史記 / 劉敬叔孫通列伝
遂與所徵三十人西,及上左右為學者與其弟子百餘人為綿蕞野外。習之月餘,叔孫通曰:「上可試觀。」上既觀,使行禮,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄,會十月。漢七年,長樂宮成,諸侯群臣皆朝十月。儀:先平明,謁者治禮,引以次入殿門,廷中陳車騎步卒衛宮,設兵張旗志。傳言「趨」。殿下郎中俠陛,陛數百人。功臣列侯諸將軍軍吏以次陳西方,東鄉;文官丞相以下陳東方,西鄉。大行設九賓,臚傳。於是皇帝輦出房,百官執職傳警,引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀。自諸侯王以下莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上皆伏抑首,以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「罷酒」。御史執法舉不如儀者輒引去。竟朝置酒,無敢讙譁失禮者。於是高帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也。」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。叔孫通因進曰:「諸弟子儒生隨臣久矣,與臣共為儀,願陛下官之。」高帝悉以為郎。叔孫通出,皆以五百斤金賜諸生。諸生乃皆喜曰:「叔孫生誠聖人也,知當世之要務。」漢九年,高帝徙叔孫通為太子太傅。漢十二年,高祖欲以趙王如意易太子,叔孫通諫上曰:「昔者晉獻公以驪姬之故廢太子,立奚齊,晉國亂者數十年,為天下笑。
新字:遂与所徴三十人西,及上左右為学者与其弟子百余人為綿蕞野外。習之月余,叔孫通曰:「上可試観。」上既観,使行礼,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄,会十月。漢七年,長楽宮成,諸侯群臣皆朝十月。儀:先平明,謁者治礼,引以次入殿門,廷中陳車騎歩卒衛宮,設兵張旗志。伝言「趨」。殿下郎中侠陛,陛数百人。功臣列侯諸将軍軍吏以次陳西方,東郷;文官丞相以下陳東方,西郷。大行設九賓,臚伝。於是皇帝輦出房,百官執職伝警,引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀。自諸侯王以下莫不振恐粛敬。至礼畢,復置法酒。諸侍坐殿上皆伏抑首,以尊卑次起上寿。觴九行,謁者言「罷酒」。御史執法舉不如儀者輒引去。竟朝置酒,無敢讙譁失礼者。於是高帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也。」乃拝叔孫通為太常,賜金五百斤。叔孫通因進曰:「諸弟子儒生随臣久矣,与臣共為儀,願陛下官之。」高帝悉以為郎。叔孫通出,皆以五百斤金賜諸生。諸生乃皆喜曰:「叔孫生誠聖人也,知当世之要務。」漢九年,高帝徙叔孫通為太子太傅。漢十二年,高祖欲以趙王如意易太子,叔孫通諫上曰:「昔者晋献公以驪姫之故廃太子,立奚斉,晋国乱者数十年,為天下笑。
書き下し
遂に徵す所の三十人と西し、及び上の左右の學を為す者と其の弟子百餘人と、綿蕞(めんぜつ)を野外に為す。之を習ふこと月餘、叔孫通曰く、「上試みに觀るべし」と。上既に觀て、禮を行はしめて曰く、「吾能く此を為さん」と。乃ち群臣をして習肄せしめ、十月に會す。漢の七年、長樂宮成り、諸侯群臣皆十月に朝す。儀は、平明に先だち、謁者禮を治め、引きて次を以て殿門に入らしむ。廷中には車騎步卒を陳ねて宮を衛らしめ、兵を設け旗志を張る。傳へて「趨れ」と言ふ。殿下には郎中陛を俠み、陛ごとに數百人。功臣・列侯・諸將軍・軍吏は次を以て西方に陳なりて東鄉し、文官は丞相以下東方に陳なりて西鄉す。大行九賓を設け、臚傳す。是に於いて皇帝輦にて房を出づ。百官職を執りて警を傳へ、諸侯王以下吏六百石に至るまでを引きて次を以て賀を奉ぜしむ。諸侯王より以下、振恐して肅敬せざる莫し。禮畢はるに至りて、復た法酒を置く。諸々の殿上に侍坐する者、皆伏して首を抑へ、尊卑の次を以て起ちて壽を上る。觴九たび行き、謁者「酒を罷めよ」と言ふ。御史法を執り、儀の如くならざる者を舉げて輒ち引き去る。朝を竟へて酒を置くに、敢へて讙譁して禮を失ふ者無し。是に於いて高帝曰く、「吾乃ち今日皇帝為るの貴きを知れり」と。乃ち叔孫通を拜して太常と為し、金五百斤を賜ふ。叔孫通因りて進みて曰く、「諸弟子儒生、臣に隨ふこと久し。臣と共に儀を為す。願はくは陛下之を官とせよ」と。高帝悉く以て郎と為す。叔孫通出でて、皆五百斤の金を以て諸生に賜ふ。諸生乃ち皆喜びて曰く、「叔孫生は誠に聖人なり。當世の要務を知る」と。漢の九年、高帝叔孫通を徙して太子太傅と為す。漢の十二年、高祖趙王如意を以て太子に易へんと欲す。叔孫通上を諫めて曰く、「昔者晉の獻公、驪姬の故を以て太子を廢し、奚齊を立つ。晉國亂るること數十年、天下の笑ひと為る。
現代語訳
こうして叔孫通は召し出した三十人とともに西へ向かい、皇帝の側近で学問のある者たちや自分の弟子百余人とともに、野外に縄を張り茅を束ねて立て(綿蕞)、席次を示して礼の稽古をした。一か月余り稽古をしたところで、叔孫通は言った。「陛下、試しにご覧いただきたい。」高帝はそれを見て、自ら礼を行わせてみてから言った。「これならわたしにもできる。」そこで群臣に稽古をさせ、十月の朝賀に備えさせた。漢の七年(前200年)、長楽宮が完成し、諸侯と群臣はみな十月の朝賀に参内した。その儀式はこうであった。夜明け前に謁者(取次役)が儀礼を取り仕切り、参列者を順序どおりに導いて宮殿の門に入れる。宮廷の庭には戦車・騎兵・歩兵を並べて宮殿を守らせ、武器を立て旗を掲げる。「小走りに進め」という号令が伝えられる。殿の下には郎中(近衛の官)が階段の両側に並び、各段に数百人がいる。功臣・列侯・将軍・軍吏は順序どおり西側に並んで東を向き、丞相以下の文官は東側に並んで西を向く。大行(賓客接待の官)が九種の賓客の席を設け、上から下へと言葉を伝えていく。こうして皇帝が輿に乗って奥の間から現れると、百官はそれぞれの持ち場で警蹕(先払いの声)を伝え、諸侯王から俸禄六百石の役人に至るまでを順序どおりに導いて祝賀を述べさせる。諸侯王以下、震え畏まり身を慎まない者はなかった。儀礼が終わると、改めて作法どおりの酒宴を催した。殿上に侍して座る者はみな伏して頭を低くし、身分の高い順に立って皇帝の長寿を祝う杯を捧げた。杯が九巡すると、謁者が「酒宴を終えよ」と告げる。御史が法を執行して、作法どおりでない者を見つけるとただちに連れ出した。朝賀を終えて酒宴を催しても、騒ぎ立てて礼を失う者は一人もいなかった。そこで高帝は言った。「わたしは今日はじめて、皇帝であることの尊さを知った。」そして叔孫通を太常(儀礼をつかさどる長官)に任じ、黄金五百斤を賜った。叔孫通はこの機に進み出て言った。「弟子の儒生たちは長くわたしに従い、わたしとともに儀礼を作った。どうか陛下、彼らに官職をお与えいただきたい。」高帝は全員を郎(近侍の官)にした。叔孫通は退出すると、賜った五百斤の黄金をすべて学生たちに分け与えた。学生たちはみな喜んで言った。「叔孫先生はまことに聖人だ。今の世に何が大事かをよく心得ておられる。」漢の九年、高帝は叔孫通を太子太傅(皇太子の守り役)に移した。漢の十二年、高祖は趙王如意を太子と取り替えようとした。叔孫通は高帝を諫めて言った。「昔、晋の献公は驪姫を寵愛したために太子を廃して奚斉を立てたが、晋の国は数十年も乱れ、天下の笑い者となった。
解説
関連する章句
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の五年、已に天下を并す。諸侯共に漢王を定陶に尊びて皇帝と為す。叔孫通其の儀號を就す。高帝悉く秦の苛なる儀法を去りて、簡易と為す。群臣酒を飲みて功を爭ひ、醉ひて或いは妄りに呼び、劍を拔きて柱を擊つ。高帝之を患ふ。叔孫通、上の益々之を厭ふを知るや、上に說きて曰く、「夫れ儒者は與に進取し難きも、與に守成すべし。臣願はくは魯の諸生を徵し、臣の弟子と共に朝儀を起こさん」と。高帝曰く、「難きこと無きを得んや」と。叔孫通曰く、「五帝は樂を異にし、三王は禮を同じくせず。禮なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり。故に夏・殷・周の禮の因りて損益する所知るべき者は、相復せざるを謂ふなり。臣願はくは頗る古禮と秦儀とを采りて之を雜へ就さん」と。上曰く、「試みに之を為すべし。知り易からしめ、吾が能く行ふ所を度りて之を為せ」と。
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史記 劉敬叔孫通列伝秦は蚤く扶蘇を定めざるを以て、趙高をして詐りて胡亥を立つるを得しめ、自ら祀を滅ぼさしむ。此れ陛下の親しく見る所なり。今太子は仁孝にして、天下皆之を聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖(たん)を食らふ。其れ背くべけんや。陛下必ず適を廢して少を立てんと欲せば、臣願はくは先づ誅に伏し、頸血を以て地を汙さん」と。高帝曰く、「公罷めよ。吾直だ戲るるのみ」と。叔孫通曰く、「太子は天下の本なり。本一たび搖らげば天下振動す。柰何ぞ天下を以て戲と為さん」と。高帝曰く、「吾公の言を聽かん」と。上酒を置くに及び、留侯の招く所の客の太子に從ひて入り見ゆるを見て、上乃ち遂に太子を易ふるの志無し。高帝崩じ、孝惠位に即く。乃ち叔孫生に謂ひて曰く、「先帝の園陵寢廟、群臣習ふ莫し」と。徙して太常と為し、宗廟の儀法を定めしむ。稍く漢の諸儀法を定むるに及び、皆叔孫生の太常為りて論箸する所なり。孝惠帝東のかた長樂宮に朝するを為し、及び閒に往くに、數々蹕(ひつ)して人を煩はす。乃ち複道を作り、方に武庫の南に筑く。叔孫生事を奏し、因りて閒を請ひて曰く、「陛下何ぞ自ら複道を高寢に筑きたまふ。衣冠月ごとに出でて高廟に游ぶ。高廟は漢の太祖なり。柰何ぞ後世の子孫をして宗廟の道の上に乘りて行かしめん」と。孝惠帝大いに懼れて曰く、「急ぎ之を壞て」と。叔孫生曰く、「人主に過舉無し。今已に作り、百姓皆之を知る。今此を壞たば、則ち過舉有るを示す。願はくは陛下、原廟を渭北に為り、衣冠月ごとに出でて之に游ばしめよ。益々宗廟を廣め多くするは、大孝の本なり」と。上乃ち有司に詔して原廟を立てしむ。原廟の起こるは、複道の故を以てなり。孝惠帝曾て春に離宮に出游す。叔孫生曰く、「古は春に果を嘗むる有り。方今櫻桃孰す。獻ずべし。願はくは陛下出でて、因りて櫻桃を取りて宗廟に獻ぜよ」と。上乃ち之を許す。諸果の獻は此に由りて興る。
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史記 礼書秦の天下を有つに至りて、悉く六国の礼儀を内れ、其の善を采択す、聖制に合はずと雖も、其の君を尊び臣を抑へ、朝廷済済たるは、古より以来に依る。高祖に至りて、光に四海を有ち、叔孫通頗る増益減損する所有れども、大抵皆秦の故を襲ふ。天子の称号より下は佐僚及び宮室官名に至るまで、変改する所少なし。孝文即位し、有司議して儀礼を定めんと欲す、孝文は道家の学を好み、以為へらく繁礼飾貌は治に益無し、躬化するは謂何ぞやと、故に之を罷め去る。孝景の時、御史大夫晁錯は世務刑名に明らかにして、数々孝景に干諫して曰く、「諸侯藩輔は、臣子と一例なるは、古今の制なり。今大国は専ら治めて政を異にし、京師に稟けず、恐らくは後に伝ふべからず」と。孝景其の計を用ひて、六国畔逆し、錯を以て首名と為す、天子錯を誅して以て難を解く。事は袁盎の語中に在り。是の後官者は交はりを養ひ禄に安んずるのみ、敢へて復た議する莫し。今上即位し、儒術の士を招致し、共に儀を定めしむるも、十余年就らず。或ひと言ふ、古者太平にして、万民和喜し、瑞応辨く至り、乃ち風俗を采りて、制作を定むと。上之を聞き、御史に制詔して曰く、「蓋し命を受けて王たるは、各々由りて興る所有り、路を殊にして帰を同じくす、民に因りて作り、俗を追ひて制を為すを謂ふなり。議者咸太古を称す、百姓何をか望まん。漢も亦一家の事なり、典法伝はらずんば、子孫を謂何せん。化の隆なる者は閎博、治の浅き者は褊狭、勉めざるべけんや」と。乃ち太初の元を以て正朔を改め、服色を易へ、太山を封じ、宗廟百官の儀を定め、以て典常と為し、之を後に垂ると云ふ。礼は人より起こる。人生まれて欲有り、欲して得ざれば則ち忿り無き能はず、忿りて度量無ければ則ち争ひ、争へば則ち乱る。
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史記 劉敬叔孫通列伝若し陛下長公主を遣はす能はずして、宗室及び後宮をして詐りて公主と稱せしめば、彼も亦知りて、貴び近づくることを肯ぜず、益無きなり」と。高帝曰く、「善し」と。長公主を遣はさんと欲す。呂后日夜泣きて曰く、「妾唯だ太子と一女とのみ。柰何ぞ之を匈奴に棄てん」と。上竟に長公主を遣はす能はずして、家人の子を取りて長公主と名づけ、單于に妻はす。劉敬をして往きて和親の約を結ばしむ。劉敬匈奴より來り、因りて言ふ、「匈奴の河南の白羊・樓煩王、長安を去ること近き者は七百里、輕騎一日一夜にして以て秦中に至るべし。秦中は新たに破れ、民少なけれども、地は肥饒にして、益々實たすべし。夫れ諸侯初めて起こる時、齊の諸田、楚の昭・屈・景に非ざれば興る能ふ莫し。今陛下關中に都すと雖も、實は人少なし。北は胡寇に近く、東には六國の族有り、宗彊し。一日變有らば、陛下も亦未だ枕を高くして臥すを得ざるなり。臣願はくは陛下、齊の諸田、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の後、及び豪桀名家を徙して關中に居らしめよ。事無ければ、以て胡に備ふべく、諸侯變有らば、亦率ゐて以て東伐するに足る。此れ本を彊くして末を弱むるの術なり」と。上曰く、「善し」と。乃ち劉敬をして言ふ所の關中に徙すこと十餘萬口ならしむ。叔孫通は、薛の人なり。秦の時文學を以て徵され、博士に待詔す。數歲にして、陳勝山東に起こる。使者以て聞す。二世、博士諸儒生を召して問ひて曰く、「楚の戍卒蘄を攻めて陳に入る。公に於いて如何」と。博士諸生三十餘人前みて曰く、「人臣は將(はか)ること無し。將らば即ち反なり。罪死して赦す無し。願はくは陛下急ぎ兵を發して之を擊て」と。二世怒りて色を作す。叔孫通前みて曰く、「諸生の言は皆非なり。夫れ天下合して一家と為り、郡縣の城を毀ち、其の兵を鑠かし、天下に復た用ゐざるを示す。且つ明主其の上に在り、法令其の下に具はり、人人をして職を奉ぜしめ、四方輻輳す。安んぞ敢へて反する者有らんや。
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史記 劉敬叔孫通列伝是に於いて叔孫通使ひして魯の諸生三十餘人を徵す。魯に兩生の行くを肯ぜざる有り。曰く、「公の事ふる所の者且に十主ならんとす。皆面諛して以て親貴を得たり。今天下初めて定まり、死者未だ葬られず、傷者未だ起たず。又禮樂を起こさんと欲す。禮樂の由りて起こる所は、德を積むこと百年にして而る後に興すべきなり。吾公の為す所を為すに忍びず。公の為す所は古に合はず。吾行かず。公往け。我を汙すこと無かれ」と。叔孫通笑ひて曰く、「若は真に鄙儒なり。時の變を知らず」と。
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史記 劉敬叔孫通列伝此れ特だ群盜の鼠竊狗盜のみ。何ぞ之を齒牙の閒に置くに足らん。郡守尉今捕へて論ぜん。何ぞ憂ふるに足らん」と。二世喜びて曰く、「善し」と。盡く諸生に問ふに、諸生或いは反と言ひ、或いは盜と言ふ。是に於いて二世御史をして諸生の反と言ふ者を案じて吏に下さしむ。宜しく言ふべき所に非ざればなり。諸々の盜と言ふ者は皆之を罷む。乃ち叔孫通に帛二十匹、衣一襲を賜ひ、拜して博士と為す。叔孫通已に宮を出でて、舍に反る。諸生曰く、「先生何ぞ言の諛へるや」と。通曰く、「公は知らざるなり。我幾ど虎口を脫せざらんとす」と。乃ち亡げ去りて薛に之く。薛已に楚に降れり。項梁の薛に之くに及び、叔孫通之に從ふ。定陶に敗れ、懷王に從ふ。懷王義帝と為り、長沙に徙さる。叔孫通留まりて項王に事ふ。漢の二年、漢王五諸侯に從ひて彭城に入る。叔孫通漢王に降る。漢王敗れて西す。因りて竟に漢に從ふ。叔孫通儒服す。漢王之を憎む。乃ち其の服を變じ、短衣を服す。楚の製なり。漢王喜ぶ。叔孫通の漢に降るや、儒生弟子百餘人を從ふ。然れども通言ひて進むる所無く、專ら諸々の故の群盜壯士を言ひて之を進む。弟子皆竊かに罵りて曰く、「先生に事ふること數歲、幸ひに從ひて漢に降るを得たり。今臣等を進むる能はずして、專ら大猾を言ふは、何ぞや」と。叔孫通之を聞き、乃ち謂ひて曰く、「漢王方に矢石を蒙りて天下を爭ふ。諸生寧ぞ能く鬬はんや。故に先づ將を斬り旗を搴(と)るの士を言ふ。諸生且く我を待て。我忘れず」と。漢王叔孫通を拜して博士と為し、稷嗣君と號す。
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