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史記 / 周本紀

明年,伐犬戎。明年,伐密須。明年,敗耆國。殷之祖伊聞之,懼,以告帝紂。紂曰:「不有天命乎?是何能為!」明年,伐邘。明年,伐崇侯虎。而作豐邑,自岐下而徙都豐。明年,西伯崩,太子發立,是為武王。西伯蓋即位五十年。其囚羑里,蓋益易之八卦為六十四卦。詩人道西伯,蓋受命之年稱王而斷虞芮之訟。後十年而崩,謚為文王。改法度,制正朔矣。追尊古公為太王,公季為王季:蓋王瑞自太王興。武王即位,太公望為師,周公旦為輔,召公、畢公之徒左右王,師修文王緒業。九年,武王上祭于畢。東觀兵,至于盟津。為文王木主,載以車,中軍。武王自稱太子發,言奉文王以伐,不敢自專。乃告司馬、司徒、司空、諸節:「齊栗,信哉!予無知,以先祖有德臣,小子受先功,畢立賞罰,以定其功。」遂興師。師尚父號曰:「總爾眾庶,與爾舟楫,後至者斬。」武王渡河,中流,白魚躍入王舟中,武王俯取以祭。既渡,有火自上復于下,至于王屋,流為烏,其色赤,其聲魄云。是時,諸侯不期而會盟津者八百諸侯。諸侯皆曰:「紂可伐矣。」武王曰:「女未知天命,未可也。」乃還師歸。居二年,聞紂昏亂暴虐滋甚,殺王子比干,囚箕子。太師疵、少師彊抱其樂器而奔周。

新字:明年,伐犬戎。明年,伐密須。明年,敗耆国。殷之祖伊聞之,懼,以告帝紂。紂曰:「不有天命乎?是何能為!」明年,伐邘。明年,伐崇侯虎。而作豊邑,自岐下而徙都豊。明年,西伯崩,太子発立,是為武王。西伯蓋即位五十年。其囚羑里,蓋益易之八卦為六十四卦。詩人道西伯,蓋受命之年称王而断虞芮之訟。後十年而崩,謚為文王。改法度,制正朔矣。追尊古公為太王,公季為王季:蓋王瑞自太王興。武王即位,太公望為師,周公旦為輔,召公、畢公之徒左右王,師修文王緒業。九年,武王上祭于畢。東観兵,至于盟津。為文王木主,載以車,中軍。武王自称太子発,言奉文王以伐,不敢自専。乃告司馬、司徒、司空、諸節:「斉栗,信哉!予無知,以先祖有徳臣,小子受先功,畢立賞罰,以定其功。」遂興師。師尚父号曰:「総爾衆庶,与爾舟楫,後至者斬。」武王渡河,中流,白魚躍入王舟中,武王俯取以祭。既渡,有火自上復于下,至于王屋,流為烏,其色赤,其声魄云。是時,諸侯不期而会盟津者八百諸侯。諸侯皆曰:「紂可伐矣。」武王曰:「女未知天命,未可也。」乃還師帰。居二年,聞紂昏乱暴虐滋甚,殺王子比干,囚箕子。太師疵、少師彊抱其楽器而奔周。

書き下し

明年、犬戎を伐つ。明年、密須を伐つ。明年、耆国を敗る。殷の祖伊之を聞き、懼れて、以て帝紂に告ぐ。紂曰く、「天命有らずや。是れ何をか能く為さん」と。明年、邘を伐つ。明年、崇侯虎を伐つ。而して豊邑を作り、岐下より徙りて豊に都す。明年、西伯崩じ、太子発立つ。是を武王と為す。西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚はるるや、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す。詩人西伯を道ふに、蓋し命を受けし年に王を称して虞・芮の訟を断ずと。後十年にして崩じ、謚して文王と為す。法度を改め、正朔を制す。古公を追尊して太王と為し、公季を王季と為す。蓋し王の瑞は太王より興る。武王即位し、太公望を師と為し、周公旦を輔と為し、召公・畢公の徒王を左右し、師として文王の緒業を修む。九年、武王上りて畢に祭る。東のかた兵を観し、盟津に至る。文王の木主を為り、載するに車を以てし、中軍とす。武王自ら太子発と称し、文王を奉じて以て伐つと言ひ、敢へて自ら専らにせず。乃ち司馬・司徒・司空・諸節に告ぐ、「斉栗せよ、信なるかな。予無知なれども、先祖に徳臣有るを以て、小子先功を受け、畢く賞罰を立て、以て其の功を定めん」と。遂に師を興す。師尚父号して曰く、「爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与にせよ。後れて至る者は斬らん」と。武王河を渡り、中流にして、白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る。既に渡るに、火有りて上より下に復り、王屋に至りて、流れて烏と為る。其の色赤く、其の声魄なりと云ふ。是の時、諸侯期せずして盟津に会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「女未だ天命を知らず、未だ可ならず」と。乃ち師を還して帰る。居ること二年、紂の昏乱暴虐滋甚だしく、王子比干を殺し、箕子を囚ふと聞く。太師疵・少師彊其の楽器を抱きて周に奔る。

現代語訳

翌年、西伯は犬戎を討った。その翌年、密須を討った。その翌年、耆国を破った。殷の祖伊はこれを聞いて恐れ、帝紂に告げた。紂は言った。「私には天命があるではないか。こいつに何ができるものか。」翌年、邘を討った。その翌年、崇侯虎を討った。そして豊邑を築き、岐山のふもとから移って豊に都を置いた。翌年、西伯が崩じ、太子の発が立った。これが武王である。西伯はおよそ五十年在位した。羑里に閉じ込められていたとき、易の八卦を重ねて六十四卦にしたといわれる。詩人が西伯を歌ったところによれば、天命を受けた年に王を称し、虞と芮の二国の争いを裁いたという。その後十年で崩じ、文王と諡された。法度を改め、暦の正月を定めた。古公を追尊して太王とし、公季を王季とした。王者のしるしは太王の時から現れていたのであろう。武王が即位すると、太公望を師とし、周公旦を補佐役とし、召公・畢公らが王の左右で支え、文王が遺した事業を手本として修めた。九年、武王は畢に登って(文王の墓を)祭った。東へ向かって軍威を示し、盟津に至った。文王の位牌を作って車に載せ、中軍に置いた。武王は自ら太子発と称し、文王の命を奉じて討伐するのだと言って、自分一人の判断で行うのではないことを示した。そこで司馬・司徒・司空や諸将に告げた。「身を引き締めて慎み、誠実であれ。私は無知であるが、先祖に徳ある臣がいたおかげで、若輩ながら先人の功業を受け継いだ。賞罰をすべて定め、それによって功績を決めよう。」こうして軍を起こした。師尚父(太公望)は号令して言った。「おまえたちの兵をまとめ、舟と櫂をそろえよ。遅れて到着した者は斬る。」武王が黄河を渡り、川の中ほどまで来たとき、白い魚が跳ねて王の舟の中に飛び込んだ。武王は身をかがめてそれを取り、祭った。渡り終えると、火が天から降りてきて王の宿舎に至り、流れて烏となった。その色は赤く、その鳴き声は落ち着いていたという。このとき、約束もしていないのに盟津に集まった諸侯は八百に及んだ。諸侯はみな「紂を討つべきだ」と言った。武王は「おまえたちはまだ天命を知らない。まだその時ではない」と言って、軍を引き返して帰った。それから二年、紂の乱れと暴虐がますますひどくなり、王子比干を殺し、箕子を捕らえたと聞いた。太師の疵と少師の彊は楽器を抱えて周に逃げてきた。

解説

文王の晩年と武王の即位、そして盟津での観兵を描く段です。文王は周囲の国々を一年に一つずつ討って足場を固め、豊に都を移しました。殷の祖伊が警告しても、紂は「天命があるのに何ができる」と取り合いません。文王の死後、武王は太公望・周公旦・召公・畢公という人材に支えられて即位します。武王が文王の位牌を車に載せて中軍に置き、「文王の命を奉じて討つのであり、自分一人の判断ではない」と示した点は見逃せません。若い後継者が先代の権威を借りて組織をまとめる知恵です。そして盟津に八百もの諸侯が自発的に集まり「紂を討つべきだ」と迫っても、武王は「まだ天命を知らない」と兵を引きました。勢いに乗って動くのではなく、機が熟すのを待ったのです。二年後、比干が殺され、殷の楽官まで逃げてくるに至って、ようやく時が来ます。周りが盛り上がっているときこそ、本当に機が熟したかを冷静に見極める判断が問われます。

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