史記 / 田敬仲完世家
田忌曰:「弗救,則韓且折而入於魏,不如蚤救之。」孫子曰:「夫韓、魏之兵未獘而救之,是吾代韓受魏之兵,顧反聽命於韓也。且魏有破國之志,韓見亡,必東面而愬於齊矣。吾因深結韓之親而晩承魏之獘,則可重利而得尊名也。」宣王曰:「善。」乃陰告韓之使者而遣之。韓因恃齊,五戰不勝,而東委國於齊。齊因起兵,使田忌、田嬰將,孫子爲師,救韓、趙以撃魏,大敗之馬陵,殺其將龐涓,虜魏太子申。其後三晉之王皆因田嬰朝齊王於博望,盟而去。七年,與魏王會平阿南。明年,復會甄。魏惠王卒。明年,與魏襄王會徐州,諸侯相王也。十年,楚圍我徐州。十一年,與魏伐趙,趙決河水灌齊、魏,兵罷。十八年,秦惠王稱王。宣王喜文學游説之士,自如騶衍、淳于髡、田駢、接子、愼到、環淵之徒七十六人,皆賜列第,爲上大夫,不治而議論。是以齊稷下學士復盛,且數百千人。十九年,宣王卒,子湣王地立。湣王元年,秦使張儀與諸侯執政會于齧桑。三年,封田嬰於薛。四年,迎婦于秦。七年,與宋攻魏,敗之觀澤。十二年,攻魏。楚圍雍氏,秦敗屈丐。蘇代謂田軫曰:「臣願有謁於公,其爲事甚完,使楚利公,成爲福,不成亦爲福。
新字:田忌曰:「弗救,則韓且折而入於魏,不如蚤救之。」孫子曰:「夫韓、魏之兵未獘而救之,是吾代韓受魏之兵,顧反聴命於韓也。且魏有破国之志,韓見亡,必東面而愬於斉矣。吾因深結韓之親而晩承魏之獘,則可重利而得尊名也。」宣王曰:「善。」乃陰告韓之使者而遣之。韓因恃斉,五戦不勝,而東委国於斉。斉因起兵,使田忌、田嬰将,孫子為師,救韓、趙以撃魏,大敗之馬陵,殺其将龐涓,虜魏太子申。其後三晋之王皆因田嬰朝斉王於博望,盟而去。七年,与魏王会平阿南。明年,復会甄。魏恵王卒。明年,与魏襄王会徐州,諸侯相王也。十年,楚囲我徐州。十一年,与魏伐趙,趙決河水灌斉、魏,兵罷。十八年,秦恵王称王。宣王喜文学游説之士,自如騶衍、淳于髡、田駢、接子、慎到、環淵之徒七十六人,皆賜列第,為上大夫,不治而議論。是以斉稷下学士復盛,且数百千人。十九年,宣王卒,子湣王地立。湣王元年,秦使張儀与諸侯執政会于齧桑。三年,封田嬰於薛。四年,迎婦于秦。七年,与宋攻魏,敗之観沢。十二年,攻魏。楚囲雍氏,秦敗屈丐。蘇代謂田軫曰:「臣願有謁於公,其為事甚完,使楚利公,成為福,不成亦為福。
書き下し
田忌曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘れずして之を救はば、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受け、顧って反りて命を韓に聴くなり。且つ魏に国を破るの志有り。韓亡びんとするを見ば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親しみを結びて晩く魏の獘を承けば、則ち利を重ねて尊名を得べきなり」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、東のかた国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、大いに之を馬陵に敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜にす。其の後三晋の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟ひて去る。七年、魏王と平阿の南に会す。明年、復た甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王とす。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏に灌ぐ。兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。宣王文学游説の士を喜ぶ。騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒の如きより七十六人、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論せしむ。是を以て斉の稷下の学士復た盛んにして、且に数百千人ならんとす。十九年、宣王卒し、子湣王地立つ。湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲む。秦屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁する有らん。其の事を為すこと甚だ完し。楚をして公を利せしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為さん。
現代語訳
田忌は言った。「救わなければ、韓は折れて魏につくだろう。早く救うほうがよい」。孫子(孫臏)は言った。「韓と魏の兵がまだ疲れていないうちに救えば、わが国が韓に代わって魏の兵を引き受けることになり、かえって韓の言いなりになってしまう。それに魏には韓の国を滅ぼそうという意志がある。韓は滅びそうになれば、必ず東を向いて斉に助けを訴えてくるだろう。わが国はそこで韓と深く親交を結び、遅れて魏の疲弊に乗じれば、大きな利益を重ね、尊い名声も得られる」。宣王は「よろしい」と言い、ひそかに韓の使者に(救援すると)告げて帰らせた。韓は斉を頼みにして魏と五度戦ったが勝てず、東を向いて国の命運を斉に委ねた。斉はそこで兵を起こし、田忌と田嬰(でんえい)を将とし、孫子を軍師として、韓・趙を救って魏を撃ち、馬陵で大いに破り、魏の将の龐涓を殺し、魏の太子申を捕虜にした。その後、三晋の王はみな田嬰の仲立ちで博望で斉王に朝見し、盟約を結んで帰った。七年、魏王と平阿の南で会見した。翌年、再び甄で会見した。魏の恵王が死んだ。翌年、魏の襄王と徐州で会見し、諸侯が互いに王と認め合った。十年、楚がわが徐州を包囲した。十一年、魏と共に趙を討った。趙は黄河の堤を切って斉・魏の軍に水を注いだので、兵を引き上げた。十八年、秦の恵王が王と称した。宣王は学問や弁論の士を好んだ。騶衍・淳于髡・田駢(でんべん)・接子(せつし)・慎到(しんとう)・環淵(かんえん)らをはじめ七十六人に、みな邸宅を与えて上大夫とし、政務を執らせずに議論させた。そのため斉の稷下(しょくか)の学者たちは再び盛んになり、数百人から千人にも及ぼうとした。十九年、宣王が死に、子の湣王地(ち)が立った。湣王の元年、秦は張儀に諸侯の執政たちと齧桑で会見させた。三年、田嬰を薛に封じた。四年、秦から妻を迎えた。七年、宋と共に魏を攻め、観沢で破った。十二年、魏を攻めた。楚が雍氏を包囲した。秦が楚の屈丐を破った。蘇代が田軫(でんしん)に言った。「わたしはあなたに申し上げたいことがある。その策はまことに万全で、楚にあなたの利益を図らせるもので、成功すれば福となり、成功しなくてもやはり福となるものだ。
解説
関連する章句
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史記 孫子呉起列伝後十三歳、魏と趙、韓を攻む。韓、急を斉に告ぐ。斉、田忌をして将として往かしめ、直ちに大梁に走る。魏の将龐涓、之を聞き、韓を去りて帰る。斉の軍既に已に過ぎて西す。孫子、田忌に謂ひて曰く、「彼の三晋の兵は素悍勇にして斉を軽んじ、斉をば号して怯と為す。善く戦ふ者は其の勢いに因りて之を利導す。兵法に、百里にして利に趣く者は上将を蹶し、五十里にして利に趣く者は軍半ば至る、と。斉の軍をして魏の地に入りて十万の竈を為り、明日五万の竈を為り、又明日三万の竈を為らしめよ」と。龐涓、行くこと三日、大いに喜びて曰く、「我固より斉の軍の怯なるを知る。吾が地に入りて三日、士卒の亡ぐる者半ばを過ぐ」と。乃ち其の歩軍を棄て、其の軽鋭と倍日并行して之を逐ふ。孫子、其の行を度るに、暮に当に馬陵に至るべし、と。馬陵の道陜くして旁ら阻隘多く、兵を伏す可し。乃ち大樹を斫り白げて之に書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉の軍の善く射る者萬弩をして、道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見て倶に発せよ」と。龐涓果たして夜、斫木の下に至り、白書を見、乃ち火を鑽りて之を燭す。其の書を読むこと未だ畢らざるに、斉の軍の萬弩倶に発す。魏の軍大いに乱れて相ひ失す。龐涓、自ら智窮まり兵敗るるを知り、乃ち自剄して曰く、「遂に豎子の名を成せり」と。斉、因りて勝ちに乗じて尽く其の軍を破り、魏の太子申を虜にして以て帰る。孫臏、此れを以て名、天下に顕れ、世、其の兵法を伝ふ。
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史記 魏世家宋の黄池を侵す。宋復た之を取る。十七年、秦と元裏に戦ひ、秦我が少梁を取る。趙の邯鄲を囲む。十八年、邯鄲を抜く。趙救ひを斉に請ふ。斉、田忌・孫臏をして趙を救はしめ、魏を桂陵に敗る。十九年、諸侯我が襄陵を囲む。長城を築き、固陽を塞ぐ。廿年、趙に邯鄲を帰し、与に漳水の上に盟ふ。廿一年、秦と彤に会す。趙の成侯卒す。廿八年、斉の威王卒す。中山君魏に相たり。卅年、魏趙を伐つ。趙急を斉に告ぐ。斉の宣王孫子の計を用ひ、趙を救ひて魏を撃つ。魏遂に大いに師を興し、龐涓をして将たらしめ、而して太子申をして上将軍と為らしむ。外黄を過る。外黄の徐子太子に謂ひて曰く、『臣に百戦百勝の術有り』と。太子曰く、『聞くことを得べきか』と。客曰く、『固より之を效さんことを願ふ』と。曰く、『太子自ら将として斉を攻め、大いに勝ちて莒を并すとも、則ち富は魏を有つに過ぎず、貴は王と為るに益さず。若し戦ひて斉に勝たずんば、則ち万世魏無からん。此れ臣の百戦百勝の術なり』と。太子曰く、『諾。請ふ必ず公の言に従ひて還らん』と。客曰く、『太子還らんと欲すと雖も、得ざらん。彼の太子に戦攻を勧めて、汁を啜らんと欲する者衆し。太子還らんと欲すと雖も、恐らくは得ざらん』と。太子因りて還らんと欲す。其の御曰く、『将として出でて還るは、北ぐると同じ』と。太子果たして斉人と戦ひ、馬陵に敗る。斉、魏の太子申を虜にし、将軍涓を殺し、軍遂に大いに破る。卅一年、秦・趙・斉共に我を伐つ。秦の将商君、我が将軍公子卬を詐りて其の軍を襲奪し、之を破る。秦商君を用ひ、東地河に至り、而して斉・趙数々我を破る。安邑秦に近し。是に於て徙りて大梁に治す。公子赫を以て太子と為す。卅三年、秦の孝公卒し、商君秦を亡げて魏に帰す。魏怒り、入れず。卅五年、斉の宣王と平阿の南に会す。恵王数々軍旅に被り、礼を卑くし幣を厚くして以て賢者を招く。
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史記 田敬仲完世家二十六年、魏の恵王邯鄲を囲む。趙救ひを斉に求む。斉の威王大臣を召して謀りて曰く、「趙を救ふと救ふ勿きと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。段干朋曰く、「救はずんば則ち不義にして、且つ不利なり」と。威王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を并せば、其の斉に於て何の利かあらん。且つ夫れ趙を救ひて其の郊に軍せば、是れ趙伐たれずして魏全し。故に南のかた襄陵を攻めて以て魏を獘らし、邯鄲抜けて魏の獘に乗ずるに如かず」と。威王其の計に従ふ。其の後成侯騶忌、田忌と善からず。公孫閲、成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ魏を伐たんことを謀らざる。田忌必ず将たらん。戦ひ勝ちて功有らば、則ち公の謀中るなり。戦ひ勝たずんば、前に死せずんば則ち後に北げん。而して命公に在らん」と。是に於て成侯威王に言ひ、田忌をして南のかた襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉因りて兵を起こして魏を撃ち、大いに之を桂陵に敗る。是に於て斉最も諸侯に彊く、自ら称して王と為り、以て天下に令す。三十三年、其の大夫牟辛を殺す。三十五年、公孫閲又成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめざる。曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声天下に威あり。大事を為さんと欲す。亦吉なるか不吉なるか』と」と。卜者出づ。因りて人をして之が為に卜せし者を捕へしめ、其の辞を王の所に験す。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ゐて臨淄を襲攻し、成侯を求むれども、勝たずして奔る。三十六年、威王卒し、子宣王辟彊立つ。宣王元年、秦商鞅を用ふ。周伯を秦の孝公に致す。二年、魏趙を伐つ。趙韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王田忌を召して故の位に復す。韓氏救ひを斉に請ふ。宣王大臣を召して謀りて曰く、「蚤く救ふと晩く救ふと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。
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戦国策・齊魏戰於馬陵齊・魏馬陵に戦い、齊大いに魏に勝ち、太子申を殺し、十万の軍を覆す。魏王惠施を召して之に告げて曰く、「夫れ齊は、寡人の讎(あだ)なり、之を怨むこと死に至るまで忘れず。国小なりと雖も、吾常に悉く兵を起こして之を攻めんと欲す、何如(いかん)」と。対(こた)えて曰く、「不可なり。臣之を聞く、王者は度を得、覇者は計を知る、と。今王の臣に告ぐる所の者は、度に疏(うと)くして計に遠し。王固より先ず怨みを趙に属(つ)けて、而る後齊と戦えり。今戦いて勝たず、国に守戦の備え無くして、王又悉く起こして齊を攻めんと欲す、此れ臣の謂う所に非ざるなり。王若し齊に報いんと欲せば、則ち変服折節して齊に朝するに如かず、楚王必ず怒らん。王游人にして其の鬥(たたか)いを合わせしめば、則ち楚必ず齊を伐たん。休楚を以て罷齊を伐たしめば、則ち必ず楚の禽(とりこ)と為らん。是れ王楚を以て齊を毀(やぶ)るなり」と。魏王曰く、「善し」と。乃ち人をして齊に報ぜしめ、臣畜(しんちく)して朝せんことを願う。田嬰許諾す。張丑曰く、「不可なり。戦いて魏に勝たずして、朝礼を得るは、魏と和して楚を下すなり、此れ以て大勝と為す可し。今戦いて魏に勝ち、十万の軍を覆し、太子申を禽にす。万乗の魏を臣とし、秦・楚を卑(いや)しくす、此れ其の暴なること戾定(れいてい)に於いてなり。且つ楚王の人と為りや、用兵を好みて甚だ名を務む、終に齊の患いと為る者は、必ず楚なり」と。田嬰聴かず、遂に魏王を内(い)れて、之と並びに齊侯に朝すること再三す。趙氏之を醜(は)ず。楚王怒り、自ら将として齊を伐ち、趙之に応じ、大いに齊を徐州に敗る。
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戦国策・田忌為齊將田忌齊の將と爲り、梁の太子申を係し、龐涓を禽にす。孫子田忌に謂ひて曰く、「將軍以て大事を爲すべきか。」田忌曰く、「奈何。」孫子曰く、「將軍兵を解かずして齊に入れ。彼をして先んじて主に守るに罷弊せしめよ。主なる者は、循軼の途なり、鎋摩車を擊ちて相過ぐ。彼をして罷弊して先んじて主に守るに弱くせしめば、必ず一にして十に當り、十にして百に當り、百にして千に當らん。然る後太山を背にし、左は濟、右は天唐にして、軍重ねて高宛を踵み、輕車銳騎をして雍門を衝かしめよ。是くの若くんば、則ち齊君正すべく、成侯走らすべし。然らずんば、則ち將軍齊に入るを得ざらん。」田忌聽かず、果して齊に入らず。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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