政談 / 人の扱の發端
國の締り財の賑ひの仕樣は第一第二の卷に之を記し、尙ほ又之を取捌くは役人也、是に依りて役儀の立て樣に仕方あり、是れ治めの根本なり、當時役儀の立樣等に聊か宜しからさることどもある也、其事ども左に之を記す、
新字:国の締り財の賑ひの仕様は第一第二の巻に之を記し、尚ほ又之を取捌くは役人也、是に依りて役儀の立て様に仕方あり、是れ治めの根本なり、当時役儀の立様等に聊か宜しからさることどもある也、其事ども左に之を記す、
書き下し
国の締り財の賑ひの仕様は第一第二の巻に之を記し、尚ほ又之を取捌くは役人也、是に依りて役儀の立て様に仕方あり、是れ治めの根本なり、当時役儀の立様等に聊か宜しからさることどもある也、其事ども左に之を記す、
現代語訳
国の締まりと財の賑わいのやり方は第一・第二の巻にこれを記した。なおまたこれを取り捌くのは役人である。これによって役儀の立て方にやり方がある。これが治めの根本である。今は役儀の立て方などにいささかよろしくないことどもがある。そのことどもを次にこれを記す。
解説
第三巻の冒頭に置かれた短い導入である。第一巻で戸籍や土着による国の締まりを、第二巻で物価・貨幣・貸借による財の賑わいを論じた徂徠は、それを実際に運用するのは役人だとして、役職の立て方こそ治めの根本だと宣言する。ここから官位・勲階、頭助允目の職階、職掌の分担、器量の見分けへと話が進む。どれほどよい政策も、担う人と組織の設計が悪ければ動かない。戦略を語った後に組織と人事を語るこの構成は、現代の経営書の順序とも重なり、制度論の要に人を据える徂徠の考えをよく示している。
この章句が説くこと
役人組織人事治道政談制度
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『講孟余話』盡心上 第四十章又徳ありて材なき者あり、材ありて徳なき者あり。材なき、徳なきと云ふ者は、某材某徳と指し云ふべきなきを云ふ。愚鈍無材、狂悖失徳の人を云はず。君側諸官並びに目付役等は必ずしも材を要せず、只徳を選ぶべし。治民の職は治民の材あり、理財の職は理財の材あり、軍務の職は軍務の材あり。公儀人は幕府列藩の制度・格例・事体・事情に通ずる人なるべし。物頭は弓銃の技、坐作の節、陣営の法、戦闘の機を悟る人なるべし。所謂「賢者位に在り、能者職に在り」と云ふも此の事にて、賢者は即ち有徳の人なり、能者は即ち有材の人なり。而して徳材を兼ねて教ふる者は君子なり、賢能を合せ用ゐる者は君相なり。君子を以て是れを教ふる時は、徳は実徳となりて、迂闊事情に通ぜざるの愚物を指して徳とするに至らず。材は実材となりて、譎詐姦慝の悪漢を目して材とするに至らず。譬へば明君良相の所謂賢は無能の異名に非ず、所謂能は不賢の偽作に非ざるが如し。
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司馬法・定爵将は身なり、卒は支(し)なり、伍は指拇(しぼ)なり。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・これを散ずれば明なりこれを集むれば暗なり私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして、一愚人の事を行なうものと言うべし。あに怪しまざるを得んや。畢竟その然る所以は、かの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民を御し、その知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強ゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容を作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるには、ただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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