史記 / 樊酈滕灌列伝
復從擊韓信胡騎晉陽下,所將卒斬胡白題將一人。受詔并將燕、趙、齊、梁、楚車騎,擊破胡騎於硰石。至平城,為胡所圍,從還軍東垣。從擊陳豨,受詔別攻豨丞相侯敞軍曲逆下,破之,卒斬敞及特將五人。降曲逆、盧奴、上曲陽、安國、安平。攻下東垣。黥布反,以車騎將軍先出,攻布別將於相,破之,斬亞將樓煩將三人。又進擊破布上柱國軍及大司馬軍。又進破布別將肥誅。嬰身生得左司馬一人,所將卒斬其小將十人,追北至淮上。益食二千五百戶。布已破,高帝歸,定令嬰食穎陰五千戶,除前所食邑。凡從得二千石二人,別破軍十六,降城四十六,定國一,郡二,縣五十二,得將軍二人,柱國、相國各一人,二千石十人。嬰自破布歸,高帝崩,嬰以列侯事孝惠帝及呂太后。太后崩,呂祿等以趙王自置為將軍,軍長安,為亂。齊哀王聞之,舉兵西,且入誅不當為王者。上將軍呂祿等聞之,乃遣嬰為大將,將軍往擊之。嬰行至滎陽,乃與絳侯等謀,因屯兵滎陽,風齊王以誅呂氏事,齊兵止不前。絳侯等既誅諸呂,齊王罷兵歸,嬰亦罷兵自滎陽歸,與絳侯、陳平共立代王為孝文皇帝。孝文皇帝於是益封嬰三千戶,賜黃金千斤,拜為太尉。
新字:復従撃韓信胡騎晋陽下,所将卒斬胡白題将一人。受詔并将燕、趙、斉、梁、楚車騎,撃破胡騎於硰石。至平城,為胡所囲,従還軍東垣。従撃陳豨,受詔別攻豨丞相侯敞軍曲逆下,破之,卒斬敞及特将五人。降曲逆、盧奴、上曲陽、安国、安平。攻下東垣。黥布反,以車騎将軍先出,攻布別将於相,破之,斬亜将楼煩将三人。又進撃破布上柱国軍及大司馬軍。又進破布別将肥誅。嬰身生得左司馬一人,所将卒斬其小将十人,追北至淮上。益食二千五百戸。布已破,高帝帰,定令嬰食穎陰五千戸,除前所食邑。凡従得二千石二人,別破軍十六,降城四十六,定国一,郡二,県五十二,得将軍二人,柱国、相国各一人,二千石十人。嬰自破布帰,高帝崩,嬰以列侯事孝恵帝及呂太后。太后崩,呂禄等以趙王自置為将軍,軍長安,為乱。斉哀王聞之,舉兵西,且入誅不当為王者。上将軍呂禄等聞之,乃遣嬰為大将,将軍往撃之。嬰行至滎陽,乃与絳侯等謀,因屯兵滎陽,風斉王以誅呂氏事,斉兵止不前。絳侯等既誅諸呂,斉王罷兵帰,嬰亦罷兵自滎陽帰,与絳侯、陳平共立代王為孝文皇帝。孝文皇帝於是益封嬰三千戸,賜黄金千斤,拝為太尉。
書き下し
復た従ひて韓信の胡騎を晋陽の下に撃ち、将ゐる所の卒胡の白題の将一人を斬る。詔を受けて燕・趙・斉・梁・楚の車騎を并せ将ゐ、胡騎を硰石に撃破す。平城に至り、胡の囲む所と為り、従ひて還りて東垣に軍す。従ひて陳豨を撃ち、詔を受けて別れて豨の丞相侯敞の軍を曲逆の下に攻め、之を破り、卒に敞及び特将五人を斬る。曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降す。東垣を攻め下す。黥布反し、車騎将軍を以て先づ出で、布の別将を相に攻め、之を破り、亜将・楼煩の将三人を斬る。又進みて布の上柱国の軍及び大司馬の軍を撃破す。又進みて布の別将肥誅を破る。嬰身ら左司馬一人を生け得、将ゐる所の卒其の小将十人を斬り、北ぐるを追ひて淮上に至る。二千五百戸を益食す。布已に破れ、高帝帰り、定めて嬰をして潁陰の五千戸に食ましめ、前に食む所の邑を除く。凡そ従ひて二千石二人を得、別れて軍を破ること十六、城を降すこと四十六、国一・郡二・県五十二を定め、将軍二人、柱国・相国各一人、二千石十人を得。嬰布を破りて帰りしより、高帝崩じ、嬰列侯を以て孝恵帝及び呂太后に事ふ。太后崩じ、呂禄等趙王を以て自ら置きて将軍と為り、長安に軍し、乱を為す。斉の哀王之を聞き、兵を挙げて西し、且に入りて当に王たるべからざる者を誅せんとす。上将軍呂禄等之を聞き、乃ち嬰を遣はして大将と為し、軍を将ゐて往きて之を撃たしむ。嬰行きて滎陽に至り、乃ち絳侯等と謀り、因りて兵を滎陽に屯し、斉王に風するに呂氏を誅するの事を以てし、斉の兵止まりて前まず。絳侯等既に諸呂を誅し、斉王兵を罷めて帰り、嬰も亦た兵を罷めて滎陽より帰り、絳侯・陳平と共に代王を立てて孝文皇帝と為す。孝文皇帝是に於て嬰に三千戸を益封し、黄金千斤を賜ひ、拝して太尉と為す。
現代語訳
(灌嬰は)また韓王信の胡人の騎兵を晋陽の城下で撃つのに従い、率いる兵が胡の白題族の将一人を斬った。詔を受けて燕・趙・斉・梁・楚の車騎をまとめて率い、胡人の騎兵を硰石(させき)で撃破した。平城に至ったところで匈奴に包囲され、高帝に従って引き返し、東垣に陣取った。陳豨の討伐に従い、詔を受けて別動隊で陳豨の丞相侯敞の軍を曲逆の城下で攻めて破り、兵が侯敞と特将五人を斬った。曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降伏させた。東垣を攻め落とした。黥布が謀反すると、車騎将軍として真っ先に出陣し、黥布の別将を相で攻めて破り、亜将と楼煩の将三人を斬った。さらに進んで黥布の上柱国の軍と大司馬の軍を撃破した。さらに進んで黥布の別将肥誅を破った。嬰は自ら左司馬一人を生け捕りにし、率いる兵がその小将十人を斬り、敗走する敵を追って淮水のほとりに至った。二千五百戸を加増された。黥布が破られ、高帝が帰還すると、嬰の食邑を潁陰の五千戸と定め、それまでの食邑は取りやめとなった。生涯を通じて、高帝に従っては二千石の者二人を捕らえ、別動隊としては敵軍を破ること十六、城を降すこと四十六、国一・郡二・県五十二を平定し、将軍二人、柱国と相国を各一人、二千石の者十人を捕らえた。嬰が黥布を破って帰還した後、高帝が崩御し、嬰は列侯として孝恵帝と呂太后に仕えた。太后が崩御すると、呂禄らは趙王の身でありながら自ら将軍の座に就き、長安に兵を置いて乱を起こそうとした。斉の哀王はこれを聞くと、兵を挙げて西へ向かい、都に入って王となるべきでない者たちを誅殺しようとした。上将軍の呂禄らはこれを聞き、嬰を大将として軍を率いて斉を撃たせた。嬰は進んで滎陽に至ると、絳侯らと謀り、兵を滎陽にとどめて、呂氏を誅滅する計画を斉王にそれとなく伝えたので、斉の兵は止まって前進しなかった。絳侯らが呂氏一族を誅滅すると、斉王は兵を引いて帰国し、嬰もまた兵を引いて滎陽から帰り、絳侯・陳平とともに代王を立てて孝文皇帝とした。孝文皇帝はそこで嬰に三千戸を加増し、黄金千斤を与え、太尉に任じた。
解説
関連する章句
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史記 樊酈滕灌列伝高祖の崩ずるを竟ふ。太僕を以て孝恵に事ふ。孝恵帝及び高后嬰の孝恵・魯元を下邑の間に脱せしを徳とし、乃ち嬰に県の北の第の第一を賜ひ、「我に近し」と曰ひ、以て之を尊異す。孝恵帝崩じ、太僕を以て高后に事ふ。高后崩じ、代王の来るや、嬰太僕を以て東牟侯と入りて宮を清め、少帝を廃し、天子の法駕を以て代王を代邸に迎へ、大臣と共に立てて孝文皇帝と為し、復た太僕と為る。八歳にして卒し、諡して文侯と為す。子夷侯竈立ち、七年にして卒す。子共侯賜立ち、三十一年にして卒す。子侯頗平陽公主を尚る。立つこと十九歳、元鼎二年、父の御婢と姦するの罪に坐し、自殺し、国除かる。潁陰侯灌嬰は、睢陽の繒を販ぐ者なり。高祖の沛公為るや、地を略して雍丘の下に至り、章邯項梁を敗殺し、而して沛公還りて碭に軍し、嬰初め中涓を以て従ひて東郡の尉を成武に、及び秦軍を杠里に撃破し、疾く闘ひ、爵七大夫を賜はる。従ひて秦軍を亳の南・開封・曲遇に攻め、戦ふこと疾力、爵執帛を賜はり、宣陵君と号す。従ひて陽武以西雒陽に至るまでを攻め、秦軍を尸の北に破り、北して河津を絶ち、南して南陽の守齮を陽城の東に破り、遂に南陽郡を定む。西して武関に入り、藍田に戦ひ、疾力にして、霸上に至り、爵執珪を賜はり、昌文君と号す。沛公立ちて漢王と為り、嬰を拝して郎中と為し、従ひて漢中に入り、十月、拝して中謁者と為す。従ひて還りて三秦を定め、櫟陽を下し、塞王を降す。還りて章邯を廃丘に囲むも、未だ抜かず。従ひて東して臨晋関を出で、殷王を撃ち降し、其の地を定む。項羽の将龍且・魏の相項他の軍を定陶の南に撃ち、疾く戦ひ、之を破る。嬰に爵列侯を賜ひ、昌文侯と号し、杜の平郷に食む。復た中謁者を以て従ひて碭を降し下し、以て彭城に至る。項羽撃ちて、大いに漢王を破る。
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史記 樊酈滕灌列伝東して韓信に従ひて龍且・留公旋を高密に攻め、卒に龍且を斬り、右司馬・連尹各一人、楼煩の将十人を生け得、身ら亜将周蘭を生け得。斉の地已に定まり、韓信自ら立ちて斉王と為り、嬰をして別将として楚の将公杲を魯の北に撃たしめ、之を破る。転じて南し、薛郡の長を破り、身ら騎将一人を虜にす。傅陽を攻め、前みて下相以東南の僮・取慮・徐に至る。淮を度り、尽く其の城邑を降し、広陵に至る。項羽項声・薛公・郯公をして復た淮北を定めしむ。嬰淮北を度り、項声・郯公を下邳に撃破し、薛公を斬り、下邳を下し、楚の騎を平陽に撃破し、遂に彭城を降し、柱国項佗を虜にし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降す。苦・譙を攻め、復た亜将周蘭を得。漢王と頤郷に会す。従ひて項籍の軍を陳の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒楼煩の将二人を斬り、騎将八人を虜にす。食邑二千五百戸を賜益す。項籍垓下に敗れて去るや、嬰御史大夫を以て詔を受け車騎を将ゐて別れて項籍を追ひて東城に至り、之を破る。将ゐる所の卒五人共に項籍を斬り、皆爵列侯を賜はる。左右司馬各一人、卒万二千人を降し、尽く其の軍の将吏を得。東城・歴陽を下す。江を渡り、呉郡の長を呉の下に破り、呉の守を得、遂に呉・豫章・会稽郡を定む。還りて淮北を定むること、凡そ五十二県。漢王立ちて皇帝と為り、嬰の邑三千戸を賜益す。其の秋、車騎将軍を以て従ひて燕王臧荼を撃破す。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。還りて、符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、潁陰の二千五百戸に食み、号して潁陰侯と曰ふ。車騎将軍を以て従ひて反せる韓王信を代に撃ち、馬邑に至り、詔を受けて別れて楼煩以北の六県を降し、代の左相を斬り、胡騎を武泉の北に破る。
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史記 樊酈滕灌列伝漢王遁れて西し、嬰従ひて還り、雍丘に軍す。王武・魏公申徒反し、従ひて撃ちて之を破る。外黄を攻め下し、西して兵を収め、滎陽に軍す。楚の騎来ること衆く、漢王乃ち軍中の騎将と為すべき者を択ぶに、皆故の秦の騎士重泉の人李必・駱甲の騎兵に習ひ、今校尉為り、騎将と為すべしと推す。漢王之を拝せんと欲するに、必・甲曰く「臣は故の秦の民なり、軍の臣を信ぜざるを恐る、臣願はくは大王の左右の騎を善くする者を得て之に傅けん」と。灌嬰少しと雖も、然れども数々力戦す、乃ち灌嬰を拝して中大夫と為し、李必・駱甲をして左右の校尉と為し、郎中の騎兵を将ゐて楚の騎を滎陽の東に撃たしめ、大いに之を破る。詔を受けて別れて楚軍の後を撃ち、其の餉道を絶ち、陽武より起こりて襄邑に至る。項羽の将項冠を魯の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒右司馬・騎将各一人を斬る。柘公王武を撃破し、燕の西に軍し、将ゐる所の卒楼煩の将五人、連尹一人を斬る。王武の別将桓嬰を白馬の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒都尉一人を斬る。騎を以て河を渡りて南し、漢王を送りて雒陽に到り、北して相国韓信の軍を邯鄲に迎へしむ。還りて敖倉に至り、嬰遷りて御史大夫と為る。三年、列侯を以て杜の平郷に食邑す。御史大夫を以て詔を受け郎中の騎兵を将ゐて東して相国韓信に属し、斉軍を歴下に撃破し、将ゐる所の卒車騎将軍華毋傷及び将吏四十六人を虜にす。臨菑を降し下し、斉の守相田光を得。斉の相田横を追ひて嬴・博に至り、其の騎を破り、将ゐる所の卒騎将一人を斬り、騎将四人を生け得。嬴・博を攻め下し、斉の将軍田吸を千乗に破り、将ゐる所の卒吸を斬る。
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