するに輜車を以てし、県をして次を以て伝へしむ。是の時袁盎上を諫めて曰く、「上素より淮南王を驕らしめ、為に厳しき傅相を置かず、故を以て此に至る。且つ淮南王人と為り剛なり、今暴かに之を摧折す。臣恐らくは卒に霧露に逢ひて病死せん。陛下弟を殺すの名有るを為さば、柰何せん」と。上曰く、「吾特だ之を苦しむるのみ、今之を復さん」と。県の淮南王を伝ふる者皆敢て車の封を発かず。淮南王乃ち侍者に謂ひて曰く、「誰か乃公を勇者と謂ふ。吾安んぞ能く勇ならん。吾驕るを以ての故に吾が過ちを聞かずして此に至る。人生一世の間、安んぞ能く邑邑たること此くの如くならんや」と。乃ち食はずして死す。雍に至る、雍の令封を発き、死を以て聞す。上哭すること甚だ悲しく、袁盎に謂ひて曰く、「吾公の言を聴かず、卒に淮南王を亡へり」と。盎曰く、「柰何ともすべからず、願はくは陛下自ら寛うせよ」と。上曰く、「之を為すこと柰何」と。盎曰く、「独り丞相・御史を斬りて以て天下に謝せば乃ち可なり」と。上即ち丞相・御史をして諸県の淮南王を伝送して封を発きて侍者に餽らざる者を逮考せしめ、皆棄市す。乃ち列侯を以て淮南王を雍に葬り、冢を守ること三十戸。孝文の八年、上淮南王を憐れむ、淮南王に子四人有り、皆七八歳、乃ち子安を封じて阜陵侯と為し、子勃を安陽侯と為し、子賜を陽周侯と為し、子良を東成侯と為す。
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史記 孝文本紀乃ち有司に詔して曰く、「済北王徳に背き上に反し、吏民を詿誤(くわいご)す、大逆為り。済北の吏民の兵未だ至らざるに先づ自ら定め、及び軍地邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復せよ。王興居と去来せしも、亦之を赦せ。」と。八月、済北の軍を破り、其の王を虜にす。済北の諸吏民の王と反せし者を赦す。六年、有司言ふ淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度毋く、出入天子に擬し、擅に法令を為り、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣はして閩越及び匈奴に使ひせしめ、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危ふくせんと欲すと。群臣議す、皆曰く「長は当に棄市すべし」と。帝法を王に致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王とする勿し。群臣王を蜀の厳道・邛都に処らしめんことを請ふ、帝之を許す。長未だ処所に到らず、行くゆく病みて死す、上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚して厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。
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史記 淮南衡山列伝呂后諸呂を王とし、以て劉氏を危うくせんと欲す、辟陽侯争はず、罪の三なり。臣謹んで天下の為に賊臣辟陽侯を誅し、母の仇に報ゆ、謹んで闕下に伏して罪を請ふ」と。孝文其の志を傷み、親の為の故に、治めず、厲王を赦す。是の時に当たり、薄太后及び太子諸大臣皆厲王を憚る、厲王此を以て国に帰りて益々驕恣にして、漢の法を用ひず、出入に警蹕を称し、制と称し、自ら法令を為り、天子に擬す。六年、男子但等七十人をして棘蒲侯柴武の太子奇と謀り、輂車四十乗を以て谷口に反せしめ、人をして閩越・匈奴に使ひせしむ。事覚り、之を治め、使ひをして淮南王を召さしむ。淮南王長安に至る。「丞相臣張倉・典客臣馮敬・行御史大夫事宗正臣逸・廷尉臣賀・備盗賊中尉臣福昧死して言ふ。淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度無く、黄屋蓋の乗輿を為り、出入天子に擬し、擅に法令を為り、漢の法を用ひず。及び置く所の吏、其の郎中春を以て丞相と為し、漢の諸侯の人及び罪有りて亡ぐる者を聚収し、匿して与に居り、為に家室を治め、其の財物爵禄田宅を賜ひ、爵或いは関内侯に至り、奉ずるに二千石を以てす、当に得べからざる所なり、以て為す有らんと欲す。大夫但・士伍開章等七十人棘蒲侯の太子奇と謀反し、以て宗廟社稷を危うくせんと欲す。開章をして陰に長に告げしめ、与に謀りて閩越及び匈奴に使ひして其の兵を発せしめんとす。開章淮南に之きて長に見ゆ、長数々与に坐して語り飲食し、為に家室を為り婦を娶らしめ、二千石の俸を以て之を奉ず。開章人をして但に告げしむ、已に之を王に言ふと。春使ひをして但等に報ぜしむ。吏覚知し、長安の尉奇等をして往きて開章を捕へしむ。長匿して予へず、故の中尉蕑忌と謀り、殺して以て口を閉ざす。
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史記 淮南衡山列伝為に棺槨衣衾を為り、之を肥陵邑に葬り、吏を謾きて曰く『安くに在るかを知らず』と。又詳りて土を聚め、表を其の上に樹てて、曰く『開章死し、此の下に埋む』と。及び長身自ら無罪の者一人を賊殺す。吏をして無罪の者六人を論殺せしむ。亡命の棄市の罪の為に詐りて命ずる者を捕へて以て罪を除く。擅に人を罪し、罪人告劾無く、繋ぎて城旦舂以上に治むる者十四人。罪人を赦免す、死罪十八人、城旦舂以下五十八人。人に爵関内侯以下を賜ふこと九十四人。前日長病む、陛下之を憂苦し、使者をして書・棗脯を賜はしむ。長賜を受くるを欲せず、使者に見えて拝するを肯ぜず。南海の民の廬江の界中に処る者反す、淮南の吏卒之を撃つ。陛下淮南の民の貧苦するを以て、使者を遣はして長に帛五千匹を賜ひ、以て吏卒の労苦する者に賜はしむ。長賜を受くるを欲せず、謾きて言ひて曰く『労苦する者無し』と。南海の民王織上書して璧を皇帝に献ず、忌擅に其の書を燔き、以て聞せず。吏忌を召して治めんことを請ふ、長遣はさず、謾きて言ひて曰く『忌病む』と。春又長に請ひ、入りて見えんことを願ふ、長怒りて曰く『女我を離れて自ら漢に附かんと欲す』と。長は当に棄市すべし、臣請ふ論ずること法の如くせん」と。制して曰く、「朕王に法を致すに忍びず、其れ列侯二千石と議せよ」と。「臣倉・臣敬・臣逸・臣福・臣賀昧死して言ふ。臣謹んで列侯吏二千石臣嬰等四十三人と議す、皆曰く『長法度を奉ぜず、天子の詔を聴かず、乃ち陰に徒党及び謀反する者を聚め、厚く亡命を養ひ、以て為す有らんと欲す』と。臣等議して論ずること法の如くせん」と。制して曰く、「朕王に法を致すに忍びず、其れ長の死罪を赦し、廃して王とする勿かれ」と。「臣倉等昧死して言ふ。長大死罪有り、陛下法を致すに忍びず、幸ひに赦し、廃して王とする勿からしむ。
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史記 淮南衡山列伝孝文の十六年、淮南王喜を徙して故の城陽に復す。上淮南厲王の法を廃して軌ならず、自ら国を失ひて蚤く死せしむるを憐れみ、乃ち其の三子を立つ。阜陵侯安を淮南王と為し、安陽侯勃を衡山王と為し、陽周侯賜を廬江王と為し、皆厲王の時の地を復た得しめ、之を参分す。東城侯良は前に薨じ、後無きなり。
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史記 淮南衡山列伝是の時上公卿の請ひを許さず、而して漢の中尉宏を遣はして即に王を訊験せしむ。王漢の使ひの来たるを聞き、即ち太子の謀計の如くす。漢の中尉至る、王其の顔色の和らかなるを視る、王を訊ふに雷被を斥くるの事を以てするのみ、王自ら度るに何も無しと、発せず。中尉還り、以て聞す。公卿の治むる者曰く、「淮南王安匈奴を奮撃せんとする者雷被等を擁閼し、明詔を廃格す、当に棄市すべし」と。詔して許さず。公卿廃して王とする勿からんことを請ふ、詔して許さず。公卿五県を削らんことを請ふ、詔して二県を削る。中尉宏をして淮南王の罪を赦し、罰するに削地を以てせしむ。中尉淮南の界に入り、宣言して王を赦す。王初め漢の公卿之を誅せんことを請ふと聞き、未だ地を削らるるを得るを知らず、漢の使ひの来たるを聞き、其の之を捕へんことを恐れ、乃ち太子と謀りて之を刺さんとすること前計の如し。中尉至るに及び、即ち王を賀す、王故を以て発せず。其の後自ら傷みて曰く、「吾仁義を行ひて削らる、甚だ之を恥づ」と。然れども淮南王地を削られし後、其の反謀を為すこと益々甚し。諸々の使ひ道より長安より来たり、妄りに妖言を為し、上に男無く、漢治まらずと言へば、即ち喜ぶ。即し漢廷治まり、男有りと言へば、王怒り、以為へらく妄言なり、非なりと。王日夜伍被・左呉等と輿地図を案じ、兵の従りて入る所を部署す。王曰く、「上に太子無し、宮車即し晏駕せば、廷臣必ず膠東王を徴し、即かずんば常山王、諸侯并び争はん、吾以て備へ無かるべけんや。且つ吾は高祖の孫、親ら仁義を行ふ、陛下我を遇すること厚し、吾能く之を忍ぶ。万世の後、吾寧んぞ能く北面して豎子に臣事せんや」と。
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