史記 / 劉敬叔孫通列伝
秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之;呂后與陛下攻苦食啖,其可背哉!陛下必欲廢適而立少,臣願先伏誅,以頸血汙地。」高帝曰:「公罷矣,吾直戲耳。」叔孫通曰:「太子天下本,本一搖天下振動,柰何以天下為戲!」高帝曰:「吾聽公言。」及上置酒,見留侯所招客從太子入見,上乃遂無易太子志矣。高帝崩,孝惠即位,乃謂叔孫生曰:「先帝園陵寢廟,群臣莫習。」徙為太常,定宗廟儀法。及稍定漢諸儀法,皆叔孫生為太常所論箸也。孝惠帝為東朝長樂宮,及閒往,數蹕煩人,乃作複道,方筑武庫南。叔孫生奏事,因請閒曰:「陛下何自筑複道高寢,衣冠月出游高廟?高廟,漢太祖,柰何令後世子孫乘宗廟道上行哉?」孝惠帝大懼,曰:「急壞之。」叔孫生曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之,今壞此,則示有過舉。願陛下原廟渭北,衣冠月出游之,益廣多宗廟,大孝之本也。」上乃詔有司立原廟。原廟起,以複道故。孝惠帝曾春出游離宮,叔孫生曰:「古者有春嘗果,方今櫻桃孰,可獻,願陛下出,因取櫻桃獻宗廟。」上乃許之。諸果獻由此興。
新字:秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之;呂后与陛下攻苦食啖,其可背哉!陛下必欲廃適而立少,臣願先伏誅,以頸血汚地。」高帝曰:「公罷矣,吾直戯耳。」叔孫通曰:「太子天下本,本一揺天下振動,柰何以天下為戯!」高帝曰:「吾聴公言。」及上置酒,見留侯所招客従太子入見,上乃遂無易太子志矣。高帝崩,孝恵即位,乃謂叔孫生曰:「先帝園陵寝廟,群臣莫習。」徙為太常,定宗廟儀法。及稍定漢諸儀法,皆叔孫生為太常所論箸也。孝恵帝為東朝長楽宮,及閒往,数蹕煩人,乃作複道,方筑武庫南。叔孫生奏事,因請閒曰:「陛下何自筑複道高寝,衣冠月出游高廟?高廟,漢太祖,柰何令後世子孫乗宗廟道上行哉?」孝恵帝大懼,曰:「急壊之。」叔孫生曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之,今壊此,則示有過舉。願陛下原廟渭北,衣冠月出游之,益広多宗廟,大孝之本也。」上乃詔有司立原廟。原廟起,以複道故。孝恵帝曽春出游離宮,叔孫生曰:「古者有春嘗果,方今桜桃孰,可献,願陛下出,因取桜桃献宗廟。」上乃許之。諸果献由此興。
書き下し
秦は蚤く扶蘇を定めざるを以て、趙高をして詐りて胡亥を立つるを得しめ、自ら祀を滅ぼさしむ。此れ陛下の親しく見る所なり。今太子は仁孝にして、天下皆之を聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖(たん)を食らふ。其れ背くべけんや。陛下必ず適を廢して少を立てんと欲せば、臣願はくは先づ誅に伏し、頸血を以て地を汙さん」と。高帝曰く、「公罷めよ。吾直だ戲るるのみ」と。叔孫通曰く、「太子は天下の本なり。本一たび搖らげば天下振動す。柰何ぞ天下を以て戲と為さん」と。高帝曰く、「吾公の言を聽かん」と。上酒を置くに及び、留侯の招く所の客の太子に從ひて入り見ゆるを見て、上乃ち遂に太子を易ふるの志無し。高帝崩じ、孝惠位に即く。乃ち叔孫生に謂ひて曰く、「先帝の園陵寢廟、群臣習ふ莫し」と。徙して太常と為し、宗廟の儀法を定めしむ。稍く漢の諸儀法を定むるに及び、皆叔孫生の太常為りて論箸する所なり。孝惠帝東のかた長樂宮に朝するを為し、及び閒に往くに、數々蹕(ひつ)して人を煩はす。乃ち複道を作り、方に武庫の南に筑く。叔孫生事を奏し、因りて閒を請ひて曰く、「陛下何ぞ自ら複道を高寢に筑きたまふ。衣冠月ごとに出でて高廟に游ぶ。高廟は漢の太祖なり。柰何ぞ後世の子孫をして宗廟の道の上に乘りて行かしめん」と。孝惠帝大いに懼れて曰く、「急ぎ之を壞て」と。叔孫生曰く、「人主に過舉無し。今已に作り、百姓皆之を知る。今此を壞たば、則ち過舉有るを示す。願はくは陛下、原廟を渭北に為り、衣冠月ごとに出でて之に游ばしめよ。益々宗廟を廣め多くするは、大孝の本なり」と。上乃ち有司に詔して原廟を立てしむ。原廟の起こるは、複道の故を以てなり。孝惠帝曾て春に離宮に出游す。叔孫生曰く、「古は春に果を嘗むる有り。方今櫻桃孰す。獻ずべし。願はくは陛下出でて、因りて櫻桃を取りて宗廟に獻ぜよ」と。上乃ち之を許す。諸果の獻は此に由りて興る。
現代語訳
「秦は早く扶蘇を太子と定めておかなかったために、趙高に偽って胡亥を立てさせてしまい、自ら祖先の祭りを絶やしてしまった。これは陛下が自らご覧になったことだ。いまの太子は情け深く孝行で、天下の誰もがそれを知っている。呂后は陛下とともに苦労を重ね、粗末な食事をしてきた人だ。どうして背くことができようか。陛下がどうしても嫡子を廃して年少の子を立てるというのなら、わたしはまず死罪を受け、首から流れる血で地を汚したい。」高帝は言った。「もうよい。わたしはただ冗談を言っただけだ。」叔孫通は言った。「太子は天下の根本だ。根本が一度揺らげば天下が揺れ動く。どうして天下を冗談の種になさるのか。」高帝は言った。「君の言うことを聞こう。」後に高帝が酒宴を開いたとき、留侯(張良)が招いた賓客(商山の四皓)が太子に付き従って謁見するのを見て、高帝はついに太子を取り替える気持ちをなくした。高帝が崩御し、孝恵帝が即位すると、叔孫生(叔孫通)に言った。「先帝の陵墓や廟の祭りについて、群臣は誰も作法に通じていない。」そこで叔孫通を再び太常に移し、宗廟の儀礼と法式を定めさせた。漢のさまざまな儀礼や法式が次第に定まったのは、すべて叔孫通が太常として論じ著したものである。孝恵帝は東の長楽宮(母の呂后の宮殿)に参上したり、また折にふれて出かけたりするたびに、何度も通行止めをして人々に迷惑をかけていた。そこで宮殿を結ぶ二階建ての通路(複道)を作ることにし、ちょうど武器庫の南に築いていた。叔孫通は政務を奏上したついでに、人払いを求めて言った。「陛下はどうして高祖の寝殿の上に複道を築かれるのか。高祖の衣冠は毎月一度、寝殿から高廟へ運び出して巡行させる習わしがある。高廟は漢の太祖を祀るところだ。どうして後世の子孫に宗廟の通り道の上を踏んで歩かせることができようか。」孝恵帝はひどく恐れて言った。「急いで取り壊せ。」叔孫通は言った。「君主に過ちの振る舞いがあってはならない。いま作ってしまい、民もみなそれを知っている。今これを壊せば、過ちがあったと示すことになる。どうか陛下、渭水の北に別の廟(原廟)を建て、衣冠を毎月そちらへ巡行させていただきたい。宗廟を広め増やすことは、大いなる孝の根本だ。」そこで孝恵帝は役人に命じて原廟を建てさせた。原廟が建てられたのは、複道がきっかけだったのである。孝恵帝があるとき春に離宮へ出かけたとき、叔孫通は言った。「昔は春に初物の果物を宗廟に供える習わしがあった。ちょうど今、桜桃(ゆすらうめ)が熟している。お供えするとよい。どうか陛下、お出かけのついでに桜桃を取って宗廟に献じていただきたい。」孝恵帝はこれを許した。さまざまな果物を宗廟に献じる習わしは、ここから始まった。
解説
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史記 劉敬叔孫通列伝遂に徵す所の三十人と西し、及び上の左右の學を為す者と其の弟子百餘人と、綿蕞(めんぜつ)を野外に為す。之を習ふこと月餘、叔孫通曰く、「上試みに觀るべし」と。上既に觀て、禮を行はしめて曰く、「吾能く此を為さん」と。乃ち群臣をして習肄せしめ、十月に會す。漢の七年、長樂宮成り、諸侯群臣皆十月に朝す。儀は、平明に先だち、謁者禮を治め、引きて次を以て殿門に入らしむ。廷中には車騎步卒を陳ねて宮を衛らしめ、兵を設け旗志を張る。傳へて「趨れ」と言ふ。殿下には郎中陛を俠み、陛ごとに數百人。功臣・列侯・諸將軍・軍吏は次を以て西方に陳なりて東鄉し、文官は丞相以下東方に陳なりて西鄉す。大行九賓を設け、臚傳す。是に於いて皇帝輦にて房を出づ。百官職を執りて警を傳へ、諸侯王以下吏六百石に至るまでを引きて次を以て賀を奉ぜしむ。諸侯王より以下、振恐して肅敬せざる莫し。禮畢はるに至りて、復た法酒を置く。諸々の殿上に侍坐する者、皆伏して首を抑へ、尊卑の次を以て起ちて壽を上る。觴九たび行き、謁者「酒を罷めよ」と言ふ。御史法を執り、儀の如くならざる者を舉げて輒ち引き去る。朝を竟へて酒を置くに、敢へて讙譁して禮を失ふ者無し。是に於いて高帝曰く、「吾乃ち今日皇帝為るの貴きを知れり」と。乃ち叔孫通を拜して太常と為し、金五百斤を賜ふ。叔孫通因りて進みて曰く、「諸弟子儒生、臣に隨ふこと久し。臣と共に儀を為す。願はくは陛下之を官とせよ」と。高帝悉く以て郎と為す。叔孫通出でて、皆五百斤の金を以て諸生に賜ふ。諸生乃ち皆喜びて曰く、「叔孫生は誠に聖人なり。當世の要務を知る」と。漢の九年、高帝叔孫通を徙して太子太傅と為す。漢の十二年、高祖趙王如意を以て太子に易へんと欲す。叔孫通上を諫めて曰く、「昔者晉の獻公、驪姬の故を以て太子を廢し、奚齊を立つ。晉國亂るること數十年、天下の笑ひと為る。
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