史記 / 劉敬叔孫通列伝
若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐稱公主,彼亦知,不肯貴近,無益也。」高帝曰:「善。」欲遣長公主。呂后日夜泣,曰:「妾唯太子、一女,柰何棄之匈奴!」上竟不能遣長公主,而取家人子名為長公主,妻單于。使劉敬往結和親約。劉敬從匈奴來,因言「匈奴河南白羊、樓煩王,去長安近者七百里,輕騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益實。夫諸侯初起時,非齊諸田,楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都關中,實少人。北近胡寇,東有六國之族,宗彊,一日有變,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙齊諸田,楚昭、屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中。無事,可以備胡;諸侯有變,亦足率以東伐。此彊本弱末之術也」。上曰:「善。」乃使劉敬徙所言關中十餘萬口。叔孫通者,薛人也。秦時以文學徵,待詔博士。數歲,陳勝起山東,使者以聞,二世召博士諸儒生問曰:「楚戍卒攻蘄入陳,於公如何?」博士諸生三十餘人前曰:「人臣無將,將即反,罪死無赦。願陛下急發兵擊之。」二世怒,作色。叔孫通前曰:「諸生言皆非也。夫天下合為一家,毀郡縣城,鑠其兵,示天下不復用。且明主在其上,法令具於下,使人人奉職,四方輻輳,安敢有反者!
新字:若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐称公主,彼亦知,不肯貴近,無益也。」高帝曰:「善。」欲遣長公主。呂后日夜泣,曰:「妾唯太子、一女,柰何棄之匈奴!」上竟不能遣長公主,而取家人子名為長公主,妻単于。使劉敬往結和親約。劉敬従匈奴来,因言「匈奴河南白羊、楼煩王,去長安近者七百里,軽騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益実。夫諸侯初起時,非斉諸田,楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都関中,実少人。北近胡寇,東有六国之族,宗彊,一日有変,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙斉諸田,楚昭、屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居関中。無事,可以備胡;諸侯有変,亦足率以東伐。此彊本弱末之術也」。上曰:「善。」乃使劉敬徙所言関中十余万口。叔孫通者,薛人也。秦時以文学徴,待詔博士。数歳,陳勝起山東,使者以聞,二世召博士諸儒生問曰:「楚戍卒攻蘄入陳,於公如何?」博士諸生三十余人前曰:「人臣無将,将即反,罪死無赦。願陛下急発兵撃之。」二世怒,作色。叔孫通前曰:「諸生言皆非也。夫天下合為一家,毀郡県城,鑠其兵,示天下不復用。且明主在其上,法令具於下,使人人奉職,四方輻輳,安敢有反者!
書き下し
若し陛下長公主を遣はす能はずして、宗室及び後宮をして詐りて公主と稱せしめば、彼も亦知りて、貴び近づくることを肯ぜず、益無きなり」と。高帝曰く、「善し」と。長公主を遣はさんと欲す。呂后日夜泣きて曰く、「妾唯だ太子と一女とのみ。柰何ぞ之を匈奴に棄てん」と。上竟に長公主を遣はす能はずして、家人の子を取りて長公主と名づけ、單于に妻はす。劉敬をして往きて和親の約を結ばしむ。劉敬匈奴より來り、因りて言ふ、「匈奴の河南の白羊・樓煩王、長安を去ること近き者は七百里、輕騎一日一夜にして以て秦中に至るべし。秦中は新たに破れ、民少なけれども、地は肥饒にして、益々實たすべし。夫れ諸侯初めて起こる時、齊の諸田、楚の昭・屈・景に非ざれば興る能ふ莫し。今陛下關中に都すと雖も、實は人少なし。北は胡寇に近く、東には六國の族有り、宗彊し。一日變有らば、陛下も亦未だ枕を高くして臥すを得ざるなり。臣願はくは陛下、齊の諸田、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の後、及び豪桀名家を徙して關中に居らしめよ。事無ければ、以て胡に備ふべく、諸侯變有らば、亦率ゐて以て東伐するに足る。此れ本を彊くして末を弱むるの術なり」と。上曰く、「善し」と。乃ち劉敬をして言ふ所の關中に徙すこと十餘萬口ならしむ。叔孫通は、薛の人なり。秦の時文學を以て徵され、博士に待詔す。數歲にして、陳勝山東に起こる。使者以て聞す。二世、博士諸儒生を召して問ひて曰く、「楚の戍卒蘄を攻めて陳に入る。公に於いて如何」と。博士諸生三十餘人前みて曰く、「人臣は將(はか)ること無し。將らば即ち反なり。罪死して赦す無し。願はくは陛下急ぎ兵を發して之を擊て」と。二世怒りて色を作す。叔孫通前みて曰く、「諸生の言は皆非なり。夫れ天下合して一家と為り、郡縣の城を毀ち、其の兵を鑠かし、天下に復た用ゐざるを示す。且つ明主其の上に在り、法令其の下に具はり、人人をして職を奉ぜしめ、四方輻輳す。安んぞ敢へて反する者有らんや。
現代語訳
「もし陛下が長公主をお遣わしになれず、皇族の娘や後宮の女を偽って公主と称させたなら、冒頓もそれを見抜き、重んじて近づけようとはしないので、益はありません。」高帝は「よし」と言って、長公主を遣わそうとした。すると呂后が日夜泣いて言った。「わたしには太子と娘一人しかおりません。どうしてその娘を匈奴に捨てられましょう。」高帝は結局長公主を遣わすことができず、良家の娘を取って長公主と名づけ、単于に嫁がせた。そして劉敬を遣わして和親の盟約を結ばせた。劉敬は匈奴から戻ると、こう進言した。「匈奴の黄河以南にいる白羊王と楼煩王は、長安から近いところでわずか七百里で、軽騎兵なら一昼夜で秦中(関中)に着く。秦中は戦乱で荒れたばかりで民が少ないのですが、土地は肥えているので、人を増やして満たすことができる。そもそも諸侯が秦に反旗を翻したとき、斉の田氏一族や楚の昭・屈・景の三氏でなければ、勢いを起こせませんでした。いま陛下は関中に都を置かれましたが、実際には人が少ない。北は匈奴の侵入に近く、東には旧六国の一族がいて、その宗族は強大だ。ひとたび変事が起これば、陛下も枕を高くして眠ることはできません。どうか陛下、斉の田氏一族、楚の昭・屈・景氏、燕・趙・韓・魏の王族の子孫、および各地の豪傑や名家を関中に移住させてください。何事もなければ匈奴への備えとなり、諸侯に変事があれば、彼らを率いて東方を討つのにも足りる。これこそ根本を強くし末端を弱める術だ。」高帝は「よし」と言い、劉敬に命じて、その言うとおり十万余りの人々を関中に移住させた。叔孫通(しゅくそんとう)は薛の人である。秦の時代に学問によって召され、博士の候補として詔を待つ身となった。数年たって陳勝が山東で挙兵し、使者がその報告をもたらした。二世皇帝は博士や儒学者たちを呼んで尋ねた。「楚の守備兵が蘄を攻めて陳に入ったというが、おまえたちはどう見るか。」博士や学者三十余人が進み出て言った。「臣下たる者は謀反を企てることは許されません。企てればそれはすなわち反逆であり、死罪にあたり赦されるものではありません。どうか陛下、急いで兵を出して討ってください。」二世は怒って顔色を変えた。叔孫通が進み出て言った。「皆の言うことはすべて間違いだ。そもそも天下は一つの家となり、郡県の城壁は取り壊され、武器は溶かされて、天下にもはや兵を用いないことが示されている。しかも上には明君がおられ、下には法令が備わり、人々はそれぞれ職務に励み、四方から物も人も中央に集まっている。どうして反逆する者などおりましょうか。
解説
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史記 劉敬叔孫通列伝高帝平城を罷めて歸り、韓王信亡げて胡に入る。是の時に當たりて、冒頓單于と為り、兵彊く、控弦三十萬、數々北邊を苦しむ。上之を患へ、劉敬に問ふ。劉敬曰く、「天下初めて定まり、士卒兵に罷れたれば、未だ武を以て服すべからざるなり。冒頓は父を殺して代はり立ち、群母を妻とし、力を以て威と為す。未だ仁義を以て說くべからざるなり。獨だ計を以て久遠にして子孫を臣と為すべきのみ。然れども恐らくは陛下為す能はざらん」と。上曰く、「誠に可ならば、何為れぞ能はざらん。顧(ただ)柰何(いかん)と為すか」と。劉敬對へて曰く、「陛下誠に能く適長公主を以て之に妻(めあ)はせ、厚く奉じて之に遺らば、彼漢の適女にして送ること厚きを知り、蠻夷必ず慕ひて以て閼氏(えんし)と為し、子を生まば必ず太子と為し、單于に代はらしめん。何となれば、漢の重幣を貪ればなり。陛下歲時に漢の餘る所彼の鮮き所を以て數々問遺し、因りて辯士をして禮節を風諭せしめよ。冒頓在らば、固より子婿為り。死せば、則ち外孫單于と為る。豈に嘗て外孫の敢へて大父と禮を抗する者を聞かんや。兵は戰ふこと無くして以て漸く臣とすべきなり。
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史記 劉敬叔孫通列伝此れ特だ群盜の鼠竊狗盜のみ。何ぞ之を齒牙の閒に置くに足らん。郡守尉今捕へて論ぜん。何ぞ憂ふるに足らん」と。二世喜びて曰く、「善し」と。盡く諸生に問ふに、諸生或いは反と言ひ、或いは盜と言ふ。是に於いて二世御史をして諸生の反と言ふ者を案じて吏に下さしむ。宜しく言ふべき所に非ざればなり。諸々の盜と言ふ者は皆之を罷む。乃ち叔孫通に帛二十匹、衣一襲を賜ひ、拜して博士と為す。叔孫通已に宮を出でて、舍に反る。諸生曰く、「先生何ぞ言の諛へるや」と。通曰く、「公は知らざるなり。我幾ど虎口を脫せざらんとす」と。乃ち亡げ去りて薛に之く。薛已に楚に降れり。項梁の薛に之くに及び、叔孫通之に從ふ。定陶に敗れ、懷王に從ふ。懷王義帝と為り、長沙に徙さる。叔孫通留まりて項王に事ふ。漢の二年、漢王五諸侯に從ひて彭城に入る。叔孫通漢王に降る。漢王敗れて西す。因りて竟に漢に從ふ。叔孫通儒服す。漢王之を憎む。乃ち其の服を變じ、短衣を服す。楚の製なり。漢王喜ぶ。叔孫通の漢に降るや、儒生弟子百餘人を從ふ。然れども通言ひて進むる所無く、專ら諸々の故の群盜壯士を言ひて之を進む。弟子皆竊かに罵りて曰く、「先生に事ふること數歲、幸ひに從ひて漢に降るを得たり。今臣等を進むる能はずして、專ら大猾を言ふは、何ぞや」と。叔孫通之を聞き、乃ち謂ひて曰く、「漢王方に矢石を蒙りて天下を爭ふ。諸生寧ぞ能く鬬はんや。故に先づ將を斬り旗を搴(と)るの士を言ふ。諸生且く我を待て。我忘れず」と。漢王叔孫通を拜して博士と為し、稷嗣君と號す。
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