史記 / 穰侯列伝
昭王七年,樗里子死,而使涇陽君質於齊。趙人樓緩來相秦,趙不利,乃使仇液之秦,請以魏冉為秦相。仇液將行,其客宋公謂液曰:「秦不聽公,樓緩必怨公。公不若謂樓緩曰『請為公毋急秦』。秦王見趙請相魏冉之不急,且不聽公。公言而事不成,以德樓子;事成,魏冉故德公矣。」於是仇液從之。而秦果免樓緩而魏冉相秦。欲誅呂禮,禮出奔齊。昭王十四年,
新字:昭王七年,樗里子死,而使涇陽君質於斉。趙人楼緩来相秦,趙不利,乃使仇液之秦,請以魏冉為秦相。仇液将行,其客宋公謂液曰:「秦不聴公,楼緩必怨公。公不若謂楼緩曰『請為公毋急秦』。秦王見趙請相魏冉之不急,且不聴公。公言而事不成,以徳楼子;事成,魏冉故徳公矣。」於是仇液従之。而秦果免楼緩而魏冉相秦。欲誅呂礼,礼出奔斉。昭王十四年,
書き下し
昭王の七年、樗里子死し、而して涇陽君をして斉に質たらしむ。趙人楼緩来たりて秦に相たり、趙利あらず、乃ち仇液をして秦に之かしめ、魏冉を以て秦の相と為さんことを請ふ。仇液将に行かんとす、その客宋公、液に謂ひて曰く、「秦公に聴かずんば、楼緩必ず公を怨まん。公は楼緩に謂ひて『請ふ公の為に秦に急にすること毋からん』と曰ふに若かず。秦王、趙の魏冉を相とせんことを請ふの急ならざるを見て、且に公に聴かざらんとす。公言ひて事成らずんば、以て楼子に徳とせられ、事成らば、魏冉故より公を徳とせん」と。是に於いて仇液これに従ふ。而して秦果たして楼緩を免じて魏冉秦に相たり。呂礼を誅せんと欲す、礼出でて斉に奔る。昭王の十四年、
現代語訳
昭王の七年、樗里子が亡くなり、秦は涇陽君を人質として斉に送った。趙の人の楼緩が秦に来て宰相となったが、趙にとって都合が悪かったので、趙は仇液を秦に遣わし、魏冉を秦の宰相にするよう願い出させた。仇液が出発しようとすると、その食客の宋公が仇液に言った。「秦があなたの願いを聞き入れなければ、楼緩はきっとあなたを恨むだろう。それよりあなたは楼緩に『あなたのために、秦にはあまり強く頼まないでおきましょう』と言っておくのがよい。秦王は趙が魏冉を宰相にと強く求めていないのを見て、あなたの願いを聞き入れないかもしれない。あなたが申し出て事が成らなければ、楼緩に恩を売れるし、事が成れば、魏冉はもちろんあなたに恩を感じるだろう。」そこで仇液はこれに従った。すると秦は果たして楼緩を罷免し、魏冉が秦の宰相となった。魏冉は呂礼を誅殺しようとしたので、呂礼は国外に出て斉に逃げた。昭王の十四年、
解説
関連する章句
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史記 穰侯列伝昭王三十六年、相国穰侯客卿灶に言ひ、斉を伐ちて剛・壽を取り、以て其の陶邑を広めんと欲す。是に於いて魏人范睢自ら張祿先生と謂ひ、穰侯の斉を伐つを譏り、乃ち三晋を越えて以て斉を攻むるなりとし、此の時を以て秦の昭王に奸説す。昭王是に於いて范睢を用ふ。范睢言ふ、宣太后専制し、穰侯諸侯に権を擅にし、涇陽君・高陵君の属太だ侈にして、王室より富む、と。是に於いて秦の昭王悟り、乃ち相国を免じ、涇陽の属をして皆関を出でて封邑に就かしむ。穰侯関を出づるに、輜車千乗有余。穰侯陶に卒し、因りて焉に葬る。秦復た陶を収めて郡と為す。
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史記 穰侯列伝穣侯封ぜらるること四歳、秦の将と為りて魏を攻む。魏、河東の方四百里を献ず。魏の河内を抜き、城の大小六十余を取る。昭王の十九年、秦は西帝と称し、斉は東帝と称す。月余にして、呂礼来たり、而して斉・秦各々また帝を帰して王と為る。魏冉また秦に相たり、六歳にして免ぜらる。免ぜらるること二歳にして、また秦に相たり。四歳にして、白起をして楚の郢を抜かしめ、秦は南郡を置く。乃ち白起を封じて武安君と為す。白起は穣侯の任挙する所なり、相善し。是に於いて穣侯の富は王室より富めり。昭王の三十二年、穣侯相国と為り、兵を将ゐて魏を攻め、芒卯を走らせ、北宅に入り、遂に大梁を囲む。梁の大夫須賈、穣侯に説きて曰く、「臣聞く、魏の長吏、魏王に謂ひて曰く、『昔、梁の恵王趙を伐ち、三梁に戦ひ勝ち、邯鄲を抜く。趙氏割かずして、邯鄲また帰る。斉人衛を攻め、故国を抜き、子良を殺す。衛人割かずして、故地また反る。衛・趙の国全く兵勁くして地の諸侯に并せられざる所以の者は、その能く難を忍びて地を出だすを重んずるを以てなり。宋・中山は数々伐たれて地を割き、国随ひて以て亡ぶ。臣以為へらく、衛・趙は法とすべく、宋・中山は戒めと為すべきなり。秦は貪戻の国なり、親しむこと毋かれ。魏氏を蚕食し、また晋国を尽くし、暴子に戦ひ勝ち、八県を割く。地未だ畢く入らずして、兵また出づ。夫れ秦何の厭くことかこれ有らんや。今また芒卯を走らせ、北宅に入る。此れ敢へて梁を攻むるに非ざるなり、且に王を劫かして以て多く地を割かんことを求めんとするなり。王必ず聴くこと勿かれ。今、王、楚・趙に背きて秦に講ぜば、楚・趙怒りて王を去り、王と秦に事ふることを争はん、秦必ずこれを受けん。秦、楚・趙の兵を挟みて以てまた梁を攻めば、則ち国亡ぶること無きを求むるも得べからざるなり。願はくは王の必ず講ずること無からんことを。王若し講ぜんと欲せば、少しく割きて質を有て。然らずんば、必ず欺かれん』と。
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史記 穰侯列伝穣侯魏冉(ぜん)は、秦の昭王の母宣太后の弟なり。その先は楚人にして、姓は羋(び)氏。秦の武王卒し、子無し、その弟を立てて昭王と為す。昭王の母は故羋八子と号し、昭王即位するに及び、羋八子を宣太后と号す。宣太后は武王の母に非ず。武王の母は号して恵文后と曰ひ、武王に先だちて死す。宣太后に二弟あり。その異父の長弟を穣侯と曰ひ、姓は魏氏、名は冉。同父の弟を羋戎と曰ひ、華陽君と為る。而して昭王の同母の弟を高陵君・涇陽君と曰ふ。而して魏冉最も賢にして、恵王・武王の時より職に任じ事を用ふ。武王卒し、諸弟立たんことを争ふ、唯だ魏冉の力のみ能く昭王を立つることを為す。昭王即位し、冉を以て将軍と為し、咸陽を衛らしむ。季君の乱を誅し、武王の后を逐ひてこれを魏に出だし、昭王の諸兄弟の善からざる者は皆これを滅ぼし、威は秦国に振ふ。昭王少く、宣太后自ら治め、魏冉に任じて政を為さしむ。
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史記 范雎蔡沢列伝此の時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平詐りて卒と為り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人の与に倶に西游すべき者有るか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生有り、君に見えて天下の事を言はんと欲す。その人仇有り、敢へて昼見えず」と。王稽曰く、「夜与に倶に来たれ」と。鄭安平、夜張禄と王稽に見ゆ。語未だ究まらざるに、王稽、范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生、我を三亭の南に待て」と。私かに約して去る。王稽、魏を辞して去り、過りて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来たるを望見す。范睢曰く、「彼の来たる者は誰と為す」と。王稽曰く、「秦の相穣侯、東して県邑を行く」と。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ恐らくは我を辱めん、我寧ろ且く車中に匿れん」と。頃有りて、穣侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車を立てて語りて曰く、「関東に何の変か有る」と。曰く、「有る無し」と。また王稽に謂ひて曰く、「謁君、諸侯の客子と倶に来たること無きを得んや。益無し、徒らに人の国を乱すのみ」と。王稽曰く、「敢へてせず」と。即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は智士なり、その事を見ること遅し。郷者車中に人有るを疑ひて、これを索むることを忘る」と。是に於いて范睢車を下りて走りて曰く、「此れ必ずこれを悔いん」と。行くこと十余里、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無し、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。已に使ひを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張禄先生有り、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵より危ふし、臣を得ば則ち安からん。然れども書を以て伝ふべからず』と。臣故に載せて来たる」と。秦王信ぜず、舎して食はしむるに草具を以てす。命を待つこと歳余。是の時に当たり、昭王已に立つこと三十六年。南のかた楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東のかた斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後これを去る。数々三晋を困しむ。天下の弁士を厭ひ、信ずる所無し。
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戦国策・趙使机郝之秦趙、机郝をして秦に之かしめ、魏冉を相とせんことを請わしむ。宋突、机郝に謂いて曰く、「秦聴かざれば、楼緩必ず公を怨まん。公は陰かに楼子に辞して曰わんには如かず、『請う秦王を急にすること無かれ』と。秦王、趙の魏冉を相とするに急ならざるを見、且つ公の言を聴かざれば、是れ事にして成らずとも、魏冉固より公に徳とせん」と。
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史記 范雎蔡沢列伝范君の仇は君の家に在り、願はくは人をして帰りてその頭を取りて来たらしめよ。然らずんば、吾君を関より出ださず」と。平原君曰く、「貴くして交はりを為すは、賤しきが為なり。富みて交はりを為すは、貧しきが為なり。夫れ魏斉は勝の友なり、在るとも固より出ださざるなり、今また臣の所に在らず」と。昭王乃ち趙王に書を遺りて曰く、「王の弟秦に在り、范君の仇魏斉は平原君の家に在り。王、人をして疾くその頭を持ちて来たらしめよ。然らずんば、吾兵を挙げて趙を伐ち、また王の弟を関より出ださず」と。趙の孝成王乃ち卒を発して平原君の家を囲む。急なり、魏斉夜亡げ出で、趙の相虞卿に見ゆ。虞卿度るに趙王は終に説くべからず、乃ちその相印を解き、魏斉と亡げ、閒行し、諸侯の以て急に抵るべき者莫きを念ひ、乃ちまた大梁に走り、信陵君に因りて以て楚に走らんと欲す。信陵君これを聞き、秦を畏れ、猶予して未だ見ゆるを肯んぜずして曰く、「虞卿は何如なる人ぞ」と。時に侯嬴旁らに在りて曰く、「人は固より未だ知り易からず、人を知ることもまた未だ易からざるなり。夫れ虞卿は屩を躡み簦を檐ひ、一たび趙王に見えて、白璧一双・黄金百鎰を賜はる。再び見えて、拝して上卿と為る。三たび見えて、卒に相印を受け、万戸侯に封ぜらる。此の時に当たりて、天下争ひてこれを知る。夫れ魏斉は窮困して虞卿に過る、虞卿は敢へて爵禄の尊きを重んぜず、相印を解き、万戸侯を捐てて閒行す。士の窮に急にして公子に帰す、公子曰く『何如なる人ぞ』と。人は固より知り易からず、人を知ることもまた未だ易からざるなり」と。信陵君大いに慚ぢ、駕して野に如きてこれを迎ふ。魏斉、信陵君の初めこれに見ゆるを難るを聞き、怒りて自剄す。趙王これを聞き、卒にその頭を取りて秦に予ふ。秦の昭王乃ち平原君を出だして趙に帰す。昭王の四十三年、秦韓の汾陘を攻め、これを抜き、因りて河上の広武に城く。後五年、昭王、応侯の謀を用ひ、反閒を縦にして趙を売る。趙その故を以て、馬服子をして廉頗に代はりて将たらしむ。
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