政談 / 官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事
古より官位爵祿と云ふことあり、官と云ふは今の役儀なり、位と云ふは今の座席也、爵と云ふは官位の外に別に規模なることを拵へ置て、之を人に賜はることなる故今の官位なり、今の官位も古公家の代には役儀を官と云ひ、座席を位と云へとも、今は皆名はかりになりて、當時は武家の役と席との外に別に官位を設くることなれは、今の官位は古の爵にあたるなり、根は古も今も變りなし、然るに當時は一役一席に定めて、役と席と離したものなる故、役の進めは席をも進み、役の下くれは席も下かることの段不便利なることなり、古にも官と位とに相當あれとも、或は官高く位低きも有り、或ば官低きく位高きもあり、强ちに一樣ならぬに仔細あることなり、當時の如く役と席とを離れたものに拵へ置くときは、役の替れは席も必らす夫に連れて替はる、
新字:古より官位爵禄と云ふことあり、官と云ふは今の役儀なり、位と云ふは今の座席也、爵と云ふは官位の外に別に規模なることを拵へ置て、之を人に賜はることなる故今の官位なり、今の官位も古公家の代には役儀を官と云ひ、座席を位と云へとも、今は皆名はかりになりて、当時は武家の役と席との外に別に官位を設くることなれは、今の官位は古の爵にあたるなり、根は古も今も変りなし、然るに当時は一役一席に定めて、役と席と離したものなる故、役の進めは席をも進み、役の下くれは席も下かることの段不便利なることなり、古にも官と位とに相当あれとも、或は官高く位低きも有り、或ば官低きく位高きもあり、強ちに一様ならぬに仔細あることなり、当時の如く役と席とを離れたものに拵へ置くときは、役の替れは席も必らす夫に連れて替はる、
書き下し
古より官位爵禄と云ふことあり、官と云ふは今の役儀なり、位と云ふは今の座席也、爵と云ふは官位の外に別に規模なることを拵へ置て、之を人に賜はることなる故今の官位なり、今の官位も古公家の代には役儀を官と云ひ、座席を位と云へとも、今は皆名はかりになりて、当時は武家の役と席との外に別に官位を設くることなれは、今の官位は古の爵にあたるなり、根は古も今も変りなし、然るに当時は一役一席に定めて、役と席と離したものなる故、役の進めは席をも進み、役の下くれは席も下かることの段不便利なることなり、古にも官と位とに相当あれとも、或は官高く位低きも有り、或ば官低きく位高きもあり、強ちに一様ならぬに仔細あることなり、当時の如く役と席とを離れたものに拵へ置くときは、役の替れは席も必らす夫に連れて替はる、
現代語訳
古から官・位・爵・禄ということがある。官というのは今の役儀である。位というのは今の座席である。爵というのは官位のほかに別に名誉となることをこしらえておいて、これを人に賜わることなので、今の官位である。今の官位も、古の公家の代には役儀を官といい、座席を位といったが、今は皆名ばかりになって、今は武家の役と席とのほかに別に官位を設けることであるから、今の官位は古の爵にあたるのである。根本は古も今も変わりはない。それなのに今は一役一席と定めて、役と席とを離れないものとしているので、役が進めば席も進み、役が下がれば席も下がるということは不便なことである。古にも官と位とに相当はあるが、あるいは官が高く位が低いこともあり、あるいは官が低く位が高いこともあり、強ちに一様でないのには子細があることである。今のように役と席とを離れないものにこしらえておくときは、役が替われば席も必ずそれに連れて替わる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 張丞相列伝使者三たび反(かへ)れども、周昌固く為に趙王を遣らず。是に於て高后之を患へ、乃ち使をして周昌を召さしむ。周昌至り、高后に謁す。高后怒りて周昌を罵りて曰く、「爾(なんぢ)我の戚氏を怨むを知らざるか。而るに趙王を遣らざるは、何ぞや」と。昌既に徴され、高后、使をして趙王を召さしむ。趙王果たして来たる。長安に至りて月余、薬を飲みて死す。周昌因りて病を謝して朝見せず、三歳にして死す。後五歳、高后、御史大夫江邑侯趙堯の高祖の時に趙王如意を定むるの画(はかりごと)を聞き、乃ち堯を罪に抵(あ)て、広阿侯任敖を以て御史大夫と為す。任敖は、故(もと)沛の獄吏なり。高祖嘗て吏を辟(さ)く。吏、呂后を繋ぎ、之を遇すること謹まず。任敖素より高祖に善し。怒りて、呂后を主る吏を撃ち傷つく。高祖初めて起つに及び、敖は客を以て従ひて御史と為り、豊を守ること二歳。高祖立ちて漢王と為り、東のかた項籍を撃つ。敖遷りて上党の守と為る。陳豨反せし時、敖堅く守り、封ぜられて広阿侯と為り、食千八百戸。高后の時に御史大夫と為る。三歳にして免ぜられ、平陽侯曹窋を以て御史大夫と為す。高后崩じ、(不)大臣と共に呂禄等を誅す。免ぜられ、淮南の相張蒼を以て御史大夫と為す。蒼、絳侯等と代王を尊立して孝文皇帝と為す。四年、丞相灌嬰卒し、張蒼丞相と為る。漢興りてより孝文に至るまで二十余年、会(たまたま)天下初めて定まり、将相公卿は皆軍吏なり。張蒼は計相為りし時、律歴を緒正す。高祖の十月を以て始めて霸上に至りしを以て、故の秦の時に本十月を以て歳首と為すに因りて、革めず。五徳の運を推して、以為へらく漢は水徳の時に当たると。黒を尚ぶこと故の如し。律を吹き楽を調へ、之を音声に入れ、及び以て律令を比定す。百工の若きは、天下に程品を作る。丞相と為るに至りて、卒に之を就(な)す。故に漢家の律歴を言ふ者は、之を張蒼に本づく。
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『墨子』尚同中故に古者の正長を置くや、將に以て民を治めんとするなり。之を譬うるに絲縷に紀有り、而して罔罟に綱有るが若きなり。將に以て天下の淫暴を運役して其の義を一同せんとするなり。是を以て先王の書、相年の道いて曰く、「夫れ國を建て都を設け、乃ち后王君公を作るは、泰を用うるに否ざるなり。大夫師長を輕んずるは、佚を用うるに否ざるなり。維れ辯じて天均を治めしむ」と。則ち此れ古者、上帝鬼神の國都を建設し正長を立つるは、其の爵を髙くし、其の祿を厚くし、富貴佚樂にして之を錯くに非ず、將に以て萬民の為に利を興し害を除き、貧寡を富貴にし、危亂を安治にせんとするを語るなり。故に古者、聖王の為すこと此くの若し。
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『講孟余話』公孫丑下 第五章「霊丘を辞して士師を請ふ」。霊丘は下邑なり、其の大夫は今の代官の類にして、而も常に治所に居る。故に都城に遠くして、数々得失を上言することを得ず。故に士師を請ふ。士師は都城の官なれば、上言も心の儘なるを以てなり。漢の武帝元狩五年、初めて諫大夫を置く。是れより以前は諫官と云ふ者なき故に、諸官皆上言することを得しなり。註に「士師は王に近く、以て刑罰の中らざる者を諫むることを得」と云ふ。然れども士師の言ふことを得る、恐らくは刑罰を諫むるに止まらざるべし。
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『韓非子』難勢第四十堯も匹夫為らば、三人を治むること能わじ、而して桀天子為れば、能く天下を亂る。吾此を以て勢位の恃むに足り、而して賢智の慕うに足らざるを知るなり。
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『政談』譜代者の事偖譜代多く持ちたる人をは上よりも軍役の嗜み多きに沙汰し、譜代これなき家をは軍役の嗜みなきに沙汰し、咎有りて奉公人を誅戮するも譜代ものをは真の主従とさばき、出替りものを当分の雇はれものとさばき、また平日も譜代のさむらいには袴を着せ、出替りさむらいにはかまを許すへし、斯の如く取捌かは武家のともがら自然と合点ゆきて、此の風俗改まるへきなり、然れとも畢竟の所武家を知行所に置されは御城下は物入多くて、譜代のものを沢山に持つことなり難かるへし、仙台諏訪などの風俗承り及ひ候に、三四百石とるさむらい何れも譜代のさむらい三四十人も持ちて、さむらいなれとも草履も取り提灯も持つなり、武士軍中にてはもと草履もたいまつも持へき事なり、供一べんと云ふやうなる悪風俗出来して古風は皆失せたりと知るへし、
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『墨子』貴義子墨子曰く、世の君子、之をして一彘の宰と為らしむるに、能わずんば則ち之を辭す。一國の相と為らしむるに、能わざるも之を為す。豈に悖らざらんや。
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