都鄙問答 / 卷之一・都鄙問答ノ段
聖人ハ人倫ノ至ナリ、如是君子大德ノ行跡ヲ見、此ヲ法トシテ、五倫ノ道ヲ敎、天ノ命ゼル職分ヲ知セ、力行トキハ、身脩テ家齊、國治テ天下平ナリ、孟子曰、遵先王之法而過者未之有、又曰、天下言性故而已、故以利爲本、其性ト云ハ、人ヨリ禽獸草木マデ、天ニ受得テ以テ生ズル理ナリ、松ハ綠ニ、櫻ハ花、羽アル物ハ空ヲ飛、鱗アル物ハ水ヲ泳、日月ノ天ニ懸モ皆一理ナリ、去年ノ四季ノ行ルヽヲ見テ、今年ヲ知リ、昨日ノ事ヲ見テ、今日ヲ知ル、コレ卽所謂故ヲ見テ、天下ノ性ヲ知ト云所ナリ、性ヲ知ル時ハ、五常五倫ノ道ハ、其中ニ備レリ、中庸ニ、所謂天命之謂性、率性之謂道、性ヲ知ラズシテ、性ニ率コトハ得ラルベキニアラズ、性ヲ知ルハ、學問ノ綱領ナリ、我怪コトヲ語ニアラズ、堯舜萬世ノ法トナリ玉フモ、是率性而已、故ニ心ヲ知ルヲ學問ノ初メト云、然ルヲ心性ノ沙汰ヲ除、外ニ至極ノ學問有コトヲ知ラズ、萬事ハ皆心ヨリナス、心ハ身ノ主ナリ、主ナキ身トナラバ、山野ニ捨、死人ニ同ジ、其主ヲ知ラスル敎ナルヲ、異端ト云ハ如何ナルコトゾヤ、
新字:聖人ハ人倫ノ至ナリ、如是君子大徳ノ行跡ヲ見、此ヲ法トシテ、五倫ノ道ヲ教、天ノ命ゼル職分ヲ知セ、力行トキハ、身脩テ家斉、国治テ天下平ナリ、孟子曰、遵先王之法而過者未之有、又曰、天下言性故而已、故以利為本、其性ト云ハ、人ヨリ禽獣草木マデ、天ニ受得テ以テ生ズル理ナリ、松ハ緑ニ、桜ハ花、羽アル物ハ空ヲ飛、鱗アル物ハ水ヲ泳、日月ノ天ニ懸モ皆一理ナリ、去年ノ四季ノ行ルヽヲ見テ、今年ヲ知リ、昨日ノ事ヲ見テ、今日ヲ知ル、コレ即所謂故ヲ見テ、天下ノ性ヲ知ト云所ナリ、性ヲ知ル時ハ、五常五倫ノ道ハ、其中ニ備レリ、中庸ニ、所謂天命之謂性、率性之謂道、性ヲ知ラズシテ、性ニ率コトハ得ラルベキニアラズ、性ヲ知ルハ、学問ノ綱領ナリ、我怪コトヲ語ニアラズ、堯舜万世ノ法トナリ玉フモ、是率性而已、故ニ心ヲ知ルヲ学問ノ初メト云、然ルヲ心性ノ沙汰ヲ除、外ニ至極ノ学問有コトヲ知ラズ、万事ハ皆心ヨリナス、心ハ身ノ主ナリ、主ナキ身トナラバ、山野ニ捨、死人ニ同ジ、其主ヲ知ラスル教ナルヲ、異端ト云ハ如何ナルコトゾヤ、
書き下し
聖人は人倫の至りなり。是の如く君子大徳の行跡を見、此を法として、五倫の道を教へ、天の命ぜる職分を知らせ、力め行ふときは、身脩まりて家斉ひ、国治まりて天下平らかなり。孟子曰く、先王の法に遵ひて過つ者は未だ之有らず、と。又曰く、天下の性を言ふや、故のみ、故は利を以て本と為す、と。其の性と云ふは、人より禽獣草木まで、天に受け得て以て生ずる理なり。松は緑に、桜は花、羽ある物は空を飛び、鱗ある物は水を泳ぎ、日月の天に懸かるも皆一理なり。去年の四季の行はるるを見て、今年を知り、昨日の事を見て、今日を知る。これ即ち所謂故を見て、天下の性を知ると云ふ所なり。性を知る時は、五常五倫の道は、其の中に備はれり。中庸に、所謂天の命ずる之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。性を知らずして、性に率ふことは得らるべきにあらず。性を知るは、学問の綱領なり。我怪しきことを語るにあらず。堯舜万世の法となり玉ふも、是れ性に率ふのみ。故に心を知るを学問の初めと云ふ。然るを心性の沙汰を除き、外に至極の学問有ることを知らず。万事は皆心よりなす。心は身の主なり。主なき身とならば、山野に捨つる死人に同じ。其の主を知らする教へなるを、異端と云ふは如何なることぞや。
現代語訳
「聖人は人の倫理の極みです。このように君子の大いなる徳の跡を見てこれを手本とし、五倫の道を教え、天が命じた職分を知らせて、努めて行えば、身は修まり家は整い、国は治まって天下は平らかになります。孟子は『先王の法に従って過ちを犯した者はまだいない』と言い、また『天下で性を語るのは、すでに現れた跡によるだけだ。その跡は自然の勢いを本とする』と言いました。性というのは、人から鳥獣草木まで、天から受けて生まれてくる理です。松は緑、桜は花、羽のある物は空を飛び、鱗のある物は水を泳ぎ、日月が天にかかるのも、みな一つの理です。去年の四季のめぐりを見て今年を知り、昨日の事を見て今日を知る。これがいわゆる、跡を見て天下の性を知るということです。性を知れば、五常五倫の道はその中に備わっています。中庸に『天が命じたものを性といい、性に従うことを道という』とあります。性を知らずに性に従うことはできません。性を知ることは学問の要です。私は怪しいことを語っているのではありません。堯や舜が万世の手本となったのも、性に従っただけです。だから心を知ることを学問の初めとするのです。それなのに心や性の話を除いて、ほかに最高の学問があるとは私は知りません。すべては心から行うものです。心は身の主人です。主人のない身は、山野に捨てられた死人と同じです。その主人を知らせる教えを異端と言うのは、どういうことでしょう。」
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
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『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、加様の類は、深く詮議せざることなれば、早速は返答なりがたし。答、此三言は、皆我心のことなるが、其を急々に返答ならずといはゞ、書を見ること多しといふとも、何の益あらん。論語の書は、皆聖人の心なるに、其心を知らずして、何を法として身を脩、人を教られ候や。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、替はりたる教へに非ず。汝不審の所を語るべし。我何方を師家とも定めず、一年或いは半季、聞き巡るといへども、我が初心と愚昧の病より、此ぞと心定まらず、心に合へる所もなく、年月これを歎きしに、或る所に隠遁の学者あり。此の人に出会ひ、物語の上、心の沙汰に及びし所、一言の上にて、先には早速聞き取りて、汝は心を知りたりと思ふらめど、未だ知らず。学びし所雲泥の違ひあり。心を知らずして、聖人の書を見るならば、毫釐の差、千里の謬りと成るべしと云へり。然れども我が云ふこと、先方へ聞こえざるゆへに、斯く申さるると心得て、幾度も論議に及ぶといへども、肯ふ気色見えず。我益々合点ゆかず。或る時彼の人の云ふ、汝何の為に学問致し候や。答へて云ふ、五倫五常の道を以て、我より以下の人に、
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『酔古堂剣掃』集醒・十年書を讀まざりしを恨む早く窮達に命有るを知らば、十年書を讀まざりしを恨む。