史記 / 張丞相列伝
御史大夫薛君免,為御史大夫。于丞相乞骸骨免,而為丞相,因封故邑為扶陽侯。數年,病死。孝元帝親臨喪,賜賞甚厚。子嗣後。其治容容隨世俗浮沈,而見謂諂巧。而相工本謂之當為侯代父,而後失之;復自游宦而起,至丞相。父子俱為丞相,世閒美之,豈不命哉!相工其先知之。韋丞相卒,御史大夫匡衡代。丞相匡衡者,東海人也。好讀書,從博士受詩。家貧,衡傭作以給食飲。才下,數射策不中,至九,乃中丙科。其經以不中科故明習。補平原文學卒史。數年,郡不尊敬。御史徵之,以補百石屬薦為郎,而補博士,拜為太子少傅,而事孝元帝。孝元好詩,而遷為光祿勳,居殿中為師,授教左右,而縣官坐其旁聽,甚善之,日以尊貴。御史大夫鄭弘坐事免,而匡君為御史大夫。歲餘,韋丞相死,匡君代為丞相,封樂安侯。以十年之閒,不出長安城門而至丞相,豈非遇時而命也哉!太史公曰:深惟士之游宦所以至封侯者,微甚。然多至御史大夫即去者。諸為大夫而丞相次也,其心冀幸丞相物故也。或乃陰私相毀害,欲代之。然守之日久不得,或為之日少而得之,至於封侯,真命也夫!御史大夫鄭君守之數年不得,匡君居之未滿歲,而韋丞相死,即代之矣,豈可以智巧得哉!多有賢聖之才,困妯囡者眾甚也。
新字:御史大夫薛君免,為御史大夫。于丞相乞骸骨免,而為丞相,因封故邑為扶陽侯。数年,病死。孝元帝親臨喪,賜賞甚厚。子嗣後。其治容容随世俗浮沈,而見謂諂巧。而相工本謂之当為侯代父,而後失之;復自游宦而起,至丞相。父子倶為丞相,世閒美之,豈不命哉!相工其先知之。韋丞相卒,御史大夫匡衡代。丞相匡衡者,東海人也。好読書,従博士受詩。家貧,衡傭作以給食飲。才下,数射策不中,至九,乃中丙科。其経以不中科故明習。補平原文学卒史。数年,郡不尊敬。御史徴之,以補百石属薦為郎,而補博士,拝為太子少傅,而事孝元帝。孝元好詩,而遷為光禄勲,居殿中為師,授教左右,而県官坐其旁聴,甚善之,日以尊貴。御史大夫鄭弘坐事免,而匡君為御史大夫。歳余,韋丞相死,匡君代為丞相,封楽安侯。以十年之閒,不出長安城門而至丞相,豈非遇時而命也哉!太史公曰:深惟士之游宦所以至封侯者,微甚。然多至御史大夫即去者。諸為大夫而丞相次也,其心冀幸丞相物故也。或乃陰私相毀害,欲代之。然守之日久不得,或為之日少而得之,至於封侯,真命也夫!御史大夫鄭君守之数年不得,匡君居之未満歳,而韋丞相死,即代之矣,豈可以智巧得哉!多有賢聖之才,困妯囡者衆甚也。
書き下し
御史大夫薛君免ぜられ、御史大夫と為る。于丞相骸骨を乞ひて免ぜられ、而して丞相と為り、因りて故の邑に封じて扶陽侯と為す。数年にして、病みて死す。孝元帝親ら喪に臨み、賜賞甚だ厚し。子嗣ぎて後あり。其の治は容容として世俗に随ひて浮沈し、而して諂巧と謂はる。而して相工本之を当に侯と為りて父に代はるべしと謂ひ、而して後之を失ふ。復た自ら游宦して起ち、丞相に至る。父子倶に丞相と為り、世間之を美とす。豈に命ならずや。相工其れ先に之を知る。韋丞相卒し、御史大夫匡衡代はる。丞相匡衡は、東海の人なり。読書を好み、博士に従ひて詩を受く。家貧しく、衡傭作して以て食飲に給す。才下にして、数(しばしば)射策して中らず。九に至りて、乃ち丙科に中る。其の経は科に中らざるの故を以て明習す。平原の文学卒史に補せらる。数年、郡尊敬せず。御史之を徴し、以て百石の属に補し、薦められて郎と為り、而して博士に補せられ、拝して太子少傅と為り、而して孝元帝に事ふ。孝元詩を好み、而して遷りて光禄勲と為り、殿中に居りて師と為り、左右に授教す。而して県官其の旁らに坐して聴き、甚だ之を善しとし、日に以て尊貴なり。御史大夫鄭弘事に坐して免ぜられ、而して匡君御史大夫と為る。歳余にして、韋丞相死し、匡君代はりて丞相と為り、楽安侯に封ぜらる。十年の間を以て、長安の城門を出でずして丞相に至る。豈に時に遇ひて命ならずや。太史公曰く、深く士の游宦して以て封侯に至る所以を惟(おも)ふに、微なること甚だし。然れども多く御史大夫に至りて即ち去る者あり。諸々の大夫為りて丞相の次なる者は、其の心丞相の物故を冀幸するなり。或いは乃ち陰に私かに相毀害して、之に代はらんと欲す。然れども之を守ること日久しくして得ず、或いは之を為すこと日少なくして之を得、封侯に至る。真に命なるかな。御史大夫鄭君之を守ること数年にして得ず、匡君之に居ること未だ歳に満たずして、韋丞相死し、即ち之に代はる。豈に智巧を以て得べけんや。多く賢聖の才有りて、困妯囡なる者衆きこと甚だし。
現代語訳
(韋玄成は)御史大夫の薛君が免ぜられると、御史大夫となった。于丞相が辞職を願い出て退くと丞相となり、もとの封邑によって扶陽侯に封ぜられた。数年後、病死した。孝元帝は自ら葬儀に臨み、下賜品は非常に手厚かった。子が跡を継いだ。その政治はどっちつかずで世俗に合わせて浮き沈みし、へつらいが巧みだと言われた。人相見はもともと、彼は侯となって父の跡を継ぐと言っていたが、その後いったん侯位を失った。しかし再び自ら仕官して身を起こし、丞相に至った。父子そろって丞相となり、世間はこれを美談とした。これこそ運命ではないか。人相見はそれを前もって知っていたのである。韋丞相が死ぬと、御史大夫の匡衡が代わった。丞相匡衡は東海の人である。学問を好み、博士について詩経を学んだ。家が貧しかったので、匡衡は雇われ仕事をして食い扶持をまかなった。才能は劣っていて、何度も射策(経書の試験)を受けても合格せず、九回目にやっと丙科に合格した。何度も不合格になったため、かえって経書に深く通じた。平原郡の文学卒史に任じられたが、数年たっても郡では重んじられなかった。御史が彼を召し出して百石の属官に任じ、推薦されて郎となり、さらに博士に任じられ、太子少傅に任命されて、(のちの)孝元帝に仕えた。孝元帝は詩経を好んだので、匡衡は光禄勲に昇進し、宮殿の中で師として側近たちに教授した。帝はそのそばに座って聞き、大いに気に入って、日ごとに尊ばれるようになった。御史大夫の鄭弘が事件に連座して免ぜられると、匡君が御史大夫となった。一年余りで韋丞相が死ぬと、匡君が代わって丞相となり、楽安侯に封ぜられた。十年の間に、長安の城門を一歩も出ることなく丞相にまで至ったのである。時勢に恵まれたのであり、運命ではないか。太史公は言う。仕官した士人が封侯にまで至る道を深く考えてみると、それはきわめて狭い。多くの者は御史大夫に至ったところで退いてしまう。大夫として丞相の次の地位にある者は、心の中で丞相が死ぬことを願っている。あるいはひそかに互いに中傷し合って、取って代わろうとする。しかし長く待ち続けても得られない者もいれば、就いて間もなく手に入れて封侯にまで至る者もいる。まことに運命である。御史大夫の鄭君は数年その地位を守っても(丞相を)得られず、匡君はその地位に一年も満たないうちに韋丞相が死んで、すぐに代わった。どうして知恵や小細工で得られるものであろうか。賢者・聖人の才がありながら、困窮して報われない者は非常に多いのである。
解説
関連する章句
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史記 張丞相列伝孝武の時の丞相多甚にして、記さず。其の行・起居の状略を録する莫し。且(しばら)く征和以来を紀す。車丞相有り、長陵の人なり。卒して韋丞相代はる有り。韋丞相賢は、魯の人なり。読書の術を以て吏と為り、大鴻臚に至る。相工有りて之を相て、当に丞相に至るべしと。男四人有り、相工をして之を相せしむ。第二子に至る。其の名は玄成。相工曰く、「此の子貴く、当に封ぜらるべし」と。韋丞相言ひて曰く、「我即ち丞相と為るとも、長子有り。是れ安くより之を得ん」と。後竟に丞相と為り、病みて死す。而して長子罪有りて論ぜられ、嗣ぐを得ず。而して玄成を立つ。玄成時に佯狂して、立つことを肯んぜず。竟に之を立て、国を譲るの名有り。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。韋丞相卒し、魏丞相代はる有り。魏丞相相は、済陰の人なり。文吏を以て丞相に至る。其の人武を好み、皆諸吏をして剣を帯びしめ、剣を帯びて前みて事を奏せしむ。或いは剣を帯びざる者有りて、当に入りて事を奏すべきときは、乃ち剣を借りて敢へて入りて事を奏するに至る。其の時京兆尹趙君、丞相奏して以て罪を免ぜしむ。人をして魏丞相を執へしめ、罪を脱るるを求めんと欲すれども聴かれず。復た人をして魏丞相を脅恐せしめ、夫人の待婢を賊殺せし事を以て私かに独り奏して之を験せんことを請ひ、吏卒を発して丞相の舎に至らしめ、奴婢を捕へて笞撃して之を問ふ。実は兵刃を以て殺さざるなり。而して丞相司直繁君、京兆尹趙君の丞相を迫脅し、誣ふるに夫人の婢を賊殺せしを以てし、吏卒を発して丞相の舎を囲捕するは、不道なりと奏す。又擅に騎士を屏(しりぞ)くる事を得、趙京兆坐して要斬せらる。又掾陳平等をして中尚書を劾せしむる有り。疑ふらくは独り劫を擅にする事を以てして之に坐せしむと。大不敬にして、長史以下皆坐して死し、或いは蚕室に下さる。而して魏丞相竟に丞相を以て病みて死す。子嗣ぐ。
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史記 張丞相列伝後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。魏丞相卒し、御史大夫邴吉を以て代はらしむ。邴丞相吉は、魯国の人なり。読書して法令を好むを以て御史大夫に至る。孝宣帝の時、旧故有るを以て、封ぜられて列侯と為り、而して因りて丞相と為る。事に明らかにして、大智有り。後世之を称す。丞相を以て病みて死す。子顕嗣ぐ。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、列侯を失ひ、故の国邑を食むを得。顕は吏と為りて太僕に至り、官の秏乱し、身及び子男に姦贓有るに坐して、免ぜられて庶人と為る。邴丞相卒し、黄丞相代はる。長安中に善く相する工の田文なる者有り。韋丞相・魏丞相・邴丞相の微賤なる時に客家に会す。田文言ひて曰く、「今此の三君は、皆丞相なり」と。其の後三人竟に更(こもごも)相代はりて丞相と為る。何ぞ見ることの明らかなるや。黄丞相霸は、淮陽の人なり。読書を以て吏と為り、潁川の太守に至る。潁川を治むるに、礼義条教を以て喩告して之を化す。法を犯す者は、風曉して自殺せしむ。化大いに行はれ、名声聞こゆ。孝宣帝制を下して曰く、「潁川の太守霸、詔令を宣布するを以て民を治め、道に遺ちたるを拾はず、男女路を異にし、獄中に重囚無し。爵関内侯、黄金百斤を賜ふ」と。徴されて京兆尹と為りて丞相に至り、復た礼義を以て治を為す。丞相を以て病みて死す。子嗣ぎ、後列侯と為る。黄丞相卒し、御史大夫于定国を以て代はらしむ。于丞相は已に廷尉伝有り、張廷尉の語中に在り。于丞相去り、御史大夫韋玄成代はる。韋丞相玄成は、即ち前の韋丞相の子なり。父に代はり、後列侯を失ふ。其の人少き時に読書を好み、詩・論語に明らかなり。吏と為りて衛尉に至り、徙りて太子太傅と為る。
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