史記 / 張丞相列伝
孝武時丞相多甚,不記,莫錄其行起居狀略,且紀征和以來。有車丞相,長陵人也。卒而有韋丞相代。韋丞相賢者,魯人也。以讀書術為吏,至大鴻臚。有相工相之,當至丞相。有男四人,使相工相之,至第二子,其名玄成。相工曰:「此子貴,當封。」韋丞相言曰:「我即為丞相,有長子,是安從得之?」後竟為丞相,病死,而長子有罪論,不得嗣,而立玄成。玄成時佯狂,不肯立,竟立之,有讓國之名。後坐騎至廟,不敬,有詔奪爵一級,為關內侯,失列侯,得食其故國邑。韋丞相卒,有魏丞相代。魏丞相相者,濟陰人也。以文吏至丞相。其人好武,皆令諸吏帶劍,帶劍前奏事。或有不帶劍者,當入奏事,至乃借劍而敢入奏事。其時京兆尹趙君,丞相奏以免罪,使人執魏丞相,欲求脫罪而不聽。復使人脅恐魏丞相,以夫人賊殺待婢事而私獨奏請驗之,發吏卒至丞相舍,捕奴婢笞擊問之,實不以兵刃殺也。而丞相司直繁君奏京兆尹趙君迫脅丞相,誣以夫人賊殺婢,發吏卒圍捕丞相舍,不道;又得擅屏騎士事,趙京兆坐要斬。又有使掾陳平等劾中尚書,疑以獨擅劫事而坐之,大不敬,長史以下皆坐死,或下蠶室。而魏丞相竟以丞相病死。子嗣。
新字:孝武時丞相多甚,不記,莫録其行起居状略,且紀征和以来。有車丞相,長陵人也。卒而有韋丞相代。韋丞相賢者,魯人也。以読書術為吏,至大鴻臚。有相工相之,当至丞相。有男四人,使相工相之,至第二子,其名玄成。相工曰:「此子貴,当封。」韋丞相言曰:「我即為丞相,有長子,是安従得之?」後竟為丞相,病死,而長子有罪論,不得嗣,而立玄成。玄成時佯狂,不肯立,竟立之,有譲国之名。後坐騎至廟,不敬,有詔奪爵一級,為関内侯,失列侯,得食其故国邑。韋丞相卒,有魏丞相代。魏丞相相者,済陰人也。以文吏至丞相。其人好武,皆令諸吏帯剣,帯剣前奏事。或有不帯剣者,当入奏事,至乃借剣而敢入奏事。其時京兆尹趙君,丞相奏以免罪,使人執魏丞相,欲求脱罪而不聴。復使人脅恐魏丞相,以夫人賊殺待婢事而私独奏請験之,発吏卒至丞相舎,捕奴婢笞撃問之,実不以兵刃殺也。而丞相司直繁君奏京兆尹趙君迫脅丞相,誣以夫人賊殺婢,発吏卒囲捕丞相舎,不道;又得擅屏騎士事,趙京兆坐要斬。又有使掾陳平等劾中尚書,疑以独擅劫事而坐之,大不敬,長史以下皆坐死,或下蠶室。而魏丞相竟以丞相病死。子嗣。
書き下し
孝武の時の丞相多甚にして、記さず。其の行・起居の状略を録する莫し。且(しばら)く征和以来を紀す。車丞相有り、長陵の人なり。卒して韋丞相代はる有り。韋丞相賢は、魯の人なり。読書の術を以て吏と為り、大鴻臚に至る。相工有りて之を相て、当に丞相に至るべしと。男四人有り、相工をして之を相せしむ。第二子に至る。其の名は玄成。相工曰く、「此の子貴く、当に封ぜらるべし」と。韋丞相言ひて曰く、「我即ち丞相と為るとも、長子有り。是れ安くより之を得ん」と。後竟に丞相と為り、病みて死す。而して長子罪有りて論ぜられ、嗣ぐを得ず。而して玄成を立つ。玄成時に佯狂して、立つことを肯んぜず。竟に之を立て、国を譲るの名有り。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。韋丞相卒し、魏丞相代はる有り。魏丞相相は、済陰の人なり。文吏を以て丞相に至る。其の人武を好み、皆諸吏をして剣を帯びしめ、剣を帯びて前みて事を奏せしむ。或いは剣を帯びざる者有りて、当に入りて事を奏すべきときは、乃ち剣を借りて敢へて入りて事を奏するに至る。其の時京兆尹趙君、丞相奏して以て罪を免ぜしむ。人をして魏丞相を執へしめ、罪を脱るるを求めんと欲すれども聴かれず。復た人をして魏丞相を脅恐せしめ、夫人の待婢を賊殺せし事を以て私かに独り奏して之を験せんことを請ひ、吏卒を発して丞相の舎に至らしめ、奴婢を捕へて笞撃して之を問ふ。実は兵刃を以て殺さざるなり。而して丞相司直繁君、京兆尹趙君の丞相を迫脅し、誣ふるに夫人の婢を賊殺せしを以てし、吏卒を発して丞相の舎を囲捕するは、不道なりと奏す。又擅に騎士を屏(しりぞ)くる事を得、趙京兆坐して要斬せらる。又掾陳平等をして中尚書を劾せしむる有り。疑ふらくは独り劫を擅にする事を以てして之に坐せしむと。大不敬にして、長史以下皆坐して死し、或いは蚕室に下さる。而して魏丞相竟に丞相を以て病みて死す。子嗣ぐ。
現代語訳
孝武帝の時代の丞相は非常に多く、(ここには)記さない。その行状や日常の様子を記録したものもない。ひとまず征和年間以降を記す。車丞相(車千秋)がいた。長陵の人である。死んで韋丞相が代わった。丞相韋賢は魯の人である。読書の学問によって官吏となり、大鴻臚(外国の賓客を司る官)に至った。ある人相見が彼を見て、丞相にまで至るはずだと言った。韋賢には男子が四人おり、人相見に見させたところ、次男の番になった。その名は玄成という。人相見は「この子は貴くなり、侯に封ぜられるはずだ」と言った。韋丞相は「わしがかりに丞相になったとしても、長男がいる。この子がどうして跡を継げようか」と言った。のちにとうとう丞相となり、病死したが、長男は罪を犯して裁かれ、跡を継げなかったので、玄成が立てられた。玄成はそのとき狂人のふりをして継ぐことを承知しなかったが、結局立てられ、国を兄に譲ろうとしたという名声を得た。のちに馬に乗ったまま廟に至ったことが不敬とされ、詔によって爵位を一等奪われて関内侯となり、列侯の地位を失ったが、もとの封邑の収入を受けることは許された。韋丞相が死ぬと、魏丞相が代わった。丞相魏相は済陰の人である。文書行政の官吏から丞相に至った。武を好み、属官たちに皆剣を帯びさせ、剣を帯びたまま進み出て上奏させた。剣を帯びていない者が上奏に入らなければならないときは、剣を借りてから入って上奏するほどであった。そのころ京兆尹(都の長官)の趙君(趙広漢)は、丞相から罪を問う上奏を受けたので、人をやって魏丞相を押さえ、罪を免れようと求めたが、聞き入れられなかった。そこでまた人をやって魏丞相を脅し、丞相夫人が侍女を殺したという件をひそかに単独で上奏して取り調べを願い出て、役人と兵卒を丞相の屋敷に差し向け、奴婢を捕らえて鞭打って問いただした。しかし実際には刃物で殺したのではなかった。すると丞相司直(丞相府の監察官)の繁君が、京兆尹の趙君が丞相を脅迫し、夫人が侍女を殺したと偽って告発し、役人と兵卒を出して丞相の屋敷を包囲して捕縛したのは大逆無道であると上奏した。また勝手に騎士を退けた件も発覚し、趙京兆は腰斬の刑に処された。さらに掾(属官)の陳平らに中尚書を弾劾させたことがあった。単独で脅迫をほしいままにした件で罪に陥れたのではないかと疑われ、大不敬とされて、長史以下は皆連座して死に、あるいは蚕室に下された(宮刑に処された)。しかし魏丞相は結局、丞相の地位のまま病死した。子が跡を継いだ。
解説
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史記 張丞相列伝後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。魏丞相卒し、御史大夫邴吉を以て代はらしむ。邴丞相吉は、魯国の人なり。読書して法令を好むを以て御史大夫に至る。孝宣帝の時、旧故有るを以て、封ぜられて列侯と為り、而して因りて丞相と為る。事に明らかにして、大智有り。後世之を称す。丞相を以て病みて死す。子顕嗣ぐ。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、列侯を失ひ、故の国邑を食むを得。顕は吏と為りて太僕に至り、官の秏乱し、身及び子男に姦贓有るに坐して、免ぜられて庶人と為る。邴丞相卒し、黄丞相代はる。長安中に善く相する工の田文なる者有り。韋丞相・魏丞相・邴丞相の微賤なる時に客家に会す。田文言ひて曰く、「今此の三君は、皆丞相なり」と。其の後三人竟に更(こもごも)相代はりて丞相と為る。何ぞ見ることの明らかなるや。黄丞相霸は、淮陽の人なり。読書を以て吏と為り、潁川の太守に至る。潁川を治むるに、礼義条教を以て喩告して之を化す。法を犯す者は、風曉して自殺せしむ。化大いに行はれ、名声聞こゆ。孝宣帝制を下して曰く、「潁川の太守霸、詔令を宣布するを以て民を治め、道に遺ちたるを拾はず、男女路を異にし、獄中に重囚無し。爵関内侯、黄金百斤を賜ふ」と。徴されて京兆尹と為りて丞相に至り、復た礼義を以て治を為す。丞相を以て病みて死す。子嗣ぎ、後列侯と為る。黄丞相卒し、御史大夫于定国を以て代はらしむ。于丞相は已に廷尉伝有り、張廷尉の語中に在り。于丞相去り、御史大夫韋玄成代はる。韋丞相玄成は、即ち前の韋丞相の子なり。父に代はり、後列侯を失ふ。其の人少き時に読書を好み、詩・論語に明らかなり。吏と為りて衛尉に至り、徙りて太子太傅と為る。
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