史記 / 張丞相列伝
鄧通既至,為文帝泣曰:「丞相幾殺臣。」嘉為丞相五歲,孝文帝崩,孝景帝即位。二年,晁錯為內史,貴幸用事,諸法令多所請變更,議以謫罰侵削諸侯。而丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯為內史,門東出,不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣。嘉聞之,欲因此以法錯擅穿宗廟垣為門,奏請誅錯。錯客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸景帝。至朝,丞相奏請誅內史錯。景帝曰:「錯所穿非真廟垣,乃外堧垣,故他官居其中,且又我使為之,錯無罪。」罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯,乃先請之,為錯所賣。」至舍,因歐血而死。謚為節侯。子共侯蔑代,三年卒。子侯去病代,三十一年卒。子侯臾代,六歲,坐為九江太守受故官送有罪,國除。自申屠嘉死之後,景帝時開封侯陶青、桃侯劉舍為丞相。及今上時,柏至侯許昌、平棘侯薛澤、武彊侯莊青翟、高陵侯趙周等為丞相。皆以列侯繼嗣,娖娖廉謹,為丞相備員而已,無所能發明功名有著於當世者。
新字:鄧通既至,為文帝泣曰:「丞相幾殺臣。」嘉為丞相五歳,孝文帝崩,孝景帝即位。二年,晁錯為内史,貴幸用事,諸法令多所請変更,議以謫罰侵削諸侯。而丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯為内史,門東出,不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣。嘉聞之,欲因此以法錯擅穿宗廟垣為門,奏請誅錯。錯客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自帰景帝。至朝,丞相奏請誅内史錯。景帝曰:「錯所穿非真廟垣,乃外堧垣,故他官居其中,且又我使為之,錯無罪。」罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯,乃先請之,為錯所売。」至舎,因欧血而死。謚為節侯。子共侯蔑代,三年卒。子侯去病代,三十一年卒。子侯臾代,六歳,坐為九江太守受故官送有罪,国除。自申屠嘉死之後,景帝時開封侯陶青、桃侯劉舎為丞相。及今上時,柏至侯許昌、平棘侯薛沢、武彊侯荘青翟、高陵侯趙周等為丞相。皆以列侯継嗣,娖娖廉謹,為丞相備員而已,無所能発明功名有著於当世者。
書き下し
鄧通既に至り、文帝の為に泣きて曰く、「丞相幾(ほと)んど臣を殺さんとす」と。嘉丞相為ること五歳、孝文帝崩じ、孝景帝即位す。二年、晁錯内史と為り、貴幸せられて事を用ふ。諸法令多く変更を請ふ所あり。謫罰を以て諸侯を侵削せんと議す。而して丞相嘉は自ら言ふ所の用ひられざるを絀(くつ)とし、錯を疾む。錯内史為りしとき、門東に出で、便ならず。更に一門を穿ちて南に出だす。南に出づる者は、太上皇の廟の堧垣(ぜんゑん)なり。嘉之を聞き、此に因りて錯の擅に宗廟の垣を穿ちて門と為すを法(のつと)らんと欲し、奏して錯を誅せんことを請ふ。錯の客に錯に語る有り。錯恐れ、夜宮に入りて上謁し、自ら景帝に帰す。朝に至りて、丞相、内史錯を誅せんことを奏請す。景帝曰く、「錯の穿ちし所は真の廟垣に非ず、乃ち外の堧垣なり。故に他官其の中に居る。且つ又我之を為さしむ。錯罪無し」と。朝を罷め、嘉、長史に謂ひて曰く、「吾先づ錯を斬らずして、乃ち先づ之を請ひ、錯の売る所と為りしを悔ゆ」と。舎に至り、因りて血を欧(は)きて死す。謚して節侯と為す。子の共侯蔑代はり、三年にして卒す。子の侯去病代はり、三十一年にして卒す。子の侯臾代はり、六歳にして、九江の太守と為りて故の官の送るを受けて罪有るに坐して、国除かる。申屠嘉死せしより後、景帝の時、開封侯陶青・桃侯劉舍丞相と為る。今上の時に及び、柏至侯許昌・平棘侯薛沢・武彊侯荘青翟・高陵侯趙周等丞相と為る。皆列侯の継嗣を以て、娖娖(さくさく)として廉謹、丞相と為りて員に備はるのみ。能く功名を発明して当世に著はるる者有る所無し。
現代語訳
鄧通は(宮中に)戻ると、文帝に泣いて「丞相はもう少しでわたくしを殺すところだった」と言った。申屠嘉が丞相となって五年で孝文帝が崩じ、孝景帝が即位した。(景帝)二年、晁錯が内史(都の長官)となり、寵愛されて政務を握った。諸々の法令について多くの変更を願い出て、処罰を口実に諸侯の領地を削ることを議論した。丞相の申屠嘉は、自分の意見が用いられないのを屈辱とし、晁錯を憎んだ。晁錯の内史の役所は門が東に出ていて不便だったので、新たに門を一つ開けて南に出した。南に出たところは、太上皇(高祖の父)の廟の外垣であった。申屠嘉はこれを聞くと、これを機に晁錯が勝手に宗廟の垣に穴を開けて門にした罪で法にかけようとし、晁錯を誅殺するよう上奏しようとした。晁錯の食客の中にこれを晁錯に告げる者がいた。晁錯は恐れて、夜のうちに宮中に入って拝謁し、自ら景帝に事情を申し出た。朝議の場で、丞相は内史晁錯を誅殺するよう奏請した。景帝は「晁錯が穴を開けたのは本当の廟の垣ではなく、外側の空き地の垣だ。だから他の官署もその中にある。しかもわしがそうさせたのだ。晁錯に罪はない」と言った。朝議が終わると、申屠嘉は長史(属官の長)に「先に晁錯を斬らずに、まず許可を求めたせいで、晁錯にしてやられたのが悔しい」と言った。屋敷に帰ると、そのまま血を吐いて死んだ。諡は節侯。子の共侯申屠蔑が跡を継ぎ、三年で死んだ。その子の侯去病が継ぎ、三十一年で死んだ。その子の侯臾が継いだが、六年後、九江太守となったとき、以前の任地の官吏から贈り物を受けた罪に問われ、国は取り潰された。申屠嘉の死後、景帝の時代には開封侯陶青と桃侯劉舍が丞相となった。今上(武帝)の時代になると、柏至侯許昌、平棘侯薛沢、武彊侯荘青翟、高陵侯趙周らが丞相となった。いずれも列侯の跡継ぎという身分によって、こせこせと清廉で慎み深く、丞相として員数に加わっていただけで、功績や名声を打ち立てて当世に名を知られた者は一人もいなかった。
解説
関連する章句
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史記 張丞相列伝申屠丞相嘉は、梁の人なり。材官蹶張(けつちやう)を以て高帝に従ひて項籍を撃ち、遷りて隊率と為る。従ひて黥布の軍を撃ち、都尉と為る。孝恵の時、淮陽の守と為る。孝文帝の元年、故の吏士二千石の高皇帝に従ひし者を挙げて、悉く以て関内侯と為し、邑を食む者二十四人、而して申屠嘉は食邑五百戸。張蒼已に丞相と為り、嘉遷りて御史大夫と為る。張蒼相を免ぜられ、孝文帝、皇后の弟竇広国を用ひて丞相と為さんと欲して曰く、「恐らくは天下、吾を以て広国に私すとせん」と。広国は賢にして行ひ有り。故に之を相とせんと欲す。之を念ふこと久しくして不可なりとす。而して高帝の時の大臣又皆多く死し、余は見(げん)に可なる者無し。乃ち御史大夫嘉を以て丞相と為し、故の邑に因りて封じて故安侯と為す。嘉は人と為り廉直にして、門に私謁を受けず。是の時太中大夫鄧通方に愛幸を隆(さか)んにし、賞賜巨万を累ぬ。文帝嘗て通の家に燕飲す。其の寵是くの如し。是の時丞相入朝し、而して通、上の傍らに居り、怠慢の礼有り。丞相事を奏し畢りて、因りて言ひて曰く、「陛下臣を愛幸せば、則ち之を富貴にせよ。朝廷の礼に至りては、以て粛ならざるべからず」と。上曰く、「君言ふ勿かれ。吾之を私す」と。朝を罷めて府中に坐し、嘉、檄を為りて鄧通を召して丞相府に詣らしむ。来たらずんば、且に通を斬らんとす。通恐れて、入りて文帝に言ふ。文帝曰く、「汝第(ただ)往け。吾今人をして若(なんぢ)を召さしめん」と。通丞相府に至り、冠を免(ぬ)ぎ、徒跣(とせん)して、頓首して謝す。嘉坐すること自如として、故(ことさら)に礼を為さず。責めて曰く、「夫れ朝廷は、高皇帝の朝廷なり。通は小臣にして、殿上に戯る。大不敬なり。当に斬るべし。吏今之を行ひて斬れ」と。通頓首し、首尽く血を出だせども、解けず。文帝、丞相已に通を困しむと度り、使者をして節を持して通を召さしめ、而して丞相に謝して曰く、「此れ吾が弄臣なり。君之を釈せ」と。
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史記 袁盎鼂錯列伝其の弁を以て太子に幸を得、太子の家号して「智嚢」と曰ふ。数(しばしば)孝文の時に上書し、諸侯を削る事、及び法令の更定すべき者を言ふ。書数十たび上るも、孝文聴かず、然れども其の材を奇とし、遷して中大夫と為す。是の時に当たり、太子錯の計策を善しとし、袁盎・諸大功臣多く錯を好まず。景帝即位し、錯を以て内史と為す。錯常に数(しばしば)閒を請ひて事を言ひ、輒ち聴かれ、寵幸九卿を傾け、法令多く更定する所あり。丞相申屠嘉心に便とせず、力未だ以て傷つくる有らず。内史の府は太上廟の壖(ぜん)中に居り、門東に出で、便ならず。錯乃ち両門を穿ちて南に出だし、廟の壖垣を鑿つ。丞相嘉聞き、大いに怒り、此の過ちに因りて奏請して錯を誅せんと欲す。錯之を聞き、即ち夜閒を請ひ、具さに上の為に之を言ふ。丞相事を奏し、因りて錯擅に廟垣を鑿ちて門と為す、廷尉に下して誅せんことを請ふと言ふ。上曰く、「此れ廟垣に非ず、乃ち壖中の垣なり、法に致さず」と。丞相謝す。朝を罷め、怒りて長史に謂ひて曰く、「吾当に先づ斬りて以て聞すべきに、乃ち先づ請ひ、児の売る所と為る、固より誤れり」と。丞相遂に病を発して死す。錯此を以て愈(いよい)よ貴し。遷りて御史大夫と為り、諸侯の罪過を請ひ、其の地を削り、其の枝郡を収めんとす。奏上し、上公卿列侯宗室をして集議せしむ。敢へて難ずる莫く、独り竇嬰之を争ふ。此に由りて錯と卻(げき)有り。錯の更むる所の令三十章、諸侯皆諠譁して鼂錯を疾む。錯の父之を聞き、潁川より来たり、錯に謂ひて曰く、「上初めて即位し、公政を為して事を用ひ、諸侯を侵削し、人の骨肉を別疏す。人口議して多く公を怨む者は、何ぞや」と。鼂錯曰く、「固よりなり。此の如くならずんば、天子尊からず、宗廟安からず」と。錯の父曰く、「劉氏は安けれども、鼂氏は危ふし。吾公を去りて帰らん」と。遂に薬を飲みて死し、曰く、「吾禍の吾が身に及ぶを見るに忍びず」と。
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史記 万石張叔列伝天子曰く、「倉廩既に空しく、民貧しく流亡す。而るに君之を徙さんことを請はんと欲し、揺蕩して安んぜず、之を動かし危うくす。而して位を辞す。君安くに難を帰せんと欲するか」と。書を以て慶を譲む。慶甚だ慚ぢ、遂に復た事を視る。慶は文深く審謹なるも、然れども他の大略無く、百姓の為に言ふ。後三歳余、太初二年中、丞相慶卒し、諡して恬侯と為す。慶の中子徳、慶愛して之を用ふ。上徳を以て嗣と為し、侯に代はらしむ。後に太常と為り、法に坐して死に当たり、贖ひて免れて庶人と為る。慶方に丞相為りしとき、諸子孫の吏と為りて更々二千石に至る者十三人。慶死して後に及び、稍く罪を以て去り、孝謹益々衰ふ。建陵侯衛綰は、代の大陵の人なり。綰は戯車を以て郎と為り、文帝に事へ、功次もて遷りて中郎将と為り、醇謹にして他無し。孝景太子為りし時、上の左右を召して飲ましむ。而るに綰病と称して行かず。文帝且に崩ぜんとする時、孝景に属して曰く、「綰は長者なり、善く之を遇せよ」と。文帝崩じ、景帝立つに及び、歳余綰を噍呵せず、綰日に以て謹み力む。景帝上林に幸し、中郎将に詔して参乗せしむ。還りて問ひて曰く、「君参乗するを得る所以を知るか」と。綰曰く、「臣は車士より幸ひに功次を以て遷りて中郎将と為るを得、自ら知らざるなり」と。上問ひて曰く、「吾太子為りし時君を召すに、君来るを肯ぜざりしは、何ぞや」と。対へて曰く、「死罪、実に病めり」と。上之に剣を賜ふ。綰曰く、「先帝臣に剣を賜ふこと凡そ六、剣は敢へて詔を奉ぜず」と。上曰く、「剣は、人の施易する所なり。独り今に至るか」と。綰曰く、「具に在り」と。上六剣を取らしむるに、剣尚ほ盛にして、未だ嘗て服せざるなり。郎官譴有れば、常に其の罪を蒙り、他の将と争はず。功有れば、常に他の将に譲る。上以て廉と為し、忠実にして他腸無しとし、乃ち綰を拝して河間王の太傅と為す。呉楚反し、綰に詔して将と為す。河間の兵を将ゐて呉楚を撃ちて功有り、拝して中尉と為す。
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