史記 / 劉敬叔孫通列伝
此特群盜鼠竊狗盜耳,何足置之齒牙閒。郡守尉今捕論,何足憂。」二世喜曰:「善。」盡問諸生,諸生或言反,或言盜。於是二世令御史案諸生言反者下吏,非所宜言。諸言盜者皆罷之。乃賜叔孫通帛二十匹,衣一襲,拜為博士。叔孫通已出宮,反舍,諸生曰:「先生何言之諛也?」通曰:「公不知也,我幾不脫於虎口!」乃亡去,之薛,薛已降楚矣。及項梁之薛,叔孫通從之。敗於定陶,從懷王。懷王為義帝,徙長沙,叔孫通留事項王。漢二年,漢王從五諸侯入彭城,叔孫通降漢王。漢王敗而西,因竟從漢。叔孫通儒服,漢王憎之;乃變其服,服短衣,楚製,漢王喜。叔孫通之降漢,從儒生弟子百餘人,然通無所言進,專言諸故群盜壯士進之。弟子皆竊罵曰:「事先生數歲,幸得從降漢,今不能進臣等,專言大猾,何也?」叔孫通聞之,乃謂曰:「漢王方蒙矢石爭天下,諸生寧能鬬乎?故先言斬將搴旗之士。諸生且待我,我不忘矣。」漢王拜叔孫通為博士,號稷嗣君。
新字:此特群盗鼠窃狗盗耳,何足置之歯牙閒。郡守尉今捕論,何足憂。」二世喜曰:「善。」尽問諸生,諸生或言反,或言盗。於是二世令御史案諸生言反者下吏,非所宜言。諸言盗者皆罷之。乃賜叔孫通帛二十匹,衣一襲,拝為博士。叔孫通已出宮,反舎,諸生曰:「先生何言之諛也?」通曰:「公不知也,我幾不脱於虎口!」乃亡去,之薛,薛已降楚矣。及項梁之薛,叔孫通従之。敗於定陶,従懐王。懐王為義帝,徙長沙,叔孫通留事項王。漢二年,漢王従五諸侯入彭城,叔孫通降漢王。漢王敗而西,因竟従漢。叔孫通儒服,漢王憎之;乃変其服,服短衣,楚製,漢王喜。叔孫通之降漢,従儒生弟子百余人,然通無所言進,専言諸故群盗壮士進之。弟子皆窃罵曰:「事先生数歳,幸得従降漢,今不能進臣等,専言大猾,何也?」叔孫通聞之,乃謂曰:「漢王方蒙矢石争天下,諸生寧能闘乎?故先言斬将搴旗之士。諸生且待我,我不忘矣。」漢王拝叔孫通為博士,号稷嗣君。
書き下し
此れ特だ群盜の鼠竊狗盜のみ。何ぞ之を齒牙の閒に置くに足らん。郡守尉今捕へて論ぜん。何ぞ憂ふるに足らん」と。二世喜びて曰く、「善し」と。盡く諸生に問ふに、諸生或いは反と言ひ、或いは盜と言ふ。是に於いて二世御史をして諸生の反と言ふ者を案じて吏に下さしむ。宜しく言ふべき所に非ざればなり。諸々の盜と言ふ者は皆之を罷む。乃ち叔孫通に帛二十匹、衣一襲を賜ひ、拜して博士と為す。叔孫通已に宮を出でて、舍に反る。諸生曰く、「先生何ぞ言の諛へるや」と。通曰く、「公は知らざるなり。我幾ど虎口を脫せざらんとす」と。乃ち亡げ去りて薛に之く。薛已に楚に降れり。項梁の薛に之くに及び、叔孫通之に從ふ。定陶に敗れ、懷王に從ふ。懷王義帝と為り、長沙に徙さる。叔孫通留まりて項王に事ふ。漢の二年、漢王五諸侯に從ひて彭城に入る。叔孫通漢王に降る。漢王敗れて西す。因りて竟に漢に從ふ。叔孫通儒服す。漢王之を憎む。乃ち其の服を變じ、短衣を服す。楚の製なり。漢王喜ぶ。叔孫通の漢に降るや、儒生弟子百餘人を從ふ。然れども通言ひて進むる所無く、專ら諸々の故の群盜壯士を言ひて之を進む。弟子皆竊かに罵りて曰く、「先生に事ふること數歲、幸ひに從ひて漢に降るを得たり。今臣等を進むる能はずして、專ら大猾を言ふは、何ぞや」と。叔孫通之を聞き、乃ち謂ひて曰く、「漢王方に矢石を蒙りて天下を爭ふ。諸生寧ぞ能く鬬はんや。故に先づ將を斬り旗を搴(と)るの士を言ふ。諸生且く我を待て。我忘れず」と。漢王叔孫通を拜して博士と為し、稷嗣君と號す。
現代語訳
「これはただのこそ泥の群れにすぎず、わざわざ口にするほどのことでもない。郡の太守や都尉が今ごろ捕らえて裁いているはずで、心配には及ばない。」二世皇帝は喜んで「よろしい」と言った。そこで学者たち全員に問うと、ある者は反乱だと言い、ある者は盗賊だと言った。二世は御史に命じて、反乱だと言った学者たちを取り調べて獄吏に引き渡させた。言うべきでないことを言ったという理由であった。盗賊だと言った者たちはみな放免された。そして叔孫通に絹二十匹と衣服一揃いを賜い、博士に任じた。叔孫通が宮殿を出て宿舎に戻ると、学者たちが言った。「先生、なんとへつらったお言葉でしたか。」叔孫通は言った。「きみたちには分からないのだ。わたしは危うく虎の口から逃れられないところだった。」そこで逃げ出して故郷の薛へ行ったが、薛はすでに楚(陳勝の側)に降っていた。項梁が薛に来ると、叔孫通はこれに従った。項梁が定陶で敗れると、懐王に従った。懐王が義帝となって長沙に移されると、叔孫通は残って項王(項羽)に仕えた。漢の二年、漢王(劉邦)が五人の諸侯を従えて彭城に入ると、叔孫通は漢王に降った。漢王は敗れて西に退いたが、叔孫通はそのまま漢に従い通した。叔孫通は儒者の服を着ていたが、漢王はそれを嫌った。そこで服を改め、丈の短い楚風の服を着たので、漢王は喜んだ。叔孫通が漢に降ったとき、儒学を学ぶ弟子百余人を連れていた。ところが叔孫通は弟子たちを推挙することはなく、もっぱらかつての盗賊や荒くれ者ばかりを推挙した。弟子たちはみなひそかに罵って言った。「先生に仕えて数年、幸いにも従って漢に降ることができたのに、今われわれを推挙してくださらず、もっぱら大悪党ばかり推薦されるのはどういうわけか。」叔孫通はこれを聞くと、弟子たちに言った。「漢王は今まさに矢や石を浴びながら天下を争っておられる。きみたちに戦うことができるか。だからまず、敵将を斬り敵の旗を奪い取れる者を推挙しているのだ。きみたちはしばらく待て。わたしは忘れてはいない。」漢王は叔孫通を博士に任じ、稷嗣君と号させた。
解説
関連する章句
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史記 劉敬叔孫通列伝若し陛下長公主を遣はす能はずして、宗室及び後宮をして詐りて公主と稱せしめば、彼も亦知りて、貴び近づくることを肯ぜず、益無きなり」と。高帝曰く、「善し」と。長公主を遣はさんと欲す。呂后日夜泣きて曰く、「妾唯だ太子と一女とのみ。柰何ぞ之を匈奴に棄てん」と。上竟に長公主を遣はす能はずして、家人の子を取りて長公主と名づけ、單于に妻はす。劉敬をして往きて和親の約を結ばしむ。劉敬匈奴より來り、因りて言ふ、「匈奴の河南の白羊・樓煩王、長安を去ること近き者は七百里、輕騎一日一夜にして以て秦中に至るべし。秦中は新たに破れ、民少なけれども、地は肥饒にして、益々實たすべし。夫れ諸侯初めて起こる時、齊の諸田、楚の昭・屈・景に非ざれば興る能ふ莫し。今陛下關中に都すと雖も、實は人少なし。北は胡寇に近く、東には六國の族有り、宗彊し。一日變有らば、陛下も亦未だ枕を高くして臥すを得ざるなり。臣願はくは陛下、齊の諸田、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の後、及び豪桀名家を徙して關中に居らしめよ。事無ければ、以て胡に備ふべく、諸侯變有らば、亦率ゐて以て東伐するに足る。此れ本を彊くして末を弱むるの術なり」と。上曰く、「善し」と。乃ち劉敬をして言ふ所の關中に徙すこと十餘萬口ならしむ。叔孫通は、薛の人なり。秦の時文學を以て徵され、博士に待詔す。數歲にして、陳勝山東に起こる。使者以て聞す。二世、博士諸儒生を召して問ひて曰く、「楚の戍卒蘄を攻めて陳に入る。公に於いて如何」と。博士諸生三十餘人前みて曰く、「人臣は將(はか)ること無し。將らば即ち反なり。罪死して赦す無し。願はくは陛下急ぎ兵を發して之を擊て」と。二世怒りて色を作す。叔孫通前みて曰く、「諸生の言は皆非なり。夫れ天下合して一家と為り、郡縣の城を毀ち、其の兵を鑠かし、天下に復た用ゐざるを示す。且つ明主其の上に在り、法令其の下に具はり、人人をして職を奉ぜしめ、四方輻輳す。安んぞ敢へて反する者有らんや。
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史記 劉敬叔孫通列伝是に於いて叔孫通使ひして魯の諸生三十餘人を徵す。魯に兩生の行くを肯ぜざる有り。曰く、「公の事ふる所の者且に十主ならんとす。皆面諛して以て親貴を得たり。今天下初めて定まり、死者未だ葬られず、傷者未だ起たず。又禮樂を起こさんと欲す。禮樂の由りて起こる所は、德を積むこと百年にして而る後に興すべきなり。吾公の為す所を為すに忍びず。公の為す所は古に合はず。吾行かず。公往け。我を汙すこと無かれ」と。叔孫通笑ひて曰く、「若は真に鄙儒なり。時の變を知らず」と。
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史記 劉敬叔孫通列伝秦は蚤く扶蘇を定めざるを以て、趙高をして詐りて胡亥を立つるを得しめ、自ら祀を滅ぼさしむ。此れ陛下の親しく見る所なり。今太子は仁孝にして、天下皆之を聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖(たん)を食らふ。其れ背くべけんや。陛下必ず適を廢して少を立てんと欲せば、臣願はくは先づ誅に伏し、頸血を以て地を汙さん」と。高帝曰く、「公罷めよ。吾直だ戲るるのみ」と。叔孫通曰く、「太子は天下の本なり。本一たび搖らげば天下振動す。柰何ぞ天下を以て戲と為さん」と。高帝曰く、「吾公の言を聽かん」と。上酒を置くに及び、留侯の招く所の客の太子に從ひて入り見ゆるを見て、上乃ち遂に太子を易ふるの志無し。高帝崩じ、孝惠位に即く。乃ち叔孫生に謂ひて曰く、「先帝の園陵寢廟、群臣習ふ莫し」と。徙して太常と為し、宗廟の儀法を定めしむ。稍く漢の諸儀法を定むるに及び、皆叔孫生の太常為りて論箸する所なり。孝惠帝東のかた長樂宮に朝するを為し、及び閒に往くに、數々蹕(ひつ)して人を煩はす。乃ち複道を作り、方に武庫の南に筑く。叔孫生事を奏し、因りて閒を請ひて曰く、「陛下何ぞ自ら複道を高寢に筑きたまふ。衣冠月ごとに出でて高廟に游ぶ。高廟は漢の太祖なり。柰何ぞ後世の子孫をして宗廟の道の上に乘りて行かしめん」と。孝惠帝大いに懼れて曰く、「急ぎ之を壞て」と。叔孫生曰く、「人主に過舉無し。今已に作り、百姓皆之を知る。今此を壞たば、則ち過舉有るを示す。願はくは陛下、原廟を渭北に為り、衣冠月ごとに出でて之に游ばしめよ。益々宗廟を廣め多くするは、大孝の本なり」と。上乃ち有司に詔して原廟を立てしむ。原廟の起こるは、複道の故を以てなり。孝惠帝曾て春に離宮に出游す。叔孫生曰く、「古は春に果を嘗むる有り。方今櫻桃孰す。獻ずべし。願はくは陛下出でて、因りて櫻桃を取りて宗廟に獻ぜよ」と。上乃ち之を許す。諸果の獻は此に由りて興る。
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史記 劉敬叔孫通列伝太史公曰く、語に曰く、「千金の裘(きゅう)は、一狐の腋に非ざるなり。臺榭の榱(たるき)は、一木の枝に非ざるなり。三代の際は、一士の智に非ざるなり」と。信なるかな。夫れ高祖は微細より起こり、海內を定め、謀計用兵、盡くせりと謂ふべし。然り而して劉敬輓輅を脫して一說し、萬世の安を建つ。智豈に專らにすべけんや。叔孫通は世に希ひ務めを度り、禮を制し進退し、時と與に變化し、卒に漢家の儒宗と為る。「大直は詘(くつ)するが若く、道は固より委蛇(いい)たり」とは、蓋し是を謂ふか。
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『長短経』臣行或るひと曰く「叔孫通、二世の意に阿る。可ならんか」と。司馬遷曰く「夫れ主を量りて進むは、前哲の韙とする所なり。叔孫生は世に希い、務めを度りて礼を制す。進退は時と変化す。卒に漢家の儒宗と為る。古の君子は、直にして挺せず、曲にして撓まず。大直は詘するが若く、道は蜲虵に同ず。蓋し是を謂うなり」と。〔議に曰く、太公云う「吏、諫を志さざるは、吾が吏に非ざるなり」と。朱雲、廷に張禹を詰めて曰く「禄に尸し位を保ち、往来する能無きは、斬る可し」と。班固曰く「世に依れば則ち廃遺せられ、俗に違えば則ち危殆なり。此れ古人の爵位を受け難しとする所以なり」と。此に由りて之を言えば、存すると死すると、其の義云何。対えて曰く、范曄称す「夫れ専ら義を為せば則ち生を傷つけ、専ら生を為せば則ち義を騫く。若し義、生より重くば、生を捨つるも可なり。生、義より重くば、生を全うするも可なり」と。〕
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の五年、已に天下を并す。諸侯共に漢王を定陶に尊びて皇帝と為す。叔孫通其の儀號を就す。高帝悉く秦の苛なる儀法を去りて、簡易と為す。群臣酒を飲みて功を爭ひ、醉ひて或いは妄りに呼び、劍を拔きて柱を擊つ。高帝之を患ふ。叔孫通、上の益々之を厭ふを知るや、上に說きて曰く、「夫れ儒者は與に進取し難きも、與に守成すべし。臣願はくは魯の諸生を徵し、臣の弟子と共に朝儀を起こさん」と。高帝曰く、「難きこと無きを得んや」と。叔孫通曰く、「五帝は樂を異にし、三王は禮を同じくせず。禮なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり。故に夏・殷・周の禮の因りて損益する所知るべき者は、相復せざるを謂ふなり。臣願はくは頗る古禮と秦儀とを采りて之を雜へ就さん」と。上曰く、「試みに之を為すべし。知り易からしめ、吾が能く行ふ所を度りて之を為せ」と。
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