史記 / 張丞相列伝
太史公曰、張蒼文學律歷、為漢名相、而絀賈生公孫臣等言正朔服色事而不遵、明用秦之顓頊歷、何哉。周昌、木彊人也。任敖以舊德用。申屠嘉可謂剛毅守節矣、然無術學、殆與蕭曹陳平異矣。
新字:太史公曰、張蒼文学律歴、為漢名相、而絀賈生公孫臣等言正朔服色事而不遵、明用秦之顓頊歴、何哉。周昌、木彊人也。任敖以旧徳用。申屠嘉可謂剛毅守節矣、然無術学、殆与蕭曹陳平異矣。
書き下し
太史公曰く、「張蒼は文学律歴もて、漢の名相と為るも、賈生・公孫臣等の正朔服色の事を言ふを絀けて遵はず、明らかに秦の顓頊暦を用ゐるは、何ぞや。周昌は、木彊の人なり。任敖は旧徳を以て用ゐらる。申屠嘉は剛毅守節と謂ふ可し、然れども術学無く、殆ど蕭・曹・陳平と異なるかな」と。
現代語訳
太史公は言う。「張蒼は学問と暦法によって漢の名宰相となったが、賈生や公孫臣らが暦や装束の色を改めるべきだと言うのを退けて従わず、はっきりと秦の顓頊暦を用い続けた。なぜだろうか。周昌は、木のように堅く曲がらない人であった。任敖は昔の功徳によって用いられた。申屠嘉は、剛毅で節を守った人と言ってよい。しかし学問がなく、蕭何・曹参・陳平とは、やはり違っていたと言うべきだろう」。
解説
「それぞれの人物の長所と短所を公平に見極め、剛毅さと、知恵・学識の両方が備わってこそ真の名臣だ」と示唆した、司馬遷の総評の一段です。司馬遷は、この篇に登場した丞相たちを、一人ひとり、長所と短所の両面から冷静に評します。まず張蒼について。「彼は、学問(文学)と暦法・音律に通じた、漢の名宰相だった。しかし、賈誼や公孫臣らが(時代に即した)暦や礼制の改革を進言したのを退けて従わず、旧態依然として秦の暦をそのまま使い続けた。これはなぜだろうか(=有能でありながら、この点では保守的で、改革を怠った)」と、その功績を認めつつ限界も指摘します。次に周昌について。「彼は、木のようにまっすぐで頑固な(剛直な)人物だった」と、その剛直さを端的に評します。任敖については「昔からの恩義(旧徳)によって用いられた」と、その登用の経緯を記す。そして申屠嘉について、最も示唆的な評を下します。「申屠嘉は、剛毅で節操を守った人物だと言える。しかし、彼には術学(政治を運営するための知恵・学識・方策)がなかった。その点で、(同じ剛直さや清廉さを持ちつつ、知恵・学識も兼ね備えた)蕭何・曹参・陳平とは、(一段)異なる(=及ばない)だろう」と。ここに、人物評価と、真の名臣の条件についての教訓があります。第一に、人物を、長所と短所の両面から公平に見極めること。司馬遷は、張蒼の学識を認めつつ改革を怠った限界を指摘し、申屠嘉の剛毅さを認めつつ術学の不足を指摘した。一面的に称賛も批判もせず、功罪の両方を冷静に見る。第二に、そして最も重要なのは、「剛毅さ・清廉さ」だけでは、真の名臣には足りないという指摘。申屠嘉は、剛直で清廉という立派な資質を持っていました。しかし、それだけでは不十分で、加えて「術学(物事を的確に運営する知恵・学識・方策)」が必要だ、と司馬遷は説く。蕭何・曹参・陳平が真の名臣だったのは、剛直さや清廉さに加えて、優れた知恵・学識・方策を兼ね備えていたからです。第三に、つまり、優れたリーダー・臣下には、「徳(剛毅・清廉・誠実)」と「才(知恵・学識・方策)」の両方が必要だということ。剛直だが知恵に欠ければ、正しいことはできても、物事をうまく運営できない。逆に、知恵はあっても徳がなければ、才を悪用しかねない。組織や人生で、人(や自分)を長所と短所の両面から公平に評価すること、そして真に優れた人物には「徳(剛毅・清廉)」と「才(知恵・学識・方策)」の両方が必要だと理解すること——司馬遷のこの総評は、名臣・名リーダーの条件を、鋭く教えています。
この章句が説くこと
太史公評張丞相長所と短所を公平に見る剛毅守節術学の必要徳と才の両立
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