史記 / 張丞相列伝
蒼本好書,無所不觀,無所不通,而尤善律歷。張蒼德王陵。王陵者,安國侯也。及蒼貴,常父事王陵。陵死後,蒼為丞相,洗沐,常先朝陵夫人上食,然後敢歸家。蒼為丞相十餘年,魯人公孫臣上書言漢土德時,其符有黃龍當見。詔下其議張蒼,張蒼以為非是,罷之。其後黃龍見成紀,於是文帝召公孫臣以為博士,草土德之歷制度,更元年。張丞相由此自絀,謝病稱老。蒼任人為中候,大為姦利,上以讓蒼,蒼遂病免。蒼為丞相十五歲而免。孝景前五年,蒼卒,謚為文侯。子康侯代,八年卒。子類代為侯,八年,坐臨諸侯喪後就位不敬,國除。初,張蒼父長不滿五尺,及生蒼,蒼長八尺餘,為侯、丞相。蒼子復長。及孫類,長六尺餘,坐法失侯。蒼之免相後,老,口中無齒,食乳,女子為乳母。妻妾以百數,嘗孕者不復幸。蒼年百有餘歲而卒。
新字:蒼本好書,無所不観,無所不通,而尤善律歴。張蒼徳王陵。王陵者,安国侯也。及蒼貴,常父事王陵。陵死後,蒼為丞相,洗沐,常先朝陵夫人上食,然後敢帰家。蒼為丞相十余年,魯人公孫臣上書言漢土徳時,其符有黄竜当見。詔下其議張蒼,張蒼以為非是,罷之。其後黄竜見成紀,於是文帝召公孫臣以為博士,草土徳之歴制度,更元年。張丞相由此自絀,謝病称老。蒼任人為中候,大為姦利,上以譲蒼,蒼遂病免。蒼為丞相十五歳而免。孝景前五年,蒼卒,謚為文侯。子康侯代,八年卒。子類代為侯,八年,坐臨諸侯喪後就位不敬,国除。初,張蒼父長不満五尺,及生蒼,蒼長八尺余,為侯、丞相。蒼子復長。及孫類,長六尺余,坐法失侯。蒼之免相後,老,口中無歯,食乳,女子為乳母。妻妾以百数,嘗孕者不復幸。蒼年百有余歳而卒。
書き下し
蒼は本(もと)書を好み、観ざる所無く、通ぜざる所無し。而して尤も律歴に善し。張蒼、王陵を徳とす。王陵は、安国侯なり。蒼の貴きに及び、常に王陵に父事す。陵死して後、蒼丞相と為り、洗沐するに、常に先づ陵の夫人に朝して食を上(たてまつ)り、然る後に敢へて家に帰る。蒼丞相為ること十余年、魯人公孫臣上書して、漢は土徳の時にして、其の符に黄竜の当に見(あら)はるべき有りと言ふ。詔して其の議を張蒼に下す。張蒼以て是に非ずと為し、之を罷む。其の後黄竜成紀に見はる。是に於て文帝、公孫臣を召して以て博士と為し、土徳の歴・制度を草せしめ、元年を更(あらた)む。張丞相此れに由りて自ら絀(しりぞ)け、病を謝して老と称す。蒼、人を任じて中候と為す。大いに姦利を為す。上以て蒼を譲(せ)む。蒼遂に病みて免ぜらる。蒼丞相為ること十五歳にして免ぜらる。孝景の前五年、蒼卒す。謚して文侯と為す。子の康侯代はり、八年にして卒す。子の類代はりて侯と為る。八年、諸侯の喪に臨みて後れて位に就き不敬なるに坐して、国除かる。初め、張蒼の父の長(たけ)五尺に満たず。蒼を生むに及び、蒼は長八尺余、侯・丞相と為る。蒼の子復た長し。孫の類に及び、長六尺余、法に坐して侯を失ふ。蒼の相を免ぜられし後、老いて、口中に歯無く、乳を食ふ。女子を乳母と為す。妻妾百を以て数ふ。嘗て孕みし者は復た幸せず。蒼、年百有余歳にして卒す。
現代語訳
張蒼はもともと書物を好み、読まないものはなく、通じないものはなかったが、とりわけ律暦に優れていた。張蒼は王陵に恩義を感じていた。王陵とは安国侯である。張蒼は高貴な身分になってからも、常に王陵に父のように仕えた。王陵の死後、張蒼が丞相となってからも、休暇の日には必ずまず王陵の夫人のもとへ参上して食膳を差し上げ、その後にようやく自分の家に帰った。張蒼が丞相となって十余年のころ、魯の人の公孫臣が上書して、漢は土徳の時に当たり、その瑞兆として黄竜が現れるはずだと述べた。文帝は詔してその議論を張蒼に下したが、張蒼はそれは誤りだとして退けた。その後、黄竜が成紀に現れた。そこで文帝は公孫臣を召して博士とし、土徳に基づく暦と制度を起草させ、元年を改めた。張丞相はこれによって自ら身を引き、病気を理由に老齢を訴えた。張蒼が任用した者が中候(官名)となり、大いに不正な利益をむさぼった。帝はこのことで張蒼を責め、張蒼はついに病気として免職となった。張蒼は丞相を十五年務めて免ぜられた。孝景帝の前元五年、張蒼は死んだ。諡は文侯。子の康侯が跡を継ぎ、八年で死んだ。その子の張類が跡を継いで侯となったが、八年後、諸侯の葬儀に臨んで遅れて席に着いたのが不敬に当たるとされ、国は取り潰された。はじめ、張蒼の父は身長が五尺に満たなかったが、張蒼が生まれると、張蒼は身長八尺余りで、侯・丞相となった。張蒼の子もまた背が高かった。孫の張類は身長六尺余りで、法に触れて侯の地位を失った。張蒼は丞相を免ぜられた後、年老いて口の中に歯がなくなり、乳を飲んで暮らし、女性を乳母とした。妻妾は百人を数えたが、一度身ごもった者は二度と寵愛しなかった。張蒼は百歳余りで死んだ。
解説
関連する章句
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史記 張丞相列伝張丞相蒼(ちやうじやうしやうさう)は、陽武の人なり。書・律歴を好む。秦の時に御史と為り、柱下の方書を主る。罪有りて、亡げ帰る。沛公の地を略して陽武を過ぐるに及び、蒼は客を以て従ひて南陽を攻む。蒼は法に坐して斬に当たり、衣を解きて質に伏す。身長大にして、肥白なること瓠(ひさご)の如し。時に王陵見て其の美士なるを怪しみ、乃ち沛公に言ひて、赦して斬らざらしむ。遂に従ひて西のかた武関に入り、咸陽に至る。沛公立ちて漢王と為り、漢中に入り、還りて三秦を定む。陳餘、常山王張耳を撃ちて走らす。耳、漢に帰す。漢乃ち張蒼を以て常山の守と為す。淮陰侯に従ひて趙を撃ち、蒼、陳餘を得たり。趙の地已に平らぎ、漢王、蒼を以て代の相と為し、辺寇に備へしむ。已にして徙りて趙の相と為り、趙王耳に相たり。耳卒し、趙王敖に相たり。復た徙りて代王に相たり。燕王臧荼反し、高祖往きて之を撃つ。蒼は代の相を以て従ひて臧荼を攻めて功有り、六年中を以て封ぜられて北平侯と為り、食邑千二百戸。遷りて計相と為り、一月にして、更に列侯を以て主計と為ること四歳。是の時蕭何相国為り。而して張蒼は乃ち秦の時より柱下の史と為り、天下の図書・計籍に明習す。蒼又善く算・律歴を用ふ。故に蒼をして列侯を以て相府に居り、郡国の上計する者を領主せしむ。黥布反して亡び、漢、皇子長を立てて淮南王と為し、而して張蒼之に相たり。十四年、遷りて御史大夫と為る。
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史記 張丞相列伝使者三たび反(かへ)れども、周昌固く為に趙王を遣らず。是に於て高后之を患へ、乃ち使をして周昌を召さしむ。周昌至り、高后に謁す。高后怒りて周昌を罵りて曰く、「爾(なんぢ)我の戚氏を怨むを知らざるか。而るに趙王を遣らざるは、何ぞや」と。昌既に徴され、高后、使をして趙王を召さしむ。趙王果たして来たる。長安に至りて月余、薬を飲みて死す。周昌因りて病を謝して朝見せず、三歳にして死す。後五歳、高后、御史大夫江邑侯趙堯の高祖の時に趙王如意を定むるの画(はかりごと)を聞き、乃ち堯を罪に抵(あ)て、広阿侯任敖を以て御史大夫と為す。任敖は、故(もと)沛の獄吏なり。高祖嘗て吏を辟(さ)く。吏、呂后を繋ぎ、之を遇すること謹まず。任敖素より高祖に善し。怒りて、呂后を主る吏を撃ち傷つく。高祖初めて起つに及び、敖は客を以て従ひて御史と為り、豊を守ること二歳。高祖立ちて漢王と為り、東のかた項籍を撃つ。敖遷りて上党の守と為る。陳豨反せし時、敖堅く守り、封ぜられて広阿侯と為り、食千八百戸。高后の時に御史大夫と為る。三歳にして免ぜられ、平陽侯曹窋を以て御史大夫と為す。高后崩じ、(不)大臣と共に呂禄等を誅す。免ぜられ、淮南の相張蒼を以て御史大夫と為す。蒼、絳侯等と代王を尊立して孝文皇帝と為す。四年、丞相灌嬰卒し、張蒼丞相と為る。漢興りてより孝文に至るまで二十余年、会(たまたま)天下初めて定まり、将相公卿は皆軍吏なり。張蒼は計相為りし時、律歴を緒正す。高祖の十月を以て始めて霸上に至りしを以て、故の秦の時に本十月を以て歳首と為すに因りて、革めず。五徳の運を推して、以為へらく漢は水徳の時に当たると。黒を尚ぶこと故の如し。律を吹き楽を調へ、之を音声に入れ、及び以て律令を比定す。百工の若きは、天下に程品を作る。丞相と為るに至りて、卒に之を就(な)す。故に漢家の律歴を言ふ者は、之を張蒼に本づく。
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史記 張丞相列伝後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、関内侯と為り、列侯を失ひ、其の故の国邑を食むを得。魏丞相卒し、御史大夫邴吉を以て代はらしむ。邴丞相吉は、魯国の人なり。読書して法令を好むを以て御史大夫に至る。孝宣帝の時、旧故有るを以て、封ぜられて列侯と為り、而して因りて丞相と為る。事に明らかにして、大智有り。後世之を称す。丞相を以て病みて死す。子顕嗣ぐ。後、騎して廟に至り不敬なるに坐して、詔有りて爵一級を奪はれ、列侯を失ひ、故の国邑を食むを得。顕は吏と為りて太僕に至り、官の秏乱し、身及び子男に姦贓有るに坐して、免ぜられて庶人と為る。邴丞相卒し、黄丞相代はる。長安中に善く相する工の田文なる者有り。韋丞相・魏丞相・邴丞相の微賤なる時に客家に会す。田文言ひて曰く、「今此の三君は、皆丞相なり」と。其の後三人竟に更(こもごも)相代はりて丞相と為る。何ぞ見ることの明らかなるや。黄丞相霸は、淮陽の人なり。読書を以て吏と為り、潁川の太守に至る。潁川を治むるに、礼義条教を以て喩告して之を化す。法を犯す者は、風曉して自殺せしむ。化大いに行はれ、名声聞こゆ。孝宣帝制を下して曰く、「潁川の太守霸、詔令を宣布するを以て民を治め、道に遺ちたるを拾はず、男女路を異にし、獄中に重囚無し。爵関内侯、黄金百斤を賜ふ」と。徴されて京兆尹と為りて丞相に至り、復た礼義を以て治を為す。丞相を以て病みて死す。子嗣ぎ、後列侯と為る。黄丞相卒し、御史大夫于定国を以て代はらしむ。于丞相は已に廷尉伝有り、張廷尉の語中に在り。于丞相去り、御史大夫韋玄成代はる。韋丞相玄成は、即ち前の韋丞相の子なり。父に代はり、後列侯を失ふ。其の人少き時に読書を好み、詩・論語に明らかなり。吏と為りて衛尉に至り、徙りて太子太傅と為る。
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史記 張丞相列伝太史公曰く、「張蒼は文学律歴もて、漢の名相と為るも、賈生・公孫臣等の正朔服色の事を言ふを絀けて遵はず、明らかに秦の顓頊暦を用ゐるは、何ぞや。周昌は、木彊の人なり。任敖は旧徳を以て用ゐらる。申屠嘉は剛毅守節と謂ふ可し、然れども術学無く、殆ど蕭・曹・陳平と異なるかな」と。
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史記 孝文本紀帝自ら将として匈奴を撃たんと欲す、群臣諫むるも、皆聴かず。皇太后固く帝を要(と)む、帝乃ち止む。是に於て東陽侯張相如を以て大将軍と為し、成侯赤を内史と為し、欒布を将軍と為し、匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。春、上曰く、「朕犧牲珪幣を執りて以て上帝宗廟に事ふるを獲ること、今に十四年、日を歴ること(縣)[綿]長し、不敏不明を以て久しく天下を撫臨す、朕甚だ自ら愧づ。其れ広く諸祀の墠場珪幣を増せ。昔先王は遠く施して其の報を求めず、望祀して其の福を祈らず、賢を右にして戚を左にし、民を先にして己を後にす、至明の極みなり。今吾聞く祠官の祝釐、皆福を朕が躬に帰し、百姓の為にせずと、朕甚だ之を愧づ。夫れ朕の不徳を以て、躬ら独り其の福を享けて美とし、百姓与らず、是れ吾が不徳を重ぬるなり。其れ祠官をして敬を致し、祈る所有る毋からしめよ。」と。是の時北平侯張蒼丞相為り、方に律暦を明らかにす。魯人公孫臣上書して終始伝五徳の事を陳べ、言ふ方今土徳の時なり、土徳は黄龍の見はるるに応ず、当に正朔服色制度を改むべしと。天子其の事を下して丞相と議せしむ。丞相推して以為へらく今は水徳なり、始めて正十月を明らかにし黒を上ぶ事と、以て其の言非なりと為し、請ひて之を罷む。十五年、黄龍成紀に見はる、天子乃ち復た魯の公孫臣を召し、以て博士と為し、土徳の事を申明せしむ。是に於て上乃ち詔を下して曰く、「異物の神有りて成紀に見はる、民に害無く、歳以て有年なり。朕親ら上帝諸神を郊祀せん。礼官議せよ、諱みて以て朕を労する毋かれ。」と。有司礼官皆曰く、「古者天子夏躬ら親しく上帝を郊に礼祀す、故に郊と曰ふ。」と。是に於て天子始めて雍に幸し、郊して五帝に見え、孟夏四月を以て礼に答ふ。趙人新垣平望気を以て見え、因りて上に説きて渭陽の五廟を設立せしむ。周鼎を出ださんと欲すれば、当に玉英の見はるる有るべしと。
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史記 張丞相列伝鄧通既に至り、文帝の為に泣きて曰く、「丞相幾(ほと)んど臣を殺さんとす」と。嘉丞相為ること五歳、孝文帝崩じ、孝景帝即位す。二年、晁錯内史と為り、貴幸せられて事を用ふ。諸法令多く変更を請ふ所あり。謫罰を以て諸侯を侵削せんと議す。而して丞相嘉は自ら言ふ所の用ひられざるを絀(くつ)とし、錯を疾む。錯内史為りしとき、門東に出で、便ならず。更に一門を穿ちて南に出だす。南に出づる者は、太上皇の廟の堧垣(ぜんゑん)なり。嘉之を聞き、此に因りて錯の擅に宗廟の垣を穿ちて門と為すを法(のつと)らんと欲し、奏して錯を誅せんことを請ふ。錯の客に錯に語る有り。錯恐れ、夜宮に入りて上謁し、自ら景帝に帰す。朝に至りて、丞相、内史錯を誅せんことを奏請す。景帝曰く、「錯の穿ちし所は真の廟垣に非ず、乃ち外の堧垣なり。故に他官其の中に居る。且つ又我之を為さしむ。錯罪無し」と。朝を罷め、嘉、長史に謂ひて曰く、「吾先づ錯を斬らずして、乃ち先づ之を請ひ、錯の売る所と為りしを悔ゆ」と。舎に至り、因りて血を欧(は)きて死す。謚して節侯と為す。子の共侯蔑代はり、三年にして卒す。子の侯去病代はり、三十一年にして卒す。子の侯臾代はり、六歳にして、九江の太守と為りて故の官の送るを受けて罪有るに坐して、国除かる。申屠嘉死せしより後、景帝の時、開封侯陶青・桃侯劉舍丞相と為る。今上の時に及び、柏至侯許昌・平棘侯薛沢・武彊侯荘青翟・高陵侯趙周等丞相と為る。皆列侯の継嗣を以て、娖娖(さくさく)として廉謹、丞相と為りて員に備はるのみ。能く功名を発明して当世に著はるる者有る所無し。
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