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史記 / 張丞相列伝

使者三反,周昌固為不遣趙王。於是高后患之,乃使使召周昌。周昌至,謁高后,高后怒而罵周昌曰:「爾不知我之怨戚氏乎?而不遣趙王,何?」昌既徵,高后使使召趙王,趙王果來。至長安月餘,飲藥而死。周昌因謝病不朝見,三歲而死。後五歲,高后聞御史大夫江邑侯趙堯高祖時定趙王如意之畫,乃抵堯罪,以廣阿侯任敖為御史大夫。任敖者,故沛獄吏。高祖嘗辟吏,吏系呂后,遇之不謹。任敖素善高祖,怒,擊傷主呂后吏。及高祖初起,敖以客從為御史,守豐二歲,高祖立為漢王,東擊項籍,敖遷為上黨守。陳豨反時,敖堅守,封為廣阿侯,食千八百戶。高后時為御史大夫。三歲免,以平陽侯曹窋為御史大夫。高后崩,與大臣共誅呂祿等。免,以淮南相張蒼為御史大夫。蒼與絳侯等尊立代王為孝文皇帝。四年,丞相灌嬰卒,張蒼為丞相。自漢興至孝文二十餘年,會天下初定,將相公卿皆軍吏。張蒼為計相時,緒正律歷。以高祖十月始至霸上,因故秦時本以十月為歲首,弗革。推五德之運,以為漢當水德之時,尚黑如故。吹律調樂,入之音聲,及以比定律令。若百工,天下作程品。至於為丞相,卒就之,故漢家言律歷者,本之張蒼。

新字:使者三反,周昌固為不遣趙王。於是高后患之,乃使使召周昌。周昌至,謁高后,高后怒而罵周昌曰:「爾不知我之怨戚氏乎?而不遣趙王,何?」昌既徴,高后使使召趙王,趙王果来。至長安月余,飲薬而死。周昌因謝病不朝見,三歳而死。後五歳,高后聞御史大夫江邑侯趙堯高祖時定趙王如意之画,乃抵堯罪,以広阿侯任敖為御史大夫。任敖者,故沛獄吏。高祖嘗辟吏,吏系呂后,遇之不謹。任敖素善高祖,怒,撃傷主呂后吏。及高祖初起,敖以客従為御史,守豊二歳,高祖立為漢王,東撃項籍,敖遷為上党守。陳豨反時,敖堅守,封為広阿侯,食千八百戸。高后時為御史大夫。三歳免,以平陽侯曹窋為御史大夫。高后崩,与大臣共誅呂禄等。免,以淮南相張蒼為御史大夫。蒼与絳侯等尊立代王為孝文皇帝。四年,丞相灌嬰卒,張蒼為丞相。自漢興至孝文二十余年,会天下初定,将相公卿皆軍吏。張蒼為計相時,緒正律歴。以高祖十月始至覇上,因故秦時本以十月為歳首,弗革。推五徳之運,以為漢当水徳之時,尚黒如故。吹律調楽,入之音声,及以比定律令。若百工,天下作程品。至於為丞相,卒就之,故漢家言律歴者,本之張蒼。

書き下し

使者三たび反(かへ)れども、周昌固く為に趙王を遣らず。是に於て高后之を患へ、乃ち使をして周昌を召さしむ。周昌至り、高后に謁す。高后怒りて周昌を罵りて曰く、「爾(なんぢ)我の戚氏を怨むを知らざるか。而るに趙王を遣らざるは、何ぞや」と。昌既に徴され、高后、使をして趙王を召さしむ。趙王果たして来たる。長安に至りて月余、薬を飲みて死す。周昌因りて病を謝して朝見せず、三歳にして死す。後五歳、高后、御史大夫江邑侯趙堯の高祖の時に趙王如意を定むるの画(はかりごと)を聞き、乃ち堯を罪に抵(あ)て、広阿侯任敖を以て御史大夫と為す。任敖は、故(もと)沛の獄吏なり。高祖嘗て吏を辟(さ)く。吏、呂后を繋ぎ、之を遇すること謹まず。任敖素より高祖に善し。怒りて、呂后を主る吏を撃ち傷つく。高祖初めて起つに及び、敖は客を以て従ひて御史と為り、豊を守ること二歳。高祖立ちて漢王と為り、東のかた項籍を撃つ。敖遷りて上党の守と為る。陳豨反せし時、敖堅く守り、封ぜられて広阿侯と為り、食千八百戸。高后の時に御史大夫と為る。三歳にして免ぜられ、平陽侯曹窋を以て御史大夫と為す。高后崩じ、(不)大臣と共に呂禄等を誅す。免ぜられ、淮南の相張蒼を以て御史大夫と為す。蒼、絳侯等と代王を尊立して孝文皇帝と為す。四年、丞相灌嬰卒し、張蒼丞相と為る。漢興りてより孝文に至るまで二十余年、会(たまたま)天下初めて定まり、将相公卿は皆軍吏なり。張蒼は計相為りし時、律歴を緒正す。高祖の十月を以て始めて霸上に至りしを以て、故の秦の時に本十月を以て歳首と為すに因りて、革めず。五徳の運を推して、以為へらく漢は水徳の時に当たると。黒を尚ぶこと故の如し。律を吹き楽を調へ、之を音声に入れ、及び以て律令を比定す。百工の若きは、天下に程品を作る。丞相と為るに至りて、卒に之を就(な)す。故に漢家の律歴を言ふ者は、之を張蒼に本づく。

現代語訳

使者が三度往復しても、周昌は頑として趙王を送り出さなかった。そこで高后(呂后)はこれに困り、使者を送って周昌を召し出した。周昌がやって来て高后に謁見すると、高后は怒って周昌を罵った。「お前は、私が戚氏を恨んでいることを知らないのか。それなのに趙王をよこさないのはどういうことか」。周昌が召し出されてしまうと、高后は使者を送って趙王を召し出し、趙王はやはり来た。長安に着いて一か月余りで、(毒)薬を飲まされて死んだ。周昌はこれを機に病気を理由に朝見せず、三年後に死んだ。その五年後、高后は、御史大夫で江邑侯の趙堯が高祖の時代に趙王如意を守るための策を立てたことを聞き、趙堯を罪に落とし、広阿侯の任敖を御史大夫とした。任敖は、もとは沛の獄吏であった。高祖がかつて役人から身を隠していたとき、役人が呂后を捕らえて獄につなぎ、手荒く扱った。任敖は日頃から高祖と親しかったので、怒って、呂后の担当の役人を打ちすえて傷を負わせた。高祖が挙兵すると、任敖は客分として従って御史となり、豊を二年守った。高祖が漢王となり、東へ項籍を撃つと、任敖は上党の郡守に移った。陳豨が反乱したとき、任敖は堅く守り、広阿侯に封ぜられ、食邑は千八百戸であった。高后の時代に御史大夫となり、三年で免ぜられ、平陽侯の曹窋が御史大夫となった。高后が崩ずると、(曹窋は)大臣たちとともに呂禄らを誅殺した。(のち曹窋は)免ぜられ、淮南の相の張蒼が御史大夫となった。張蒼は絳侯(周勃)らとともに代王を推し立てて孝文皇帝とした。(文帝)四年、丞相の灌嬰が死ぬと、張蒼が丞相となった。漢が興ってから孝文帝に至るまでの二十余年間は、ちょうど天下が平定されたばかりで、将軍・宰相・公卿は皆もと軍人であった。張蒼は計相であったとき、律暦を整理して正した。高祖が十月に初めて霸上に到着したことから、もともと秦が十月を年の始めとしていたのを踏襲して、改めなかった。五徳の運行(王朝が木火土金水の徳を順に受け継ぐという説)を推算して、漢は水徳の時に当たるとし、秦と同じく黒色を尊んだ。律管を吹いて音楽を調え、それを音声に当てはめ、さらにそれによって律令を照らし定めた。また各種の工人については、天下に規格と基準を作った。丞相になるに及んで、ついにそれを完成させた。それゆえ漢で律暦を論じる者は、張蒼を根本とする。

解説

呂后の報復と、その後の人事の移り変わりを描く段です。周昌は三度まで趙王を守りましたが、自分が召し出されるとその盾は外れ、趙王は長安で毒殺されます。さらに呂后は、かつて周昌を趙の相にする策を立てた趙堯までさかのぼって罪に落としました。代わった任敖は、若き日に獄中の呂后をかばって役人を殴った恩人です。司馬遷は、人事が功績ではなく個人的な恩怨で動く時代を静かに記録しています。後半では張蒼が再び中心に戻り、暦の歳首や五徳説、度量衡の基準を整えて漢の制度の土台を作ったことが語られます。政変の荒波の下で、制度を黙々と作った実務家がいたという対比です。人の好き嫌いで動く人事と、長く残る仕組みづくりの違いを考えさせられます。

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